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マツミンのブログ

元気で愉快な社長さんに逢う会・セレブParty・合コンParty・・おもしろ交流会・お笑いLIVE情報など

おもしろい話題を書いていきます。


芸能裏話(50) 漫才ブーム到来

 

B&Bさんが東京に行ってから大阪の笑いが認められ、俄かにお笑いが注目を浴びだした。

花王名人劇場でやすし・きよし/セント・ルイス/B&Bの漫才がゴールデンで流された。

 

普段の週は裸の大将など、ドラマをメインにしていた、繋ぎにお笑いを入れたのだがこれが大当たりした。

 

ドラマは時間とお金が掛るが、お笑いは、その日に終るし、ギャラもセットも安く済む。

 

その上視聴率も良いとくればドラマよりお笑いと云う事になり、漫才番組が一挙に増えた。

 

洋七兄さんに聞いた話では、花王名人劇場のOAが終った瞬間から人生が変わったと言っていた。

 

街歩いている人が「花王名人劇場に出ていた人でしょ」とか「もみじまんじゅう」とか「岡山・広島」の人でしょう等、たった一日で有名人になった。

 

それぐらい視聴率が高かった。その番組を見たスポンサーからCMの以来が4社ほど一度に来たそうだ。

 

これほど凄いブームは過去においても、これからもないと思う。

 

どこの局も、お笑いをやり始めた。

 

代表的な所ではフジテレビのTHE・MANZAI!

 

この番組からはB&Bは勿論、ツービート/紳助・竜介/のりお・よしお/ザ・ぼんち/

 

いくよ・くるよ/サブロー・シロー/赤信号/ヒップアップ/おぼん・こぼんなど一気にメジャーになった。

 

特にザ・ぼんちはレコード恋のぼんちシートが爆発的に売れて、漫才師では初めて武道館でリサイタルをやったのです。

 

その時、僕等はザ・ぼんちさんを応援するために、大阪から東京の武道館までバス7台を連ねて、6時間掛けてファンと一緒に来ました。

 

各バスには当時若手だった漫才師が乗り込んで、お客さんを退屈させないように

 

漫才やったりゲーム・歌などで6時間を持たせたのです。

 

その中には大助・花子もバスに乗っていた。

 

料金は交通費・リサイタルのチケット・Tシャツ・食事付きで一人1万円だった思う。

 

吉本はしっかりしていて、バスガイドを乗せると高いのでお笑いタレントを入れた。

 

食事付きと云ってもザ・ぼんちさんにマックがスポンサーとして付いていたので

 

往復6食ハンバーガーとコーラだった。

 

武道館の盛り上がりは最高だった。

 

笑いや歓声が後ろから前に波の様に押し寄せてくる。

 

僕等は応援団として舞台に立ったがネタは出来なかった。

 

でも武道館の舞台に立てただけでも嬉しかった。

 

のりお・よしおの、のりお兄さんはザ・ぼんちのライバルなのに漫才をする事になった。

 

漫才と云うよりボヤキに近い内容だった。

 

「なんでライバルやのに応援漫才せなあかんねん、こんなリサイタル無茶苦茶にしたる」

 

と冗談か本気か分からないような漫才だが、たぶん悔しかったと思う。

 

「ぼんちのどこがええねん」と云うと会場からブーイング「やかましいわ」と云いながら

 

ズボンを脱ぎ下半身を見せてしまった。

 

『ギャーッ』と大歓声とブーイング、でも盛り上がった。

 

最後に「武道館でチンチン見せたんワシが最初やろ」と勝ち誇った顔で下りて来た。

 

のりおさんはココ一番何かをやってくれるので、芸人の中でも結構ファンが多かった。

 

この日も楽屋で若手は大喜びだった。

 

ライバルを誉めるのは照れくさいのだろう、のりおさんらしい精一杯の祝福だったと思う。

 

盛り上がった武道館を後に、僕等と大阪から来たファンはバスに乗って帰る事になった。

東京滞在僅か4時間、これから又バスに揺られて6時間お客さんの機嫌取り、地獄のようなツアーだった。

でも今になると良い思い出になった。
 

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芸能裏話(49) 母の死去
 

母35歳、姉小学校5年生、僕小学校3年生だった。オッちゃんは良い人だった。

 

その年のクリスマスに生まれて初めて、クリスマスケーキを買って来てくれた。

 

今まで貧乏だったので、誕生日とかクリスマスにケーキを買って食べると云う

 

事がなかった。

 

オッちゃんは背広の上着を質屋に入れて、僕等の為にケーキを買ってくれたのだ。

 

その冬はオーバーの下にカッタ−シャツだけで過ごしていた。

本当の親父でもしてくれなかった事をしてくれた。

今でもクリスマスケーキを食べる度に思い出す。

母親から「オッちゃんの事好きか」と聞かれた。

僕と姉は迷わず「好きや」と答えた、何故ならオッちゃんは遊びに来る度に、お菓子とか、

 

