4月29日は昭和の日。

昭和天皇の御誕生日です。

昭和天皇の御聖徳については枚挙に暇はありませんが、

その中でも代表的なお話は、

木下道雄元侍従次長の『宮中見聞録』に収録されている

荒天下の分列式」と「鹿児島湾上の聖なる夜景

ではないかと私は思います。


それでは少し長くなりますが、続いて

「鹿児島湾上の聖なる夜景」を紹介します。



鹿児島湾上の聖なる夜景



昭和6年の秋、熊本地方で陸軍特別大演習があり、

演習終了後、陛下は鹿児島市にお立ち寄りになり

そこから軍艦榛名にお乗りになって

横須賀に向わせられたことがあった。

当時私は行幸事務を主管する大臣官房総務課長として、

お伴のうちに加わっていた。

忘れもせぬ、時は11月19日、日没と同時に、

榛名は供奉の駆逐艦4隻を随え、

県市民の盛大な奉送裡に、

煙ふく桜島を後にいま静かに鹿児島湾を南下しつつある。



松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」


「軍艦榛名」




艦上に立って見上げると、ゴツゴツした小山のような

巨艦の檣頭には、

天皇旗がへんぽんとひるがえり、

忙しく立ち働く水兵たちはみな喜色満面。

自分たちの艦に、 天皇旗を掲げるということは

譬えようもない喜びなのである。

御召艦と決定してからの、伝染病予防の為の、

長い間の上陸禁止、艦内整頓、清掃のための日夜の猛作業、

みなこれ今日の栄ある日を迎えるためだったのではないか、

喜ばずにはおられようか。

艦内に於ける陛下の御生活は、いつも極めて御愉快であり、

ご自由である。

陸上ではどこにおいでになっても、警衛、警戒がつきもので、

これは一面無理からぬことではあるけれども、

陛下の行動は著しく制限される。

これに引きかえ、一歩艦上の人とおなりになれば、

御身辺の警衛などは一切なく、

水兵たちの群れつどう中を割ってお歩きになる。


榛名で、陛下の御居室兼食堂に充てられたのは

後甲板の真下の司令長官室であった。

お室の入口のすぐ近くに長官専用の階段が

上へ通じているから、

いつでもご自由に、後甲板においでになることができる。

この後甲板は陛下の最もお好きな場所で、

上は一面にズックのおおいが張ってあって

雨のときでも心配はない。

夜は電灯が、広い甲板の中央にたった一つつくだけで、

薄暗いところではあるが、夜でもよくここにおでましになる。

折たたみの軽いズックの椅子が数脚、

それから、陛下はタバコをお用いにならないが、

他の者のために火縄のついた大きな灰おとしの真鍮の壷が

二、三あるだけで装飾はなにもない。

ただ、遠望の御用のために、脚付の望遠鏡が

右舷にも、左舷にも、ところどころに備えつけてあるのと、

海図の机が一個、

この海図には担任の将校が

鉛筆で艦のコースを書き入れている。


これを見ると鹿児島湾の幅は約20キロ、

鹿児島市から湾口までの距離は約80キロ、

艦のコースはちょうど湾の中央線を

まっすぐに湾口さして南下し、

それから太平洋を黒潮の流れに乗って

横須賀へ向うことになっている。

見渡せば、左舷、大隅半島の陸地も、

右舷、薩摩半島の山々も共に10余キロのかなた、

夕闇のうちにうす黒く見えるだけである。


間もなく、6時の夕食の時刻となったので、

われわれは艦内に降りて食堂で食事にとりかかった。

航海中、陛下の御夕食には艦長以下4、5名のものが、

代るがわる御相伴に召されるのを例としていたが、

このときは出港直後のことであり、

一同、業務多忙であったため、

陛下は御居室でお一人で御食事中であった。

ちょうど6時半ごろであったか、私は皆と食事中、

フト昔の記憶が頭に浮んできた。


それは、大正14年の夏、陛下が、まだ東宮で

あらせられたときのことであるが、

軍艦長門で樺太に御旅行になったことがある。

或る日、樺太の大泊から西海岸の本斗、真岡の方へ

回航の途中、艦は海馬島という絶海の孤島の

島影に仮泊する予定になっていたので、

夕食後、われわれは後甲板で涼しい潮風に吹かれながら、

