文字を書くということ | 松嶋初音 公式ブログ『松嶋す。』 Powered by アメブロ

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昨日久しぶりに自分の書いた長文を読んで驚いたのは、読みづらさでした。

変な話かも知れませんが、自分自身としてはもう少し文章上手かった気がするのですが、書かないというのはやっぱりよくないですね。劣化、退化、衰退の速度は思った以上のようです。

だからこそ、こうして文章を改め書くのは良い事なのでしょうね。
練習がてらにまた書き始めようと思えました。

そもそも、私が文字を書き始めたのはいつだったか。
記憶としてしっかり持っているのは小学生の高学年の頃です。

文字を書く、というのは、ひらがなの勉強や、漢字の練習というものではなくて、物語であったり出来事をまとめる時の事を指します。

もちろん、夏休みの自由研究でよくある絵日記ですとか、そういったたぐいのものは書きました。
でも、それは自ら進んで書いた訳ではなく、先生からの指示があってそこに自分の意志はあまりなく書いたものですので話は別ですね。

小学校五年生の頃でしょうか。
友人同士で小説の書き合いがしばらくの間流行りました。
交換日記から派生したものと思われます。

当時のノートは実家にあり、たまに帰省すると押し入れを開けては昔の自分に会うためにそのノートを開いたものです。

その頃はまだ私にも集中力があり、物語を最後まで書くということがちゃんと出来ていました。
ですがそのだいたいがストーリーもへったくれもない、起承転結もない、稚拙なものです。
漫画のト書きをそのまま書き出したような、なんとも読みづらく、読み手に対してかなりのスキルを要求するものです。
物語の書き方がわからなかったのでしょうね。

もう少し年齢があがると小説を読む事に夢中になり、そうなってくると書き出す物語もすこしは読めるものになりました。

それでも、今読むと自分にとっては拷問以外のなにものでもありません。
何故かというと、私の物語では人死に過ぎだからです。当時の私、死を軽んじ過ぎ。
著者の意図が丸見えで、こんな代物をよく人に見せていたなあとただひたすらに自己嫌悪です。
しかもご丁寧にこの小説を読んだ人の感想コーナーとか設けてある。

当時の自分を土に埋めたい。全力で掘るよ。そのためなら。

小学生の頃の話ならまだいいですが、ある程度分別のつく年齢になってからのものはもっとひどいですね。その当時に観た映画や小説、ゲームに影響され過ぎで。確かに、私はそういう人間です。

映画や小説、ゲームへの感情移入が尋常じゃなく、ドラゴンタトゥーの女を見ながら年賀状の準備をしていた時は住所を入力するだけの単純作業にも関わらず気分は天才ハッカーでしたからね。
しかもそれはついこの間の話ですし。

でも、それよりなにより、大人になったと強く感じるのは心の余裕がなくなってしまってきていることですね。
書き始めた物語を終えられなくなったのも、何かを生み出す為の心の余裕がないからだと感じるのです。

人にはやはり、心の余裕は必要だと思うのです。

考えなければ思考は止まって、止まるということは呼吸をしていないというのと同等の意味を持っていて、どんどんと脳の一部が死んでいくように感じるのです。

久しぶりに動かそうとしても機械と同じで、油は切れて埃は積もって、昔のように動くことはありません。
機械も人の脳も動かす事が大切ですね。

その為には、動かす為の心の余裕を今年は作りたいと思うのです。
その一つが、この文章を書くという行為にあたります。

三日坊主にならなければいいのですが、なんとも。

それではまた。