チョコレートを持ってきてくれる。それに小遣いまでくれる時があった。

 

それにつられたのも有るが、親父と比べたら月とスッポンくらい違う。

 

母が「オッチャンと再婚しようと思うねんけど、どうや?」と聞かれた。

 

これにはちょっとビックリした、母親35歳で4人の子持ち、オッちゃん

 

25歳バツイチ!どう見ても不釣合いだし、母親の親戚からは歳が離れすぎ

 

ている、歳取ったら捨てられると大反対を受けていた。

僕と姉は願ったり叶ったりだったので「いいよ」と答えた。長男と次男は反対していたので、それぞれ独立した。僕等は親子4人で暮すようになった。

 

一緒に暮すようになっても、オッちゃんは優しかった。

 

休みの日は遊園地に連れて行ってくれた。

 

やっとテレビや映画のような一家団欒が出来るようになった。

 

それまで暗かった性格も徐々に明るくなってきた、オッちゃんを親父と呼べるようになるまで結構時間が掛った。

 

親父と出会わなかったら、お笑いの世界にも入っていなかったと思う。

 

やっと舞台に上がれるようになって、これから恩返しをしようと、思っていた

 

矢先なのに母が入院した。

僕等がやっとテレビに出られるようになった時は、癌が転移して末期症状で殆ど寝たままだった。

 

晴れ姿を見て欲しかったのに、それは叶わなかった。

 

その日も梅田花月に出ていた、1回目の舞台前に病院に行った。

 

医者から「親戚や会いたい人が居れば連絡して下さい」と云われた。

 

癌と戦って1年半、70kg有った体重が35kgになっていた。

 

ここ一週間は植物人間状態で寝たままだったのに、この日は急に目を開けて「信ちゃん

 

頑張りや」と僕の名前を呼んだ。

 

これが最後の言葉だった。舞台があるので梅田花月に向かった。

舞台に出ている間に逝ったらどうしよう、気が気でなかった。

 

1回目の舞台が終って急いで病院に帰った。

医者や看護婦さんが母親の周りに集まっていた、只ならぬ雰囲気だった。

 

姉が危篤状態になっていると言った。

 

先生が心臓マッサージをしだした、胸を強く押していた、痩せ細った母の身体が折れそうになっている。

 

見ていられなくなった、さらに胸を強く押し出した。

 

姉が「もういいです、楽にしてやって下さい」と泣きながら訴えた。

 

母は僕が来るのを待っていてくれたかのように、息を引き取った享年56歳。

 

芸人は親の死に目に会え無いと云われるが、僕は幸い死に目に会えた。

 

それでも2回目の舞台は待ってくれなかった、母が亡くなって1時間も経っていない、

 

今まで兄姉や親父と泣いていたのに、今度は人を笑わさなければ成らない。

この時ほど辛い舞台はなかった。

 

親父のお陰で母親は晩年何不自由なく暮し、皆に見取られて幸せな人生 だったと思う。


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芸能裏話(48) 母の癌告知

 

漫才師としてやっと歩み出しかけた頃、母が癌と告知された。

勿論母には内緒にしていた、今まで病気らしい病気はした事がなかったので、

 

誰もが冗談だと思った。それぐらい元気だった。

 

医者から余命一年半と言われた、それでも信じられなかった。

 

なぜなら体重は70kg近くあって顔色も良いし、毎日仕事にも行っていた。

 

しかしある日、鼻血が洗面器1杯分くらい出たと言っていた。

 

多分それが癌の兆候だったのだろう。

 

でも外見は元気なので、その母親を病院にいれるのに苦労した。

 

母には「胃にポリープが出来てるらしいそれを取る手術をするから」と云って入院させた。

 

しかし病院の云うには「この手術の成功率は五分五分ですから覚悟していて下さい。」

 

この言葉にやっと病気の重さ実感した。

 

母の前では「簡単な手術やからすぐ治るらしいよ」と笑顔で答えていた姉、

 

しかし手術室に入った瞬間、これでもし失敗したら二度と会えない、と思っ

 

たら涙が止まらなく泣いていた。

 

待っている間に色々な事が思い出された、母は前の夫(僕の父)に随分苦労を掛けられた。

 

父は一人っ子で我儘に育った。

 

そのせいか母や子供の事はどうでもいい、自分だけ良ければいいと云う人だった。

 

酒乱で給料は一銭も入れずに、毎日酔っ払って帰って来ては母を殴る蹴る、顔はあざだらけだった。

 

父がお金を入れてくれないから、長男は新聞配達と牛乳配達、次男は豆腐配達、母は近所の畑や田植えを手伝って生計を立てていた。

 

それでも家族6人が生活するには大変なので、僕と姉も手伝って夜は内職もしていた。

 

ある日その日のご飯もなく内職を仕上げて、そのお金でご飯とおかずを買って食べる事になっていた。

 