黒ずんだ小さな海馬島の小高い丘が、

だんだん近づいてくるのを物珍らしく眺めていた。

当日は風波がかなりあったので、

丘の風下の静かなところに泊るために、艦は速力を落し、

徐行してぐるっと島を廻っているそのときであったが、

突然、夜闇の波の間、艦の近くに、

何やら泣くような、叫ぶような大声が聞えてきた。

舷窓をもれるあかりに照らしだされたところを見ると、

日の丸の旗を立てた一そうの小船が、荒波にもまれながら、

艦と並行して、6人の若者が一生懸命に櫓をこいでいる。

左手に、しかと、とも櫓を握って指揮をとっているのは、

6、70の老人のようであったが紋付羽織袴に、

右手に山高帽を高々と差しあげながら、何か叫んでいる。

風が強いため、その言葉はききとれなかったが、

嬉し泣きに泣いていることだけはよく判る。

私は一ヶ月前、下検分でこの島にも立ちよったので

島の事情は知っていた。

昔からここの島には、百人余りの日本の漁民がいて、

ここを根拠地として漁業を営んでいるのである。

今日の夜、殿下の御召艦がここに仮泊することは、

みな、知っていたので、

恐らく島の人達は総出で、船を出して、

沖で殿下をお迎えする積りでいたのだろうが、

日が暮れて、そのうちの一艘が、波荒れ狂う夜闇の海上で、

やっと長門の艦影を発見し、

少しでもお側に近づこうとしてえいえいと漕いでいたのである。

われわれは甲板の上から、帽子やハンカチを振って

挨拶をかわしたが、

艦がいくら徐行しているとはいえ、

二つの船の速力には格段のちがいがあるので、

一瞬の間に別れてしまった。

島の人たちにとっては、御召艦の来航は

ほんとに千載一遇のことであるから、

もし波さえ静かであったなら、恐らく島中の者が、

みんな残らず、一晩中、

艦のおそばにいたかったのであろうと思うと、

ほんとに名残り惜しいことであった。


私はこのことを思い出し、ここも波静かな

鹿児島湾内のことであるから、

沿岸の人たちが船を出して

途中でお迎えをしていないとも限らない。

ちょうど今は、陛下もお食事中だし、

われわれもみな食堂にいる。

後甲板にはたれ一人いない筈。

これでは相すまぬと思ったので、

私は皆より早く食事をすませて、

階段を馳せ上って後甲板に出てみた。


艦内は非常によく照明されているから明るいが、

すでに夜闇に包まれた甲板の上はまことに暗く、

電灯の下ならともかく、少しはなれたら

人の顔もよく見わけのつかぬ有様であった。

よく見ると、誰もおるまいと思っていたこの後甲板の

右舷のてすりの望遠鏡のところに、誰か一人、

海の方を向いて立っている後姿が見える。

近づいてよく見ると、こはいかに、

陛下のおん後姿ではないか。

私の近づいたこともお気づきなく、

望遠鏡から手をおはなしになって、

挙手御会釈のおん後姿である。


さては案に違わず、奉迎船がきているなと思って、

私は舷にかけよって下を見たが、

船らしいものは一向見当たらない。

はて、何をごらんになったのかと、私もそばの望遠鏡で、

西の方、薩摩半島の方角をのぞいてみたが、

明るいところから急に暗いところに出たので、

眼が慣れていないため、なかなかすぐには何も見えない。

我慢してのぞいていると、

そのうちに、だんだんと目がなれてきて、

空の色と陸の色との区別がつくようになり、

薩摩半島の山々の輪郭が、ぼんやりと見えてきた。


時刻から推し測って、

いまは指宿の沖あたりかなと思っているうちに、

こんどは水の色が判るようになり、その水と陸との境目、

つまり海岸線一帯に、えんえん2、30キロにわたり、

何か赤い紐のようなものが横たわっているのが眼に止った。

はて、何だろうと、よくのぞいていると、

その次には赤い紐の上一帯、

何百メートルおきかに一定の間隔をおいて、

小高いところに点々と

大きなかがり火のもえさかるのが見えてきた。

このとき私は、これが何であるか、判り過ぎる位よく判った。


遥か10余キロを隔てたかなた、薩摩半島の村々は、

