前回は神社と耕作地の縁について軽く触れました

 

記事を読んで「こじつけ」ではないか?

なんて思われたでしょうね

 

それでも「こじつけ」しては偶然が重なる節に

合点がいってしまうのですよね。

 

訪れた先は、愛知県豊川市にある「砥鹿神社」で、

東海地方の総鎮守として崇敬されています。

 

  神社の由来

創建に関しては

社記(天正2年…1975年)「三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起」

 

この文献の内容を一部要約すると・・・

 

天保年間(西暦701~704年)文武天皇の在位中、

病を患った天皇の病状を鎮めるため、

勅使として

三河の草鹿砥公宜(くさかどのきんのぶ)が派遣されます。

 

厄事退散を願い

本茂山(現在の本宮山)の奥宮を迎える為、

里宮として建立されたとのことです。

 

本宮山(旧 本茂山)は、

海抜789m標高で豊川市・岡崎市・新城市の市境に位置し、

山頂に奥宮と山麓に里宮が鎮座しています。

(※この里宮から然程遠くない場所に圃場があります。)

 

祭神

神社の祭神は数柱祭られていることがありますが、

この里宮・奥宮は1柱のみで、

その名を「大己貴命(おおなむちのみこと)」と申します。

 

聞き覚えない御神名だと思いますが

またの名を「大国主命(おおくにぬしのみこと)」です。

 

記紀に登場する国津神の主宰神で、

出雲大社や大神神社の祭神でもあり、

後に国譲りをなさった神様ですね。

 

 

  「大祓い祭」と「お茶まつり」

護国豊穣となれば・・・

言い訳を言って素通りすわけにもいかず

きちんとお参りをせねばと思っていたところに

「お茶まつり」の招待状を戴いたんですよね

 

この段階で

わざわざ「切っ掛けを」設えられて

いかざるを得ない状況だと悟りました。

目的は参拝(開拓・開墾の着任)が主であり

初摘み新茶(献茶)をただくのが「馳走」ですかね(;^ω^)

 

本来ならこちらが献撰しなければならないはずですが

それはこの神社ではありませんが

8日になると初採り若しくは最良の作物を収穫し

神前に毎回献撰させていただいております。

 

心では・・・これでお許しください

 

本殿に向かうと「夏季大祓い祭」期間中でした

 

本来なら、大祓いの神言を奏上すべきだったのですが、

そのことは頭から抜け落ち

御挨拶の祝詞を奏上し本殿を後にしました。

 

 

初摘み新茶の「献茶祭」は、

私たちが訪れたときは既に終了しており、

新茶を味わう「お茶まつり(茶会)」が行われていました。

 

そこで会場に向かうも

「相応の身なり(服装)」には程遠く軽装でした。

この格好では茶会列席は不相応・・・・

 

会場受付で「気軽に嗜める場所はありますか?」と尋ねる、

「社務所横の客殿奥に一般用のブースが設けてあります」

丁寧に対応してくださり案内された場所に向かいました。

 

 

これが献撰された新茶かな?

後で知ったのですが三河岡崎一帯は

隣静岡と並ぶ「茶の栽培処」なんだそうです・・・

 

「それで新規圃場には茶の木が幾株もあるのか?」

頭の中で自己解決していました。

 

会場に入ると

一脚で2~3人ほど座れる畳敷の縁台が

数脚整然とならび生け花や茶器なども置かれていました。

 

 

まずは縁台に座るり招待券見せると、

お盆に載せられた茶1杯と茶請の菓子1つが

静々と運ばれてきました。

 

お茶を堪能した後

再度、飾られた色紙・茶器・生け花を鑑賞

 

広い皿鉢には水が張られ金魚が数匹優雅に泳いでいました。

 

もう一つ飾られた生け花には扇子とカエルの置物

 

手造りのぬいぐるみなんでしょうね

 

これかわいかったですよ(^^♪

 

そんなわけで、「お茶まつり」のお膳立てに誘われ

ようやく神社参拝が適いました。

 

素直じゃない私には相当手を焼いことでしょうね

 

  大国主尊の足跡

 

大国主命は、大国様(だいこくさま)と慕われ、

福徳の神・国土開拓の神・縁結びの神として尊崇れ、

交通安全・家運隆昌・厄難消除等の御神徳は、

三河地方はもとより各方面からの篤い崇敬を受けています。

 

この大黒様と呼ばれる所以は、

「ダイコク」音韻とインドの神の大黒天と習合し、

七福神の中の大国様と同一視されたのかもしれませんね。

 

ただ、

国譲り後に全国を巡り歩き国造りを行うにあたり、

少彦名神(すくなひこのかみ)が同行し、

全国の国、山、島などの国土開発事業や、

農業技術の指導普及も行ったとされます。

 

そのことから

国造りに欠かせない農耕・豊穣・出産・婚礼・安全

これらを司る神様として古来より崇められいるのでしょう。

 

 

縁とは粋なもの 

私の先祖をたどれば出身は出雲地方?

 

余りにも複雑すぎているようで

家名からルーツを探る研究家ですら

一族を興した真の本家を探りあてるのは困難で

先祖をたどると必ず足跡が途切れ匙を投げるそうな

 

そんな私も

中国地方~関西~近江~東海~三河と

だんだん東へと拠点を移してきました。

 

農耕にかかわるようになっても

結局は西には見つけられなくなり東遷しています。

 

ここにきて三河か・・・・

こじつけと思われてもいいです。

 

なんとなく

農事に関しては「呼ばれて腰を据えた」

そう思えてしまうような経緯を感じました。