やっと内職が仕上がったのが夜の8時ごろだった、真冬の寒い夜僕と長男が内職の品物を持ってお金に替えて貰おうと行ったら

 

『お父さんが先に来てお金を前借して持って帰ったよ』云われた。

 

さすがにこの事は情けなかった、お腹すかして親子5人が一生懸命内職をして、その

 

お金でご飯を食べようとしていたのに、父はその金まで前借して自分だけ

 

お酒をのんで酔っ払っていられる神経が分からなかった。

 

そんな父親に愛想をつかして小学校3年生の夏に離婚した。

 

次男と姉と僕は母の実家が有る兵庫県の芦屋に引っ越してきた。

 

父と別れるとき涙は出なかった、むしろ清々した気持ちだった。

 

それ以来父とは会っていない、会いたいとも思わない。

 

普通の父親だったら自分が食べなくても子供に食べさすのに、それが出来

 

ないのは親でも人間でもないと思う。

 

僕は良い父親を持ったと思う、この父を反面教師にしてこんな人間だけにならないように心がけている。

 

離婚してから母は古着やちり紙交換をやって、僕等を育てくれた。

 

リヤカーに新聞紙や雑誌それに古着や鉄などを一杯積んで、重い荷物を運んでいた。

 

その頃はそんな仕事をしている母が恥ずかしかった。

 

母はもっと嫌だったはずなのに、そう云うことを思った自分が恥ずかしい。

 

そんな母にも春が来た!

 

実家にお世話になっている時、ちょくちょく遊びにくるオッちゃんがいた。

 

その人が引越した僕等の家に遊びに来るようになった。

 

オッちゃんは当時25才、離婚して寂しくてしょっちゅう来るようになった。

つづく
 

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芸能裏話(47) 紳助・竜介と初ライブ

 

島田紳助・竜介とみのる・ゆたかで初ライブを開催する事になった。

 

花月以外でお笑いのライブを開催するのは、吉本興業始まって以来の出来事だった。

 

会場は阪急ファイブと云うショッピングモールの中に有る200人収容のホール、若者が多いし駅から近いのでココに決めた。

 

会社の人に相談したら「花月があるのに、わざわざお金出してよその会場借りてどうすんねん。

 

花月でせえ!」と怒られた。

 

それでも僕等は信念を持っていた。

花月は大きいし、当時お客さんはおばさんやおじさんばっかりで若者が近寄りがたい雰囲気だった。

 

そこでいくら若手が頑張っても、若い人は来てくれない、800人の会場に200人位入れても盛り上がらない。

 

それだったら若者が来易い所で小さな会場を選んだ。

 

その頃は若い人がお笑いを見ると云う感覚がなかった。

 

お笑いはおばさんやおじさんが見る物と決めつけていた。

 

それは、芸人が殆ど年配の人が多かったからだと思う。

 

そこで僕等は若い人の為のお笑いをやりたいと会社に訴えていた。

 

唯一僕等の考えに賛成してくれた、大崎さん(現よしもと社長)と田中さんと云う京都大学出身の新人マネージャーが「これからは若い芸人は若いお客さんを笑わせればいい!

 

年配の芸人さんは年配のお客さんを笑わせればいい」と云ってくれた。

 

昔はこんな簡単な事が許されなかった。

 

若い芸人もおばさんやおじさんを笑わせて一人前やと云われていた。

 

大崎さん・田中さんの応援のおかげで、やっとライブの許可がおりた。

 

でも初めてのライブなので何をどうして良いか判らなかった。

 

まず人集める為にチラシを作り、それを自ら街頭で配り歩いた。

殆どの人はチラシを貰ってくれない。

 

そこで電信柱やそこらへんに貼って回った。

 

その事で警察から会社に苦情が来て、僕等は会社に呼び出しを受けた。

 

怒られるのかと思ったら、「お前ら面白い事やってんな、今まで自分等から進んで企画したり、チラシ配ったりするような勉強熱心な奴はおらんかった。

 

頑張れよ!でお前ら名前なんちゅうねん」「紳助・竜介とみのる・ゆたかです」

 

「そうか、じゃ次から会社が全面的に応援する」と云ってくれた。

 

警察から苦情の電話が入ったお陰で、会社の上の人まで僕等の名前を覚えて貰った。

 

まさしく災い転じて福となった。

 

会社の人に認められるにはお客さんを入れなくてはいけない。

 

一人のノルマは50人その頃無名の紳竜だったので、チラシを配っても反応は少なかった。

 

それでもそれぞれ親戚や友達を総動員して、とりあえず200人の会場を埋めた。

 

花月と違って始まる前からお客さんの熱気があった。

 

「これやこの熱気や僕等が求めていたのは!!花月では味わえないような興奮が沸いて来た。

 

僕等の為に来てくれたお客さん。

 

花月ではやれなかった、若いお客様向けのネタと構成。

 

笑って欲しい所で笑ってくれている、あまりの受けでそれが拍手に変わる。

 

今までに無かった快感!!