今頃は、陛下の御召艦が自分たちの村の

沖合を通過する時刻だと思い、

夜のことで艦影は見えないが、老いも若きも、打ち揃い、

ちょうちん、たいまつを持って海岸に立ちならび、

また若者たちは山々に登って、かがり火をたき、

半島一帯の村びとこぞって、陛下をお見送しているのである。

陛下は、いま、望遠鏡で、これを発見あそばされ、

暗い後甲板から、ただお一人、

静かに、この沿岸一帯の灯火に対し、

挙手御会釈を賜っていたのである。


ああ。と私は感嘆の声を発せざるを得なかった。

何という聖なる光景であろう。


夕やみに包まれた軍艦榛名の後甲板は、

あたりに人なく、声なく、

ただ陛下御挙手の尊影を仰ぐのみ、

御会釈を賜わるものは、そも誰か。


肉眼に、これを求めて、これを得ず、

わずかに、望遠鏡のレンズのうちに、

薩摩半島沿岸一帯盛んなるかな、果てしなくえんえんとして、

かすかにつらなる奉送のともしび。


はるかに海をへだてて、陸から艦へ、また艦から陸へ、

闇を貫く、君臣まごころのかたらい。


ああ、これこそ、ほんとうの日本の姿でなくてなんであろう。


私は、改めて小山のような榛名の巨体を見上げたが、

月もなく、星も稀なこの闇空に、黒ずんだ、この艦は

ただ黙々と、風を切って走っている。


はるか、かなたの村びとたちには到底見えるはずがない。


何とか連絡をとって、陛下は、あなたがたのお見送りに対して、

ただいま艦上から、お別れの挨拶をしておいでになりますよ、と

知らせて上げたい気持ちで胸一ぱいの私は、

その方法のないのに、もだえ苦しんだ。


無線で打電しようかとも思ったが、いま、あの山の上で

かがり火をたいている人たちの耳に、

到底、今夜のうちに届くとは思われない。


フト、そのとき一案を思いついた私は、

すぐさま艦長室へ走った。

艦長に事情を話して、

探照灯を全部つけて貰うことを頼んだところ、

艦長も感激して、すぐ、つけましょう。というので、

私は、また、すぐに後甲板に引きかえしたところ、そのときは、

もう6ケの探照灯の光芒が、皎々と、

左は大隅半島、右は薩摩半島の空や海や海岸一帯を、

くまなく撫でまわしていた。

はるかに、ワッ、とあがる両岸の歓声を想像しながら、

私は心のうちで叫んだ。

幸いなる哉、われよ、汝は、ただ一人、

ここに千古に変らぬ日本の姿を見たりと。



松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」


木村圭三謹画「鹿児島湾上の聖なる夜景」



昭和39年の或る日、私は指宿の地を訪れたことがある。

ここには九州大学の植物園があるが、その園長さんが

永年指宿に住んでおらるるということをきいたので、

植物園の園長さんをお訪ねした。

「あなたは昭和6年には、この地にお住いでしたか」

「ハイ、住んでおりました」

「然らば、その年の11月19日の夜、ちょうちんを持って

海岸にお立ちになりましたか」

「ハイ、立ちました。県庁から予め注意があり、

当夜はあいにく月がないから、軍艦の姿は見えないだろうが、

軍艦には夜間、灯火が一つずつつく、

御召艦と護衛の駆逐艦4隻合計5ツの灯火が見える筈、

第一の灯火は先導の駆逐艦、

第二の灯火が御召艦のそれと心得られよ。とのこと。

よってわれわれは、はるか沖を通るその第二の灯火に

心をこめていたところ、

突如、その第二の灯火のところから、われわれに向って

皎々たる探照灯が照らされ、一同思わず歓声を上げ、

その光の中に互に手をとり合って歓んだことでした」

というお話をきいて、私も心中大へんうれしかったことがある。


「鹿児島湾上の聖なる夜景」(木下道雄著『宮中見聞録』より)



松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」


尚、この『宮中見聞録』は後に

日本教文社より『新編宮中見聞録』としても

復刊されました。



松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」