こんにちは! ご無沙汰しております。「日本まつりの里」の松田和裕です。
今日は4月8日、お釈迦様がお生まれになった日「花まつり 」ですね。
甘茶をかけたり、色とりどりの花で飾られた花御堂を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょうか。
また、暦の上では二十四節気の「清明(せいめい) 」の時期にあたります。「清浄明潔」――万物が生き生きと輝き、空気が澄み渡る、一年で最も美しい季節の一つです。ちょうど先週末に清明を迎え、日差しも暖かく、まさに春爛漫といった陽気ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
この清々しい季節に、ふと立ち止まって、私たちの生き方や価値観 について考えてみたいことがあります。それは、AI技術が目覚ましい進歩を遂げるこれからの時代における、「名を残す」ということの意味についてです。
日進月歩の勢いで進むAI技術は、 かつて生身の人間が個人や組織で成し遂げてきた「成果や業績」の価値観を根底から揺るがし始めています。そのような時代の転換点において、人がこの世に「名声」や「生きた証」を残そうとすることに、果たしてどれほどの意味や価値が見出せるのでしょうか。
人の心には、誰かに認められたい、価値ある人生を送ったと他者に評価されたい、という根源的な承認欲求が宿っています。
故事にも「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」とあるように、後世に名を残したいという願いは、古来、多くの人々が抱いてきたものでしょう。
しかし、その「名」がいかに儚く、不確かなものであるか 、私たちは歴史から学ぶことができます。
どれほど親しい間柄であっても、あるいは偉大な人物であったとしても、例えばご自身の曾祖父のことを、今どれだけの方が鮮明に記憶されているでしょうか。
ましてや無関係な他人の記憶に留まることの難しさは言うまでもありません。
さらに言えば、歴史に刻まれた記録そのものですら、決して盤石ではありません。
秦の始皇帝による焚書坑儒、あるいはアレクサンドリア図書館の度重なる焼失に見られるように、貴重な知識や記録は、時の権力者の意向、戦乱、あるいは偶発的な災害によって、いとも容易く失われてきました。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とは、まさにこの世のあらゆるものが絶えず移ろい、留まることのない真理を示しています。
それでもなお、人々は様々な形で「名」を残そうと試みてきました。
高額な布施により立派な戒名を授かること、自らの生涯を美化し自伝として編纂すること (今日ではAIの力を借りることも可能です)、都合の良い家系図を作成し出自を飾ること、あるいは名士録に名を連ねること。
歴史を紐解けば、金銭や権力によって出自を取り繕うとする試みは洋の東西を問わず見られます。
権威の象徴としての勲章や、かつて教会が発行した贖宥状(免罪符) なども、形は違えど、こうした名誉や評価を求める人間の心理に働きかける側面があったと言えるでしょう。
統治者が王位の正当性を神に由来するとした「王権神授説」 のような主張も、後世への評価と支配の永続性を願う、「名を残す」ことへの執念の一形態と見なせるかもしれません。
もちろん、代々続く家業や芸道、学術など、自身のルーツに誇りを持ち、その血脈や精神を未来へと繋いでいく 生き方もあります。
また、誇らしい出自を自覚し、それをアイデンティティの礎として偉大な業績を成し遂げる人々も存在します。
これらは尊重されるべき価値ある生き方ですが、個人の「生きた証」というよりは、家系や共同体の維持・発展という側面が強いとも言えるでしょう。
しかし、そうした意図的に構築された「名」や評価、あるいは特定の出自に根差した物語とは別に、私たち一般人が日々の営みの中で漠然と残したいと願う「生きた証」 について、改めて冷静に考えてみる必要があります。
ゴータマ・シッダルタ(お釈迦様)やイエス・キリストのような、ある意味で超人的とも言える存在、あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチ、カント、アインシュタインのように、人類史に燦然と輝く偉大な功績を残し後世に語り継がれる人々は、極めて稀有な例外 です。
そうした特殊な例とは違い、私たち一般人のささやかな「生きた証」が、死後数十年はおろか、数年の時を経てなお記憶されている可能性は、残念ながら低いと言わざるを得ません。
「光陰矢の如し」と言うように、時間は容赦なく流れ、記憶は薄れていくものです。
ましてや、AIが人間の知的能力の多くを代替・凌駕するかもしれない未来 においては、個人が外部に「生きた証」を残すことに固執する意味は、ますます問い直されるでしょう。
それは目的を見失った、限りある時間の浪費となりかねません。
では、私たちは虚無感に苛まれるしかないのでしょうか?
