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メンバー革命

「自己紹介なんてもう古いと思う」とリーダーは鼻くそをほじりながら云った。自分で自分の事を説明するなんてやっぱり根本的に恥ずかしいことだと思うんだよ、とリーダーは今まさに自分が恥ずかしい行為をしていることには全く気にも留めず言い放った。

 発言の語尾のあたりがゴスペラーズを意識していることに気付いたのはサブリーダーだけだった。リーダーにそっとサングラスを手渡すサブリーダー。ところが「いや、あいつ(サングラスの奴)はリーダーじゃねえって」とリーダーは急にテンションを下げて対応してきたので、TOKIOの松岡のように空回りしてるわ自分、今まさに!と懐かしの倒置法で自己嫌悪に陥ったサブリーダーは、「じゃあ自己紹介じゃなくて、他己紹介で!」とコンパのノリで強引に話を進めることにした。

 「えーと、彼は海に住んでいます。骨がありません。足が八本あります。」サブリーダーは「空元気」を鶴太郎が絵に描いたらきっとこうなるだろう、と思わせる空元気さで愉快なボケを放った。が、「それはタコの紹介じゃん」とツッコんでくれるメンバーは誰もいなかった。場は静まり返った。ただ一人リーダーが「ほんま、めっちゃおもろいなあ」と笑っているのをサブリーダーは視界の端に捕えた。

 サブリーダーは涙をサングラスで隠すしかなかった。

私憤の処理方法

 太郎はその自分が持っているピストルが、いつ懐に入れられたものなのか、全く記憶になかった。表現に正確さを期すなら「記憶になかった」というより「記憶がなかった」と云う方が正しいだろう。なぜなら太郎にはそもそも記憶を司る海馬と呼ばれる器官がなかったからだ。しかしさらに表現に正確さを期すなら、海馬というより脳そのものがなかったというべきである。というか太郎は生き物ではなかった。太郎というのはそもそもこの世に存在しなかった。太郎とはピストルのことである。ピストルのことを彼女は太郎と呼んでみた。戯れに。するとピストルは餃子の王将のスタッフを思わせる見事なスピードと対応力でそれに応えた。ピストルは彼女の体内に鉄のかたまりと云う名の弾丸を打ち込んだ。彼女は息をしなくなった。

 という意味のセンテンスを彼女とのセックスの途中、太郎は頭の中で推敲してみた。ピストルとは勿論性器の部分を意味する。我ながら良く出来たセンテンスだと思い、太郎は自分の墓石に記す文としては今まで考えていた「お人好し、ここに死す」よりもあるいは適しているかもしれないとすら考えた。しかし、彼は状況判断を決定的に誤っていた。太郎はセックスをしているのではなく、実験的に、蕎麦を打つ要領でもってピザをこねくり回している最中だったのだ。昨日、店長から「蕎麦ピザ」という新メニューのアイデアを聞かされた太郎は、あまりの悪趣味さについ悪ノリして「じゃあ、焼き方も蕎麦を打つ要領でやってみたらいかがっすか?」などとセンターGUYを意識した喋り方で応えた手前、自ら試作品を作らざるをえなくなっていたのだ。しかし、ピザと蕎麦は実に相性が悪いのだ!

 と、クリードリッチは履歴書の「その他の要望」の欄に米粒にかけるペンでそう書き込んだ。「学歴・職歴」の欄には勿論「no sex,no lifeイムニダ!!」と大きく殴り書いてある。「氏名」の欄には思い切って「司馬遼太郎」と書いてみた。「司馬遼太郎」というペンネームが中国の歴史家「司馬遷」から来ているのは有名な話だが、「司馬」という苗字が「脳の記憶を司る海馬」から来ている事はあまり知られていない、と云ってクリードリッチは履歴書をくしゃくしゃにして丸め捨てた。しかし、その直後に大きな後悔の念に襲われた。なぜならそんな事実は根も葉もないデタラメだと気付いたからだ。名もなき庶民たちが往々にしてそうするように、クリードリッチは自らの怒りの矛先をかつてこの国を支配した権力者、仁徳天皇にぶつけた。そしてクリードリッチはこの怒りを「前方後円憤」と名付けた。

怒りを込めて振り返れ

 トニー・リチャードソンの『怒りを込めて振り返れ』(58)をミッドナイトシアターで一部鑑賞する。タイトルも出演者も誰一人知らなかったので、最初はどこいぞの三流映画かと思ってみていたが、やけに画面に緊張感があるので最後まで観てしまった。ラストシーンを見切って「これはとんでもない傑作だ」と思った。後で監督名を見たら「トニー・リチャードソン」とあったのでどうりで、と膝を打った。

 妻と愛人をあからさまに両天秤にかける無頼な男が主人公なのであるが、ラスト、男の子供を流産した妻が、男と愛人二人の元を訪れる。そこで男は愛人に対して「お前の友達だよ」(!)と言ってその場から走り去るのである。妻の逼迫した事情を聞き、一度男を手に入れた筈の愛人は(もうこりゃついていけないわ)とばかりに男の元へ行き「貴方の事は愛してるけど、もう別れましょう」とを告げる。そして別れを告げられた男は(ああ、こいつも所詮この程度か)とでも言いたげに彼女にこう云い残して去っていくのである。

 「生半可な覚悟で愛を手に入れようと思うな。それが厭なら人生を降りろ。苦しんでこその人間だ」

 そして男は妻の元へ戻り「可愛い奴だ」「俺は世話の焼ける熊だ」と言って妻の目を見つめるのである。なんというアンモラル!そして、このアンモラルなラストをリチャード・バートンのむせ返るようなワイルドさでもって描ききるその力量!

 日本ではおそらくビデオ発売すらしていないだろう、こんな隠れた傑作を放送するフジテレビは偉い。いわゆる「愛」を自明のものとして扱うような映画に対して僕は嫌悪感すら覚えるが、この映画における「愛」には批評性が感じられて好感が持てる。世の中に「ハッピーエンド」なんてものは、まずないんだから。「終わり」は常に「苦しみ」と共にしかない、という感受性しか僕には信じられない。