父は、信仰に関しては何かと極端な物言いをする人でした。



交通事故で亡くなった人のニュースで仏壇が映ると、「可哀相に、あんな邪教を信仰していたばっかりに…」なんて平気で言っていて、子供ながらにドン引きした記憶があります。

父だけじゃなく、こういう発言は災害が起こるたびにみんな口にしていました。



「信徒の方は全員無事だったらしい」とか

「御本尊様がお守りくださるから大丈夫」とか

「邪教を信仰していたら無惨な死に方をする」とか


すごいこと言いますよね。






また、私は父から「お前は正しい教えを信仰している家に生まれたんだから、学校のお友達とは違って生まれながらに功徳を積んだ、特別な人間なんだぞ」というようなことも言われました。

なので子供の頃の私は、自分は実はすごいやつなのかもしれないと妙な勘違いをしていたものです。
ひゃ〜恥ずかしい💦

勘違いが多分完全に解けたのは、ここ2、3年くらいですね。
ストレスフルでメンタルやってた時には逆に自分のことかなり卑下していたので、そん時かなぁ…とσ(^_^;)







すごいのだと、「日蓮正宗であることは学校の先生には言っちゃダメだ。先生が創価学会だったらお前は誘拐されてしまうかもしれない」と言われたこともあります。


小学生だった当時でさえ「え、そんなことある?」ってちょっと思いましたね。

だって犯罪じゃん(笑)
そこまでする?と思いました。

なので「そんなことしたら逮捕されちゃうでしょ?」って言ったら、「警察の中にも創価学会の人間がいて、みんなグルだから逮捕されないんだ」なんて言ってました。

どうですか?創価学会のみなさん。
そうなんですか?(笑)

ただ私も子供だったし、もし本当にそうだったら怖いので特に大人相手には注意して、宗教のことを話したのは当時いろいろ相談事を聞いてもらっていた1人だけです。

話す友達も、普段の発言や行動、自分との親密さを考慮し「この子なら離れていくことはない」と確信を持てる子にだけ話していました。





私は私で、以前はそんなに創価学会悪者だなんてあまり思っていなかったのですが、私が創価学会の人を悪い人たちだと認識したある出来事がありました。


ある日御講で、私の目の前に十字架の絵が書いてあるTシャツを着た男性が座っていました。

私の隣にいたKちゃん(鼓笛隊の話に出てきた子)は「あの人十字架の服着てるね」とコソッと言いました。

日蓮正宗は他宗を邪宗とするので、キリスト教のシンボルである十字架の絵が入った服やアクセサリーを身に着けてはいけません。
ましてやその格好でお寺に来るなど言語道断。


事が起こったのは御講が終わって帰ろうと、建物の外にでた時のこと。
さっきの男の人が建物からダッシュで飛び出してきました。

何事かと思っていたら御住職が走って取っ捕まえて、男性が手に持っていた新聞をひったくり「二度と来るな!!」と怒鳴っていました。

どうも創価学会の人が日蓮正宗の新聞を持ち逃げしようとしたらしいです。
まぁ新聞を持ち逃げして何に使おうとしたのかは知らんけど…(・_・;

父は私に「ほら、学会の連中がどんなやつらか、御本尊様がお前に見せてくれたんだ」と言いました。

この出来事で「あぁ、創価学会の人って本当にヤバい人達なんだ」と思い、それから私は「お寺で言われているように、創価学会は過激で危険な集団」という認識を持つようになりました。

ちなみにKちゃんのお父さんは元創価学会の幹部だったらしく、脱会の際には家のガラスを割られたなんて話も聞いていたので、余計にそう思っちゃったのでしょう。

 

まぁ創価学会に関しては世間でもおんなじような認識みたいですけどね。

ただ、創価学会に属してるからってみんながみんなヤバい人間というわけじゃないことを、信仰から離れ気味になってた頃から考えるようになりました。

創価学会にだって良心的な人もいる。

実際「創価学会って普通にいい人多いよ?」と言っていた知人もいます。

少なくとも、自分の周りにいた創価学会の二世たちや、他の宗教の二世の子を見てそう思います。その子たちの中に意地悪な子は1人もいなかったんですから。





またまた、よくあるワードといえば「魔が働いている」というものがあります

魔とはなんぞや?

魔とは悪いもののことです。悪魔的なものなのかな?

手塚治虫のブッダ読むとわかりやすいっす。

修行をするブッダに甘い囁きをしてそそのかそうとし、時にはセクシーな女の姿になり誘惑してくる悪魔がちょいちょい出てくるのですが、そんな感じの存在だと思います。

多分手塚治虫が描いた悪魔は人間の煩悩を表現したものだったんだと思いますが、どうも日蓮正宗の信徒は悪魔のような不思議な力が本当にあるように言っていたと思います。


「正しいことをしようとすると、必ず魔が妨害してくるものだ」とよく父に言われました。

父が言う言葉は大抵お寺で言われたことなので、まぁ御住職とか周りの信徒が同じこと言ってたんでしょうな〜。

なので折伏をしていて相手が嫌がっていたら、みんな「魔が邪魔をしているんだ」というトンチンカンなことを言っていました(笑)

どう考えてもフツーに嫌がってんだろ(笑)

みんなこの目に見えない魔としょっちゅう戦ってたようです。







信仰に一途な人というのはどうもみんな思考停止しているように見えます。
それさえすれば救われると思いがちなのです。

「御住職様がこう仰られているのだからこれが正しいんだ」

「御書にこう書いてあるからそうなんだ」

お前ら脳みそどこに落っことしてきたってかんじですが、本当にこう言う人が多いです。

「でも現実問題これ無理じゃない?時代にそぐわなくない?」みたいなことを言う人は、私の記憶にはいません。


私の母が父の暴力のことを祖父に話しても「信仰が足りないから」と言い放ったのは、まさに思考停止の極みだったと思います。

父と真面目に向き合おうとせず信仰に頼るばかり。私は、私が受けた暴力は大半が祖父のせいだと思っています。

仏壇に手を合わせるばかりで、孫が殴られているのを放任した祖父。

死んだ今でも憎いです。

高校1年の冬頃、亡くなる数ヶ月前からアルツハイマーで夜中に徘徊したり、面倒見てもらおうと父親に家族揃って実家に帰るよう言った時、心の底から「面倒ごと言いやがって。早く死ねばいいのに」と思いました。

思ってたら本当に1ヶ月程で亡くなったのでちょっとスカッとしたくらいです。


友達には「大人しそう」とか「面白い」とか、どちらかというとプラスなことを言われる私ですが、結構お腹ん中真っ黒です。

多分性格むっちゃ悪い。

自分に害をなしてくると感じる人間がいるとすぐ「死ね」って思います。

友達には思ったことないです。
だって思うような要因が無いし。








学校にもお寺にも理解者がいなくていっそ洗脳されるものならされたいと思ったけど、今はされなくて良かったと心から思います。

あんな大人にはなりたくない。