 

これこそ若者もお笑いを求めていると云う事が実証できた瞬間だった。

 

オープニングはスライドで自己紹介、花月では使わないビデオを使って、漫才と漫才の間を4人のギャグビデオでつなぐと云う斬新な企画がお客さんには好評だった。

 

このライブが今のお笑いにつながっていると言っても過言ではないと思う。

 

なぜならこのライブによって紳助・竜介が新しいお笑いの形を作ったのだ。

 

その紳竜にあこがれてダウンタウンが誕生した。

 

そのダウンタウンにあこがれてナイナイ・ロンブー・ココリコなどお笑いを目指す若者が増えているからです。

 

紳助が若い芸人だけの2丁目劇場の提案・紳助バンド・映画製作・M1の企画など。

 

島田紳助が居なかったら、若い人のお笑いブームは無かったでしょう。


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松稔の芸能裏話(46) NHK演芸大賞決勝進出

 

NHK演芸大賞の予選に出た、これは芸暦10年未満で賞を取っていない組と売れていなければ誰でも出られる。

 

1回戦は課題漫才、これはみんな同じネタをしなければいけない。

 

課題の台本が面白くないのであまりやるきがしない。

 

しかしこの課題が通らないと自分達のオリジナル漫才が出来ない。

 

のちに課題漫才はなくなった。意味無いもっと早くなくして欲しかった。

 

無事に課題漫才が通った、そして次の日はオリジナル漫才だった。

 

オリジナル漫才の方は自信があったので楽な気持ちでやれた。

 

予選2位で決勝に進んだ、この調子で行けば敢闘賞は確実だ!上手く行けば最優秀新人賞

 

も獲るかもしれない。

 

そうしたらテレビにも出られるし、仕事も増える希望は膨らむ一方だった。

 

この時、通ったグループに紳助・竜介が入っていた。

 

芸暦10年近い組から1年位の組まで、バラエティーにとんだ10組だった。

 

決勝は一ヵ月後、オリジナル漫才だけなので気楽だ!!

 

出来れば賞を取って演芸大賞は今回限りにしたい、その一心で毎日必死に 稽古した。

 

そして決勝の日がきた、流石に決勝なるとお客さんが沢山入っている。

 

静まり返った場内、緊張感が高まって来た。

 

僕等の前の組がすべっている、嬉しいようなでも複雑な感じだ。

 

いよいよ僕達の出番が来た。予選の時はリラックスしてやれたのに、気合いが空回りしてあまり受けていない。

 

焦れば焦るほど泥沼に入って行く、受けていない空気が客席に伝わっていくのが分かる。

 

声も小さくなっていく、間が悪くテンポが速くなって蟻地獄にはまったようだ。

 

嫌な汗を掻いてやっと終った。

 

今回はベテラン組が多いせいか、お客さんに年寄りが多すぎるのも原因だと思う。

 

ベタなギャグとか叩いたりコケたりしたら笑うような客が多かった。

 

僕等はそんな馬鹿笑いは作りたくなかった。

 

でもその頃はそんな客に合わせなくてはいけなかった。

 

当時22歳だった僕等が50歳以上のお客さんを笑わすには無理があったと思う。

 

ベテラン組みの人達はそこそこ笑わせていた。

 

内容は相方の顔がブサイクやとか、足が短いとか、頭が禿げているとか身内受け見たいな低レベルなネタだった。

 

自分達が笑われて、お客さんに優越感を与えるのが当時の笑いだった。

 

僕等は笑われるのではなくて笑わせるネタをやりたかった。

 

紳助・竜介も僕等と同じ信念を通していた。

 

早口でヤンキーネタや年寄りを攻撃するネタだった。

 

最初のうちはお客さんも付いて来なかったけど、彼等のペースにはまり段々受けて最後は大爆笑だった。

 

年寄りにも新しい笑いが受け入れられたみたいだった。

そして全員が終り審査会発表の時間がやってきた。

 

僕等は失敗したので賞は取れないと覚悟した、しかし紳助・竜介は一番受けていたので最優秀賞だろうと思った。

 

全員が舞台に板付きになって審査の発表を待った。

 

『最優秀賞は』ドラムロールが鳴った、芸人もお客さんも固唾を飲んだ。

 

『中田○○・○○』客席からどよめき湧いた、僕等も納得がいかなかった。

 

紳助・竜介の方が遥かに受けていた!!中田○○・○○は年寄りには受けていたけど、ベタの漫才で新鮮味も無いし!?どうしてと言うどよめきだったのだろう。

 

紳助・竜介は敢闘賞に終った。

 

表彰状を貰う時、紳助は悔しさで涙ぐんでいた。

 

そして貰った花束を足で蹴ってその場を立ち去った。

 

NHKはお年寄りに受けるような漫才を支持したのだ。

 

先を見る目がなかったと言うことかな!?

