9月13日は乃木大将ご夫妻の命日です。

明治天皇崩御直後の大正元年のことですから

今年で98年目、再来年には百年祭を迎えます。


私は学生時代から「水師営の会見」をよく歌いました。

佐々木信綱作詞の文部省唱歌(明治43年)です。


旅順(りょじゅん)開城(かいじょう) 約成(やくな)りて
敵の将軍 ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ 水師営

庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木
弾丸あとも いちじるく
くずれ残れる 民屋(みんおく)に
今ぞ相(あい)見る 二将軍

乃木大将は おごそかに、
御(み)めぐみ深き 大君(おおぎみ)の
大(おお)みことのり 伝(つと)うれば
彼(かれ)かしこみて 謝しまつる

昨日(きのう)の敵は 今日の友
語ることばも うちとけて
我はたたえつ かの防備
かれは称えつ わが武勇

かたち正して 言い出でぬ
『此の方面の戦闘に
二子(にし)を失い給(たま)いつる
閣下の心如何にぞ』と

『二人の我が子それぞれに
死所を得たるを喜べり
これぞ武門(ぶもん)の面目(めんぼく)』と
大将答(こたえ)力あり

両将昼食(ひるげ)共にして
なおもつきせぬ物語
『我に愛する良馬(りょうば)あり
今日の記念に献ずべし』

『厚意謝するに余りあり
軍のおきてに従いて
他日我が手に受領せば
ながくいたわり養わん』

『さらば』と握手ねんごろに
別れて行(ゆ)くや右左(みぎひだり)
砲音(つつおと)絶えし砲台(ほうだい)に
ひらめき立てり 日の御旗(みはた)


唱歌「水師営の会見」誕生秘話


乃木大将は、日露戦争から凱旋して

名将として人気が出たわけですが、

ご自身は多くの将兵を犠牲にした事への

自責の念に駆られ、

「何の顔(かんばせ)あって父老に看(まみ)えん」

と、揮毫も人に会うのも断られるくらいでした。

佐々木信綱先生が唱歌を作るから

お会いしたいというのも

乃木大将は断っておられました。

「自分はそんな偉い人間ではないから勘弁してくれ」と。

「だったら、資料を集めて勝手に作るが、それでいいか」

と言われてしまい、「それでは会いましょう」という

ことになったのです。

佐々木先生がお会いすると、

「そういえば庭になつめの木があった」とか、

大将はぼそ、ぼそ、と話される。

それでステッセル将軍との会見の様子も聞きだして

歌ができたのだそうです。


水師営の会見について


水師営の会見では、

明治天皇が「ステッセル将軍の面目を保つように」

とお達しになり、

乃木大将は従軍記者に写真を撮らせないことに

されたのですが、

それでは従軍記者も役目が果たせないということで、

一枚だけ撮らせました。

敗北の将の面目を保つために、

彼我対等に帯刀を許し、

同じ数で同等のスタイルにされました。

有名な写真ですが、そういう訳で

水師営の会見の写真はこの一枚しかないのです。


松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」

   中列中央が乃木大将とステッセル将軍


水師営の会見では、

他にも鶏や葡萄酒を贈るなどされた

ステッセル将軍が感激し、

馬をはじめいろいろな物を提供したいと

申し出たのですが、

唱歌に「他日我が手に受領せば」とあるように

乃木大将はその場では受け取られないのです。

軍の捕獲品になりますから、

ステッセル将軍が乃木大将に

勝手に物を贈るわけにはいかない。

それで、ステッセル将軍の意を体した乃木大将は

後日受け取ることにされたわけです。

この馬は、後に隠岐島に行き、

日本の馬改良に大きく役立ったのです。


水師営の会見後の乃木大将と日本


乃木大将は明治39年に凱旋されてから

軍事参議官になられ、学習院長になられました。

戦争が終わって日本は何をしたかというと

まず第一にロシアの戦没者の慰霊なのです。

旅順にロシア風の墓地と顕彰碑を作って

礼拝堂を建て、日本政府の主催で

盛大な慰霊祭を執り行いました。

ロシア正教とロシア軍関係者を招き、

乃木大将は日本側の代表として参列されました。

これが明治41年のこと。

日本の戦没者を慰霊する

旅順白玉山の表忠の碑ができたのは

その1年6ヵ月後なのです。

自国の戦没者の慰霊より先に、

ロシア側の大慰霊祭をやっているのです。

唱歌「水師営の会見」に、

「昨日の敵は今日の友」とありますが、

それはステッセル将軍に対する

処遇だけの話ではないのです。

負けた方が悲惨であり、悔しいのだから、

まず、敵地の墓地、顕彰碑を先に作った。

しかも、最初は神式でやるという話だったのを

ロシア側がロシア正教でやりたいと言うので、

ロシア正教の牧師を呼んで執り行いました。

こういう大慰霊祭を、

日本政府主催でやったという事実を

今の政治家もよく知ってもらいたい。

遺骨収集費から慰霊碑の建立費まで、

全部日本が持ったのです。

捕虜に対する扱いも、

日本に来た捕虜が「帰りたくない」というくらい

丁重を極め、四国あたりには

そういった記録がたくさん残っています。

先のイラク戦争では米兵の捕虜虐待が

問題になりましたが、

それとは180度違う待遇を

当時の日本人は行っていた。

そういう日本の国ぶりだったということです。


以上は6年前に乃木神社の宮司さんから

伺ったお話をもとに構成しました。