18歳以下の子どもに1人10万円相当を給付する今回の施策は、子どもの育ちを応援する趣旨のはずだ。ならばなぜ一律ではないのか。一律に支給するはずではなかったか。

収入なんて親の都合や環境次第で厳しくなったりたまたま多くなったりもする。今年は所得の多い人が来年は病気や介護で仕方なく仕事を離れ収入が一気に下がることも決してまれではない。家庭の事情によって左右される所得と子どもの育ちを結び付けるべきではなく、むしろ子どもへの支援は安定的かつ一律に行われるべきものであり、子どもへの給付にその時の所得を理由とした制限をかけるのは矛盾している。

 子どもの育ちを社会として応援するのにその時の親の収入を調べ敷居を設けることにどんな意味があるのか。あえて子どもたちの間にくっきりと金銭給付という実線を引き差をつけることに意義があるか。実際にこの線引きが500万円とか300万円とかだったらどうだろう。700万円ならダメだが900万円オーバーならば反発する人が少ないからいいというものでもあるまい。

まじめに働いて税金を納めているのに報われない、税金の使い道使われ方に納得がいかない。その声にどれだけ寄り添い行動してきたか。政治は背中の真芯を見抜かれてることにもっと敏感になるべきだと毎日明確に実感します。

自らに課すことは結婚できる、子どもを育てられる、暮らしていける豊かさの実現を求めて、出している声、挙げている手に気づかれ公正に扱われることを求めて、見ざる言わざるに竿を差し不正に切り込むことを求めている切実な、怒りに震えながら言葉にはならない、声なき声に体ごと向き合って行動することです。

写真は地元金沢区で米軍から返還された小柴貯油施設跡の公園の遊具。戦争から70年以上経ってなおあと14年、市によれば公園完成にはかかる見込みです。区内は広大な池子住宅地区が未返還のままです。

粘り強くどこまでも粘り強く取り組んで参ります。