決してそうではありません。
たとえ個人の「名」が砂上の楼閣のように儚いものであったとしても、私たちが個として孤立した、根無し草のような存在ではない からです。
視点を変えれば、私たちは皆、人類が悠久の時をかけて築き上げてきた文化、知識、技術、そして叡智、いわば「文化の遺伝子(ミーム)」の継承者 なのです。
AIがどれほど進歩しようとも、この人間としての連続性、壮大な人類史の物語を受け継ぎ、未来へと繋いでいく役割は揺るぎません。
「温故知新」の精神で先人の遺産に学び、それを現代に活かす営みの中に、人間固有の価値を見出すことができます。
個人の出自や家系、あるいはAIと比較した能力の優劣といった相対的な評価に一喜一憂するのではなく、誰もが人類全体の営みの一部を担う、かけがえのない存在 である――。
このような、人類史的な大きな流れの中に自らを位置づける意識こそが、外部的な評価への渇望や未来への漠然とした不安から私たちを解放し、「今」この瞬間を豊かに、主体的に生きるための確かな拠り所となるのではないでしょうか。
AI時代という新たな局面を迎えるにあたり、消えゆくかもしれない個人の「名声」や「生きた証」を追い求めること以上に、人類の壮大な遺産を受け継ぐ者であるという内なる誇りと自覚を持つ こと。
それこそが、真に豊かで意義深く、そして未来に向けて開かれた自由な生き方を可能にする鍵なのです。
さらに未来に目を向ければ、AIがAGI(汎用人工知能)へ、そしてASI(超人工知能)へと進化し、人類を新たなステージへと導き、ひいては人類と融合して共に進化していく ――そのような未来像が語られる現代(2025年4月8日現在)、私たちはその壮大な変化の可能性を前にしています。
この変革期において、変化をただ恐れるのではなく、未来を見据え、AIとの共進化をも視野に入れた新たな価値観と生き方を今日から模索し始めること。
その前向きな探求心と行動こそが、私たちを過去の価値観の呪縛から解き放ち、希望に満ちた未来を主体的に築き上げ、真の自由 へと導く原動力となるのではないでしょうか。
最後に、私が座右の銘として深く共感し、指針としている、日本の高僧が遺した「生き方の核心」についてご紹介させてください。
それは、鎌倉時代に生きた明恵上人(みょうえしょうにん)の教えに集約される「あるべきようわ(は)」 という考え方です。
私たちはしばしば、「人生とは何か?」「人はなぜ生きるのか?」 といった、壮大で根源的な問いに向き合い、答えを探そうとします。
しかし、これらの問いに対する答えは、時代背景、社会状況、個人の立場といった多くの外的要因によって変化する、いわば相対的なもの です。
絶対的な答えを見つけることは難しく、特にAI技術の急速な発展のように、変化が激しく未来が見通しにくい現代においては、なおさらその傾向が強いと言えるでしょう。
これに対して、明恵上人が示唆したのは、「(その時々において)いかにあるべきか?」――すなわち、「今、この瞬間の自分は、どう考え、どう行動すべきか?」 を絶えず自らに問い続けるという生き方です。
未来や過去、あるいは自分ではコントロールできない外部の大きな問いに心を奪われるのではなく、「今、ここ」での自身の在り方、為すべきことに意識を集中 する。この「あるべきよう」を問い続ける姿勢こそが、不確実な時代にあっても、迷うことなく、地に足をつけて生きていくための確かな道標となると私は信じています。
それは、森羅万象との調和の中で、今ここに存在する自分自身の役割や価値を、日々の実践を通して確かに感じ取っていく生き方と言えるのではないでしょうか。
春の柔らかな日差しの中、少し立ち止まって、ご自身の生き方や未来について思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。
本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
日本まつりの里
松田和裕