仕事の合間に、おばちゃん=栗原すみこの通夜に参列してきた。
亡くなる前夜も、オカンと電話で話していた。
おばちゃんとオカンは、48年の付き合い。
俺が生まれるときに、名前の良し悪しを判断してくれたのも彼女。
あとちょっとで2020だったのに。
まあ、「そんなこと、どうでもいいわよっ」と言うだろうけど。
物心ついた頃から可愛がってもらった。
茨城なまりで「かずくん⤴︎」と語尾が上がる。
週4〜5日、おばちゃんの手伝いをしにオカンと伊勢丹に通っていた。
手伝いと言っても、自分はおばちゃんに水を渡して、最後尾のお客さんの後に並ぼうとする人を、
「終わりなんです」とお断りするだけだったが。
仕事を終えてクタクタになったおばちゃんと、伊勢丹の前にあったハヤセという喫茶店でお茶するのが日課。
そして、伊勢丹のデパ地下で食材を買って家路につく。
極貧の時代を経て成功を掴んだおばちゃんだが、プライペートでの苦労は絶えなかった。
子供の自分に「かずくん、おばちゃんに誰か良い人紹介してよ」と、よく戯言をいっていた。
その度、「おばちゃんは、ブスだからいないよ」と答えると、「ブスにブスって言われると頭にくるんだよ!」と怒っていた。
うだるような暑さの日も、骨の芯まで凍りつくような極寒の日も、彼女はずっと立っていた。
傘と看板の隙間から、声を掛けると嬉しそうに微笑んでくれる。ときどき、おこずかいもくれた。
トイレに行けないので水分は少量しか摂取しない。そのせいで膀胱炎をこじらせていた。
決して、体が丈夫な人ではなかったと思う。
それでも彼女を伊勢丹の脇に立たせたのは、救いを求めてやってくる人たちへの強い想いだった。
おばちゃんは、450万人の手相をみたと言われている。半端ない。
自分は来年で20年目を迎える。現時点で5万人たらず。
毎日12時間以上、立ちっぱなしで施術してきたおかげで、体のあちこちが壊れてきた。
疲労が蓄積して辛いとき、吹きっさらしの野外で、立ち続けていたおばちゃんの姿が浮かぶ。
俺はエアコン付きのお部屋じゃん。どっちがしんどいのよ?と自問する。
もっと頑張らないと笑われる。
死に顔は見なかった。そこにあるのは亡骸だから。
通夜の会場に10分ほど滞在して、急いで仕事に戻る。
なぜか、いつもより気合が入った。
おばちゃんは、やっと楽になれた。
ほんとうに、ほんとうに、お疲れ様でした。