読売新聞五郎ワールドの中で、「残された時間ー脳外科医マーシュ、がんと生きる」が取り上げられていました。
余命宣告に疑問を感じていた時に、こんなことがあったそうです。
肝細胞癌で82歳で亡くなった方は、「余命2ヶ月」と宣告され、もう病院で治療することはないので、すぐにホスピスに入ってくださいと言われます。
しかし死ぬなら自分の家でと思い、ホスピスに入りませんでした。
亡くなったのは宣告から2年後です。
その間はきちんと食事をし毎朝公園を散歩し、好きな麻雀もしました。
そのため彼に不審が芽生えます。なぜ医師に言われたとおり死なないのだろう。死は突然やってくるのだろうか?
医師に聞こうにも、寝た子を起こすようなもので怖くて聞けない!
その2年間はほとんど身動きが取れなかった。旅行に行くにも旅先で倒れたら迷惑をかけてしまう。これまで書いたものをまとめようと思ってもまもなく死ぬのだから無駄だとあきらめた、と。
マッシュ先生は、全力で治療してくれた医師に感謝しながらも、余命宣告は必要なのか疑問に思ったそうです。
「医師は私に余命半年と言ったが、6年たっても私はまだこうして生きている」という不満の声をよく耳にする。
しかし、医師が告げたのは「あなたはあと6ヶ月しか生きられないかもしれない」という言葉だったはずだ。そうかもしれません。「余命2ヶ月」など断定していないのかもしれません。でも、彼にとっては「2か月の命」という絶対的な響きをもって
伝わったと思われます。
先生は「希望は、医師が自由に処方できるもっとも貴重な薬の一つである」という信念のもと、患者に医学的な真実を告げることと、希望を奪わないことのバランスを取ろうとしてきたといいます。心からありがたいことです。
先生は一転前立腺がん患者として煩悶する姿を素直に語られています。
40年以上、患者が抱く恐怖や苦痛、死を目のあたりにしてきたが、一般患者と同じに、診断への懐疑→恐怖→否認→怒り→希望を経て、受容という経過をたどります。
先生は迫りくるだろう死の現実を一生懸命納得しようとします。
「前立腺がんで死ぬのも悪くない。そうすれば、私が死と同じくらい恐れている認知症や老衰になるほど長く生きないで済むからだ」
そしてクラッシクを聴きながら思います。偉大な作曲家たちはみんな死んでしまった。
「遅かれ早かれ、どんな形であれ、死は全ての人に訪れる。それは人生の一部なのだから死をよき友としていけばいい」(あたりまえのことだが、難しいことです)
五郎さんはがんで入院した後輩に自分の体験記とアドバイスを記した手紙を送りました。
助言の第一は、お医者さん信じなさいということ。疑っても益がありません。素人があれやこれや調べても疑心暗鬼が募るだけです。こちら側に信じる気持ちがあれば、医師に当然伝わります。
第二は、愛する人たちを苦しませてはいけないということ。そのために悲観的にならないことです。苦しいだろうが努めて明るく振る舞うことを心がけよと伝えました。
死は誰にとっても不可避なものです。どう向き合うかはおのれ自身が決めることです。マーシュ先生が言う通り、今を大事にし、一日一日を精一杯生きるしかありません。と、しめています。
時々読み返してみたいと思います。