 

こんな時代だったから若い人がお笑いを観なかったのだろう!!

 

紳助が授賞式で花束を蹴った事で、NHKの番組は出られなくなった。

 

本人も意地でも出なかった!!

 

その後紳助は、若い人に受ける漫才を貫いて、今の漫才ブームを作り上げた。

 

と言っても過言ではないでしょう。

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芸能裏話(45) 読売TVの名物プロデューサー有川さん

 

読売TVの有川さんと云うお笑いプロデューサーが企画した『笑の会』!

 

これは若手を育てる為のお笑いライブで、毎月1回阿倍野アポロホールで開催されていた。

 

当時のメンバーは阪神・巨人/B&B/ザ・ぼんち/サブロー・シロー/大助・花子などスターを発掘した会である。

 

しかしその頃はまだ無名だったので、毎回みんなで呼び込みをして必死で客集めをした。

 

100円の入場料でもお客さんは余り入ってくれなかった。

 

100人入れば多い方だった。

 

お客さんに投票して貰って、過半数の投票を取った組が村長である藤本義一先生から10万円もらえる。

 

しかしこの豪華なメンバーから過半数とるのは至難の業である。

 

10万円貰える組は一年に一度あるかないかである。

 

しかしその難関を突破してみのる・ゆたかは過半数を取って10万円もらった。

 

この時は本当に嬉しかった。

 

そしてこの笑の会が東京になぐり込み公演をする事になった。

 

しかし交通費は実費なので大変だった。

 

新幹線の指定席は高いので自由席で行く事になった。

 

あいにく土曜日出発だったので自由席は一杯だった。

 

仕方が無いので連結部の所で座って行った。

 

大阪の笑いが25年ぶりに東京に乗り込んだ。

 

芸術祭参加となったこの公演は大成功だった。

 

トップはザ・ぼんち兄さんだった、花月のお客さんは余り笑わないのに東京のお客さんは何を云っても笑ってくれた。

 

お客さんも若くて反応が早い、芸人は不思議なもので受ければ実力以上の力を出すもんだ。

 

ぼんちさんのお陰で後に出た僕等も良く受けた。

 

出る前は受けなかったらどうしようと心配していたが、これほど気持ち良く受けるとは思はなかった。

 

その次に出たB&Bさんもこれまた大大爆笑だった。

 

最後に出たやすし・きよし師匠が霞むくらい受けていた。

 

その時出演したお笑い芸人は全員大爆笑だった。

 

お客さんは立ち見が出るほど大盛況でした。

 

お客さんの中にツービートのたけしさんや、セントルイス、球児・好児さんなど東京のお笑いタレントさんが一杯見学に来ていた。

 

東京のテレビ局関係の人も多数来ていた。

 

大阪のお笑いがこれほどまで受けいれられるとは誰も思ってはなかった。

 

そして、その年の芸術祭優秀賞を貰った。

 

このなぐり込み公演のお陰でB&Bさんは東京に進出するきっかけになり、漫才ブームになったと言っても過言ではないと思う。

 

ザ・ぼんち兄さんやB&B兄さんは昔から面白い事やっていたのに、大阪で認められなくて東京で認められてスターになった。

 

逆輸入みたいなもんだ、大阪の人は見る目が無いと云うことかな!

 

大阪弁や大阪のお笑いタレントが、東京で堂々と仕事が出来るのもすべてこの公演が

 

あったからだろう。

 

その記念すべき公演に参加できた事を誇りに思える。

 

そのプロジェクトを企画した有川さんに感謝します。

 

この人こそ大阪のお笑いを全国に広めた最大の功績者だと思う。

 

帰りの新幹線も自由席だったので、連結部でザ・ぼんち兄さんやB&B兄さんと今度

東京に行く時は、指定席に乗れるような芸人になりたいなと言いながら帰ってきた。

 

その何ヵ月後、ザ・ぼんち兄さんやB&B兄さんはグリーン席に乗れるぐらい売れっ子になっていた。

 

この世界いつどこで急に売れるか分からない面白い世界だ。

 

まさに東京ドリーム!!


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芸能裏話(44) 日テレ元祖ドッキリカメラ出演

 

日テレの元祖どっきりカメラに出演した。

 

箱根小湧園で余興があるからと会社から仕事を貰った、久しぶりに新幹線で東京まで来た。

 

マネージャーのいない僕等は行動表を頼りにやっとの思いで箱根駅についた。

 

そこには旅館の迎えの人が、みのる・ゆたか様歓迎と云う紙を持っていた。

 

旅館の人に「今日のお客さんはどんな人ですか」と聞いたら、『家族連れです』と言われた。

 

今日はここで泊りやし、終ったら美味しい料理食べて温泉に入れる。

 

最高の仕事やなぁと二人で喜んでいた。

 

しかし、そんな甘くなかった。

 

1時間位たってやっと出番がやってきた、幹事の人がちょっと恐い雰囲気だった。

 

