先日、Twitterで法華講の方とTwitterでお話をする機会がありました。
というのも、法華講員の方の下記のツイートを見てモヤモヤしたからでして…。
「ある人は日蓮正宗信徒は
盲信者だと揶揄する。
盲信とは、闇雲に信じてしまい
挙げ句の果てに
その人の人格さえ破綻し
通りも何も分からなくなる事を指す
日蓮正宗は正しい仏法故に
信心が増す事に
人間が人間らしい考え方に基いた行動になって行き、次第に人格者
としての節度ある生き方になって来る」
このツイートをした方を仮にAさんとします。
私はこのAさんに対して、
「私の父方の祖父母と父は、法華講員でした。
私の父は情緒不安定で、度々私に暴力を振るうことを母が祖父に相談した時、『信心が足りないからだ!信心をすれば良くなる!』言うだけで、父と話し合うこともなく放置しました。
それからも私は、父の気分次第で蹴られたり暴言を吐かれたりしました。」
「『信心をすれば良くなる!』『信心をしている人間は正しくなる』という考えは、「信心をしている自分は正しい人間なんだ』と勘違いすることにつながります。
私はこういう、『信心をすればよくなる、うまくいく』という発想自体が盲信だと思います。」
とリプライしました。
これに対して元・顕正会員のBさんが現れてこう言います。
「創価が活発だった頃の思想なような気がします。
元顕正会員としては過去の罪障消滅するための仏道修行との認識が強いですね。自信が正しくなかったからこそ顕正会いた訳で。人として生まれて来てんだもの100%正しいなんてあり得ないでしょうね。」
おぉ…そうきたか…。
もちろん私も、人として生まれたのだから100%正しいなんてあり得ないという部分は同感です。
そりゃそーだ。
Bさんの見解では、うちの祖父は元創価や顕正会の法華講員の影響を強く受けているように感じる、とのことでした。
Aさんも
「私も同じこと思いました。」
とのこと。
それに対し私はこう返しました。
「法華講には元創価、元顕正会の人が多くいますし、その人達の暴走を止めてあげるのも法華講員の役目なのかなと思います。
側から見れば、やれ地獄に落ちるだの、他宗を邪宗邪教だの言ってる日蓮正宗はヤバい集団に見えますね。どれが元創価・顕正会の法華講員かなんてわかりませんから。」
Bさん
「創価・顕正会の混乱が終息するのはもう少し時間がかかるかもしれませんね。でも少しずつ本来あるべき化儀が戻りつつあるような気がします。先祖代々の法華講の方には申し訳ないと思います。早く戸田教学から脱却出来たらいいのですけどね。未だに信奉してる人も見受けられるし。」
どうやら法華講員側の言い分としては、「法華講員で過激なことを言う人は、創価学会や顕正会的な思想が強いからだ」ということらしいです。
言い分っていうか、かなり言い訳に聞こえるんですけど…。
私のやんわりとした皮肉は届かなかったのでしょうか。
法華講員の多くは元創価か元顕正会です。
そして、その人たちを折伏して日蓮正宗に引き戻して法華講の一員にしたのは他の誰でもない、法華講員です。
それをさ、「過激な連中は元創価だから〜」ってそりゃないんじゃないの?
引き戻したからには、責任持ってちゃんと指導なりなんなりしなさいよって話でしょ。
つーか、その思想を正せてない時点で折伏失敗してるんじゃない?
なんかもうやりとりする気が失せて、
「個人的には、熱心に折伏に勤しむ元創価や元顕正会は、多少過激だったとしても宗門にとってはありがたい存在だと思うけどなぁ。
そんな存在にブレーキかけるような動き自体多分起こらないし、むしろ宗門は信徒を増やしたいから発破かけ続ける気がする。」
という個人的なツイートをしたところ、Bさんからまた返事が来ました。
「たぶん、そこが勘違いの元だと思いますよ。まつこさんの言われている事は旧態依然とした信仰姿勢で、戸田さんがやっていた事。数集め的なのは今でも残ってますが。本来は化儀に則って正しく実践して行かなけれならない。御宗門も目指しているところは正しい信仰姿勢だと思います。」
ほ〜、言ったな?
