「心苦しいですが豊橋なんで帰ることにします。ありがとうございました」。その老夫婦はそう言って笑顔で会場の扉を出ていった。私は「ありがとうございました」。と答えながらも「心苦しい?」ちょっとおかしいだろ、ここでは「心残りですが」だろと心でつぶやきながら扉を閉めた。まだ最終のバスまで20分以上あるので大丈夫だろうというかちょっと早すぎるくらいだろう。しかし最後の曲がどれくらいの長さかわからないのでここで帰るのがいい判断なのかもしれない。そう考えているうちに最後の曲が始まった。「ヨハン・シュトラウス作曲美しく青きドナウ」たぶん誰でも知っている、小学校の音楽の授業の音楽鑑賞で必ず聞く曲だ。あの老夫婦は80代だろうか。そうしたら小学校時代は戦中か戦後すぐなので音楽なんて聴くような環境ではなかったのかもしれないなあ。それでも今日わざわざ豊橋から電車とバスを乗り継いで浜松のこんな奥の音楽ホールに来るなんてよほどクラシック好きか家族が楽団にいるかなんだろうか。最後の曲が終わってアンコールまで聞いていると最終のバスには間に合わないと思われるような状況の中その老夫婦は心苦しく会場を後にした。
今日はオーケストラのコンサート。金曜日の昼間なのでどんな人達が聴きに来るんだろうと思っていたがやはり予想通り年配者が多く来場している。今日のオーケストラがどんなに有名か知る由もないが1000人は入る会場がほぼ満席。いくら2000円と入場料が安いとはいえ浜松駅から車で1時間近くかかる場所に平日の昼間からよくこんなに年配者ばかり集まったもんだと感心しながら入り口扉から続々と入ってくる人達を見ていると一人の老人がこちらに向かってきた。そして「豊橋から来たもんでお昼食べてなくてね。どこかで食べるとこないかね」と声をかけてきた。会場内は飲食禁止、ロビーでは許されているものの椅子がない。コンサートホールで飲食をすることなど想定されてないのでないのは当然なのだろうがやはり少しのスペースと椅子ぐらいはあって良いものなのにと思うのだがここには何もないのである。「申し訳ないですが座るところがないんですよ」と伝えはしたものの不憫で仕方がないので会場責任者に確認すると倉庫から椅子を出してロビーに設置してくれとのこと。私は急いで老夫婦にそれを伝えたあと倉庫から椅子を10脚ほど取り出しロビーの壁際に置いた。老夫婦はお礼を言いながら座り、カバンからおにぎりを取り出して早速食べ始めた。それを安心して見ていると程なく10脚の椅子は年配者で埋まってしまっていた。やはりこういうスペースは欲しいものだろうよ設計者さん、と私は誰かわからないこのホールの設計陣に言っていた。もちろん届くわけのない提案だがこの風景を見ていた人が、もしそのような仕事の関係者がいたのならどこかのホールを設計する時に考慮するかもしれないと思えば全く届かない提案でもないのかもしれない。
ふと時計を見ると開演時間まであと15分となっていた。まだロビーにはたくさんの年配者が行き交っているが開演すれば入場できなくなるのであと少しすればここには誰もいなくなるのだろうと思いながらさっきの老夫婦を見るともういなくなっていた。
さあ豊橋から苦労してここまで来て楽しみにしていたコンサートが始まる。楽しんで下さいねと心でつぶやきながらマスクの下で微笑んでいる自分がいた。
開演5分前のチャイムが鳴り響くとロビーに残っていた少しの人達も足早に会場入り口ドアに向かい、私も担当のドアを閉めるべく入口Fに向かった。バイオリンのチューニングの音が聞こえコンサートの始まりを告げている。
入口Fに入り、ドアを閉め会場を見渡すと1000人は入る会場は、ほば満席であった。と同時にステージ左側から指揮者とピアノソリストが入ってきて会場は大きな拍手に包まれていった。
一曲めはなんだろうと思いながらドアの前に用意されていた椅子に座ると指揮者が手を挙げ大きなピアノの音から始まった曲はグリーグのピアノ協奏曲であった。