『大事な宴会だから面白く盛り上げろよ!判ったな。』とプレシャーをかけられた。

 

余興には慣れているからなめて掛っていた。

 

司会の方が『本日のスペシャルゲストB&Bさんですどうぞ』と云った。

 

「えっ僕等B&Bじゃないんですけど」と必死に訴えたが、幹事の人が『何でも云いから行け!』と舞台まで押された。

 

その時、今日はB&B兄さんの前座なんだなと思った。

 

仕方がないので漫才を始めた。

 

客席を見てビックリした、正面に日の丸・垂れ幕に大日本愛国同盟と書いてあった。

 

「どこが家族連れや、これは右翼の集会やがな」と心の中でつっこんだ。

 

いつも余興で受けるネタ、ピンクレディの格好で振り真似をやったがクスッとも笑わない。

 

それでも30分間頑張ったが、これほど受けなかったのは初めてだった。

 

後ろ髪を引かれる思いで舞台から降りた。

 

そこには恐い幹事さんが待っていた。

 

『お前らあれほど大事な宴会だと言ったのに、盛り上がってないじゃないか』と怒られた。

 

『もう一度舞台に出て盛り上げて来い』と云われて躊躇していたら、そこにB&Bの洋七兄さん(太っている方)がやって来た。

 

『すまんな、洋八が病気で倒れたんや、それで急遽お前らに代わってもらったんや』

 

当時B&Bさんは飛ぶ鳥を落す勢い、人気絶頂だった。

 

僕等と比べたら月とスッポン、それでお客さんが怒って笑ってくれなかったのかと思った。

 

『悪いけどもう1回舞台に出てくれへんか』「えっでも普通のお客さんじゃ・・」

 

『わかった、俺も出るから3人でやろ』と言う事になり3人で舞台に上がった。

 

『B&Bの島田洋七です。今日は相方の洋八が病気で倒れました。

 

申し訳ないんですが3人でやります』「なんやと芸人やったら舞台で死ねたら本望だろ、洋八をつれて来い」と云う野次が飛んだ。

 

『私達も人間です病気の人間を連れてくることは出来ません』

 

「何を」と若衆が洋七兄さんを親分の所まで連れて行った。

 

僕等も行こうと思ったが、若衆に羽交い絞めにされた。

 

大変な事になった、洋七兄さんが殴られている。

 

止めに行かなければ、しかしこのまま行ったらスーツが破られる。

 

まだ買ったばかりでローンが残っている、とりあえず上着と靴はぬいで用意した。

 

そこに右翼の親分が『待ちなさい』とその場を止めに入ってくれた。

 

『お前ら3人そこに座れ!お前らのネタなんだ、この非国民、売国奴』など難しい言葉で怒鳴られた。

 

僕等はオデコを畳に擦り付けて謝っていた。

 

しかし洋七兄さんは強気で反抗していた。

 

僕等の後ろで肩を叩く人がいた、洋八君が点滴を付けて来た。

 

そこに赤いヘルメットを被った野呂圭介さんが看板を持って来た。

 

全身の力が抜けた、ほっとしたら胃が痛くなった。

 

やらせなしに騙された。

 

でもどっきりで良かった。

 

B&Bさんのお陰で正月特番ゴールデンタイムに30分間流れた。

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芸能裏話(43)紳助の発案で若手漫才師合宿

 

吉本興業の若手漫才師によるイベント『明日の星へGO!』が開催する事になった。

 

メンバーは紳助・竜介/アラン・ドロン/一球・写楽/段トリオ/ハチ・マキ

 

/桂小枝そして僕ら、みのる・ゆたかの七組でお笑いのライブをする事になった。

 

紳助の発案でライブをするに当たって、合宿をしようと云う事になった。

 

紳助はこう云う事が大好きで、人をまとめるのが上手かった。

 

場所は伊勢にある答志島と云う所だった。

 

そこに行くにはお金がかかる、そこで先輩や師匠にカンパをして貰う事にしようと、これまた紳助が言い出した。

 

今までに前例がなかったので、果たしてカンパしてくれるか心配だった。

 

そこで紳助が回覧版を作り、これから吉本興業を背負って立つ若者に愛の手をと、当時始まり出した『愛は地球を救う』をパロディにしてお金を集めた。

 

本当にアイデアマンだ。

 

お陰で10万以上の」凄いお金が集まった。

 

2泊3日の豪華な合宿が始まった。

 

夏だったので、泳ぎまくった。

 

まだ弟子も兼ねていたので、泊まりで遊びに行くなんて3年ぶり位だった。

 

他の芸人も師匠から離れていると云うだけで、兎に角嬉しかった。

 

食事の用意は段トリオの一平が担当した。

 

元自衛隊で戦車を操縦していたツワモノだった。

 

このメンバーの中でも一番年上だか、芸暦は浅かったので下っ端だった。

 