「折伏ノルマについてはどう思われますか?
うちの寺では、御住職が「今年はノルマ達成できました!おめでとうございます」とか、「ノルマ達成できませんでした」と、御講の際に言っていました。
私には、宗門が法華講に対して信徒を集めるよう圧をかけているように感じました。」
Bさん
「初めは目標設定されてるのには違和感がありました。でも、うちのお寺は年一人の折伏目標です。これは仏道修行していく上では最低ラインって思います。
三学を意識して勤行唱題をしていて歓喜が足りないのに気がつきました。積極的に求めるのであれば折伏していくしかないんだろうと思います。」
決定的な発言が出ました。
普通にただ勤行唱題だけしててもつまらんとな。
折伏して喜びを得ないとつまらんとな。
少なくともBさんは、歓喜を求めて折伏をするそうです。
ただ、折伏で達成感や喜びを得る信徒が決して少なくないことを私は知ってます。
周りからも称賛されるし、場合によっては大勢の前で体験発表をして拍手喝采です。
人を救うだなんだ言っておいて、実は自分が達成感を得たいがための、自己満足のための迷惑行為が折伏です。
Bさんの寺では1年に1人折伏すれば良いそうですが、私のいた寺では現在、副住職より「1人1折伏」という指導をされているようです。(最近入信してすぐやめた方のツイートで見ました)
「していくしかない」などという、さも「しょうがない」的な言い方が若干イラッとしたので、更に皮肉を言ってみました。
私
「年に1人のノルマなら、確かに良心的ですね。
法華講の中にも、落ち着いていて穏やかな折伏方法の方もいれば、人の不安を煽ってくるような方、(善意なのはわかりますが)断ってるのにしつこく折伏しようとしてくる方もいるので、後者のようなタイプが少しでも改めてくれることを願うばかりです。」
「信徒の方が折伏で大きな達成感や功徳を得たい気持ちはわかりますが、それによって嫌な思いをする方も沢山います。
日蓮正宗の信仰が唯一正しいという理屈は、他の人からしたらあくまで日蓮正宗側の都合なのです。
折伏される側への配慮というか、幸せの形が人それぞれだということを理解してほしいです」
それから何の返事もありません。
まぁ、話し合いなんて無駄なのはわかってましたけど、だからって黙ってたら永遠に何も伝わらないし。
ちなみに、Bさんとのやり取りの間にもちょいちょいAさんが返信してくるのですが、Aさんは個人的にかなり嫌いなタイプなので無視しました(笑)
いちいち御書の言葉を引用してくるAさんタイプは、経験上、まずまともな会話にならないです。会話が噛み合わない。
ついでに言うと、こういう人は折伏の仕方も熱心でかなりしつこく押し付けがましい人が多いです。
実際Aさんのツイート見ましたけど、典型的なかんじでした。
その点、Bさんは自分の言葉で話してきてるのでまだマシです。
ただまぁ、やっぱりあちら側の世界の人だなとは思いましたが…😓
それはしょうがないことです。
法華講は責任逃れの自己中心的な集団だなって、改めて思い知りました。
なまじ創価とか顕正会が世間で評判悪いせいで、「ほら、私たちは正しい✨」って勘違いを拗らせてるぶん、かえって悪質です。
都合の悪い事は全部創価学会や顕正会のせいにして、自己の正当性を示そうとしてくる。
あくまで日蓮正宗法華講の清さや正しさを訴えてくる。
鬱陶しい…。
たまには法華講員と話してみるのも悪くないなと思いました。改めていろんな面が見えてくるので。
ただし、御書引用して説教垂れてくるような人とは全く関わりたくないですので、万が一絡んできた場合でもガン無視させていただきます。
人と話したいなら自分の言葉で話してくれ。