こいつが凄い奴で、素潜りしてアワビやサザエを捕ってきた。

 

潜るたびに色んな物を捕ってくる、腰に紐を巻きつけてそこに穴子と海藻を挟んで上がってきた時は、ランボーその者だった。

 

火の熾し方からご飯炊き、おかずまで一平のお陰で食事の心配はなかった。

 

夜はみんなで肝試したり、怖い話したり、弟子のうっぷんを晴らしが出来て本当に楽しかった。

 

怖い話をしている時、風が吹いて木々が揺れただけで一目散にバンガロウまで帰った。

 

そして夜空の星が輝いていた、本当に星が降ってきそうなくらい多かった。

 

流れ星を見たのもそのときが始めてだった。

 

その流れ星みて『明日の星へGO』まさしく今の僕等の事だなと思った。

 

その日は遊び呆けていたが、次の日はそれぞれネタ作りと稽古をした。

 

また紳助の発案で、「答志島の島民を集めて僕等の漫才見てもらおう」と云う事になった。

 

稽古が終って島民一軒々に「今晩7時から吉本の若手漫才師によるお笑い寄席をしますので見に来て下さい」と挨拶にいった。

 

地元の人は凄く親切で、挨拶いく度に色々な物をくれた。

 

アワビ・サザエ・伊勢海老をくれた家もあった。

 

これだったら初日に行けば良かったと思った。

 

そして夜、本当にお客さん来てくれるか心配だったけど、いっぱい来てくれた。

 

今思えばたいして面白くなかったネタだと思うが、それでもお客さんは暖かく笑ってくれた。

 

最初は先輩や師匠にカンパして貰って、お笑いライブの合宿と云う大義名分でおもいっきり遊ぼうと思っていただけなのに、予定外の地元の人との出会いが出来てよかった。

 

お笑いに対して純粋な時だっただけに、嫌な事や困った時に答志島の合宿の事を思い出せば原点に戻れるような気がする。

 

貴重な時間だった・・・

 

そしてあの流れ星は今でも忘れられない。

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芸能裏話(42)京都花月正月公演

 

京都花月の正月公演は実に賑やかで、凄いものだった。

 

新人の私達は師匠クラスの人達からお年玉が貰えるのが嬉しかった。

 

何故か一人千円と決まっている。

 

小文枝師匠、カウス・ボタン師匠、小染師匠、いくよ・くるよ姉さん、そしてWヤング師匠からお年玉を貰った。

 

梅田花月となんば花月は吉本興業の中でもトップクラスの人気者が出る。

 

だからお年玉の額は多い弟子で、5万円位になるそうです。

 

毎年うちの師匠は(Wヤング)京都花月なので一寸悔しい。

 

正月公演は朝9時開演で、1日3回公演する。

 

ココだけの話、正月に来るお客さんは災難だと思う。

 

芸人さんはTVとの掛け持ちが多いのでネタも短く、年末の撮りだめや営業で疲れている為、手を抜く人が殆どだ。

 

花月の方はお客さんを目一杯入れようとする、だから超満員でゆっくりネタを見る余裕なんかありません。

 

それでも入り口の呼び込みの声は「まだまだ入れます」と云っている。

 

さすが吉本興業と云う感じだった。

 

その上楽屋では正月だと云う事でお酒を勧められる。

 

1回目の舞台はまだまともにやれるが、2回目になるとお酒が進んで来ているのでもう滅茶苦茶、あの真面目ないくよ・くるよ姉さんがおかしくなった。

 

太っているくるよ姉さんが酔っ払って、小文枝師匠の前でパンツを脱いで「これが本当のあけましておめでとうございます」と云ってアソコを見せていた。

 

楽屋は大爆笑だった。

 

それに気を良くした、くるよ姉さん2回目の舞台でお客さんにまで見せてしまった。

 

今までガヤガヤしていた場内が、一瞬何が起こったのか判らずシーンとなった後大爆笑になった。

 

今度は新喜劇の新人女優さんが先輩にお酒を飲まされて、ベロンベロンになっていた。

 

その娘を介抱していた、主役の女優さんが階段を降りる時、足を踏み外して頭から落ちて二人共顔面から血を流してお岩さんのような顔になっていた。

 

正月早々救急を呼ぶ羽目になった。それだけで終らなかった。

 

吉本一酒癖の悪い小染師匠が、浴びるほど酒を呑んで2回目の舞台に出た。

 

最初は機嫌よく舞台をしていたが、酔いが回ってきたのか何回も同じネタを喋って、しまいには講座で寝てしまった。

 

お客さんは演技だと思っていたが、5分位黙ったままだったので慌てて緞帳を降ろし、若手5~6人で赤い講座の台ごと運んだ。

 

3回目の舞台まで4時間あるのでそれまでには酔いが覚めるだろうと、楽屋で寝かせていた。

 

しかし酔いは覚めなかった、仕方がないので着物を着せて赤い講座に乗せたまま舞台に運んだ。

 

緞帳が上がったらさすが芸人、本能で喋りだした。

 

しかしそれも束の間、ロレツが回っていなかった。

 

お客さんから「こら小染、又酒呑んでるのか?チャンと舞台やれ!」と野次が飛んできた。

 

『ごめんね、正月やから一寸飲んでますが、大丈夫レス』と云いながら寝てしまった。

 

さすがに他のお客さんも怒り出した「小染もうエエから、帰れ」と云う野次に『なんやて、もう1回云うてみ』と居直りだした。

 

『お前らに俺の落語、聞かすのは勿体無いワ、これでも食らえ』と云って立ち上がった。

 

何をするのかと思ったら、自分の一物を出してお客さんにオシッコを駆け出した。

 

これには支配にも黙っていなかった、小染師匠を引きずり出して頭から水を掛けた。

 

そして裏の公園に放り出した。

 

本当に凄い正月だった。


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芸能裏話(41) 初めての地方巡業

 

桂三枝(現文枝)師匠を座長に、『桂三枝の花の駐在さん』と云う朝日放送のテレビ番組をそのまんま九州と四国で巡業する事になった。

 

今回のメンバーは桂三枝(現文枝)師匠・林家小染師匠・桂きん枝兄さん・間寛平兄さん・新喜劇のベテラン役者など、超豪華メンバーだった。

 

最初は九州の福岡だった、地方のお客さんは生で有名人が来ると云うことで、どこも大入り満員その上大爆笑だった。

 

私達は下っ端なので前説から司会と新喜劇まで、一日中休みなく舞台に出ていた。

 

花月に出ているときはマンネリ化していたけど、地方に行くと毎日違った場所で違った反応なので、新鮮な気持ちでやれて楽しかった。

 

一番嬉しいのが一日三食美味しい食事が付くと云う事でした。

 

夜は毎日宴会でその地方の郷土料理を食べさせて貰える。

 

福岡公演の夜はヒラメの活け造り、ヒラメが暴れて自分の身をお皿から落すくらい活きが良かった。

 

プリプリしてこんな美味しいものは初めてだった。

 

それから伊勢海老のフルコース、刺身なんか甘くてとろける様だった。

 

伊勢海老の味噌汁は大きなお椀からはみ出ていた。

 

値段を聞いたらその味噌汁だけで5000円だそうです。

 

私達のギャラは1回3000円なので、ギャラよりはるかに高い夕食だった。

 

もっと安い料理でいいからお金に替えて欲しかった。

 

普段とのギャップが大きすぎる。でも芸人になって本当に良かったなと思った。

 

仕事で初めて飛行機にも乗れた。自分では到底出来そうもない経験が出来た。

 

しかし良い事ばかりじゃなかった。

 

四国の高知県での巡業の時2000人入る開場にお客さんが、200人位しか 入っていなかった。

 

余りの少なさに三枝(現文枝)師匠は不機嫌になっていた。

 

そこで小染師匠が舞台の最中に三枝師匠を笑わそうと、内緒でうどんの中に唐辛子を一杯入れていた。

 

芝居が進み三枝師匠がうどんを食べるシーンがやってきた。

 

三枝師匠以外は出演者が全員知っているので、どう云うリアクションをとるか注目した。

 

うどんを全部食べなくてはいけないシーンなので、一気に食べていたが唐辛子のせいで咽てしまった。

 

回りの出演者は面白かったので笑えを堪えるのが大変だった。

 

普段の三枝(現文枝)師匠だったらギャグで切り返すのだが、この日は入りが悪くて受けもあまり良くなかったのでシャレが通じなかった。

 

舞台が終りいつもは楽しい宴会になるのだが、この日はそうはいかなかった。

 

普通の時は三枝(現文枝)師匠と小染師匠は並んで上座に座るのだが、小染師匠は罰が悪い のか対面の離れた所に座った。

 

三枝師匠がお風呂から上がって来て、上座に座った。

 

いきなり「うどんに唐辛子入れたん誰や」と暗いトーンで云った。

 

やばい機嫌が悪い、みんな小染師匠が入れた事は知ってるけど、そんな事云えない。

 

いや~な空気が流れた。

 

小染師匠が「三枝君、俺がシャレで入れたんや」と云ってくれたのでホッとした。

 

それで解決するかと思ったのに三枝師匠が「シャレで済むか!」と怒ってその場から出て行ってしまった。

 

又いや~な空気が流れた。

 

小染師匠が「三枝君もシャレが判らんやっちゃなもっと大人になれ!」

 

と云って小染師匠も出ていてしまった。

 

残された私達はどうしていいか判らず、ご飯も食べられないまま待っていた。

 

1時間位たってから二人が上機嫌で入って来た。

 

後で聞いた話によると小染師匠が三枝師匠に頭を下げたそうです。

 

たった1週間の巡業だったが良い思い出になった。

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