今回は、巷で話題になっているツーブロックの件について、お話させていただきます。
話題になってるツーブロックの件というのは、東京都議会の予算委員会で、「都立高校でツーブロックが禁止されてるらしいけどなんで?」という趣旨の質問があり、教育長が「外見が原因で事件や事故に遭うケースがあるから、生徒を守るためやねんで」という趣旨の答弁をしたことで、世間から「ツーブロックで事件や事故に遭うなんて聞いたことありもはんど!」、「ブラック校則でごわす!」という多くの声が寄せられているというものです。(東京は移住者が多いから、方言が入り乱れるという演出をしたのである)
僕としては、こういったことをみんなで議論することは、社会にとって非常によいことだと思いますので、どんどん盛り上がって欲しいです。
だけど、他者を尊重することができない議論はすべきでないとも思います。
ということで、今回のツーブロックの件について、僕がみなさんにおさえておいて欲しいポイントについて、勝手に語っていきます。
まず、教育長をバカにしたようなことを言うのは、絶対NGです。
教育長の答弁は、イケてるかイケてないかで言えば、イケてなかったもしれません。
だけど、あれは別に教育長の個人的な発言ではないってところをおさえておく必要があります。
あの発言は、教育長が東京都教育委員会を代表して、東京都教育委員会の見解を、ツーブロックに関する規制は頭髪に関する規則の一部であるから、その理由としてはこういう考え方をしているんだと答えているものです。
議会での質問は、基本的に組織としての見解などを聞いていくものですから、答弁者には組織としての意見を正確に発言することが求められますし、そのことが議事録にしっかり残されてしまいますから、かなりのプレッシャーがかかると思います。
しかも、東京都のような何万人という単位の組織であればプレッシャーも増すに決まってるし、その上、僕たち議員は言いたい放題で何を言い出すかわからないから、受け身の教育長がモゴモゴと答弁しちゃうのなんか当たり前です。
あと、なぜツーブロックが規制の対象に含まれているかということについても、想いを馳せる必要があるでしょう。
ルールというものは、スマホのアプリのように勝手にバージョンアップされません。
直接的であれ間接的であれ、僕たち一人ひとりが、システムの構築に関わっていかなければならないものなはずです。
この度、ツーブロックくんの市民権が議題となっているわけですが、ツーブロックくんは10年前や20年前には、割とアングラな存在だったとは思いませんか?
僕が現在32歳ですので、15年ほど前の僕の高校時代を考えてみると、大分市のような地方都市では、美容室でイケてるヘアースタイルにするような男子高校生は限定的でした。
大概の男どもは、丸刈り、スポーツ刈り、特徴のない平凡カットであり、色気づいたやつが整髪料に手を出すという程度でした。
あの当時は、最高にイケてるのは、ベッカムさんと中田英寿さんと魔裟斗さんあたりのキックが得意そうな髪型であり、なおかつ多様性も乏しかったために、オシャレ番長たちがキックが得意そうな髪型でかぶりまくるという有り様でした。
そんなことを思い出していくと、今は昔、ツーブロックくんはよりファンキーな存在であり、たしかに東京都の教育長が述べたようなリスクを増しかねない存在であったと思うんですね。
そう考えると、今回のツーブロックくんの自由民権運動以前のままになっているルールについて、教育長が答弁した内容はそんなに変なものではないと言えるんじゃないでしょうか?
ついでに、校則は必要か?というそもそも論を考えていく必要もあると思います。
これは非常に難しい話です。
制服は必要か?とかとも連動してきます。
僕は、校則も制服もあってもなくてもいいと思っています。
校則にも制服にも、長所と短所がどちらも存在しているからです。
ルールを守ることや協調することって、社会の一員としてとても大切なことです。
そのことを学ぶ上で、校則や制服は一定の役割を果たすと思いますし、ひいては仲間意識や誇りのようなものも醸成してくれると思います。
その反面、端的に言えば個性が尊重されないという短所があります。
これらのことは、学校は何をするところかという話に結びつけることも重要だと思います。
学校は、子どもたちが学ぶところです。
学ぶということには、学習だけでなく、スポーツや人間関係など、多くの要素が含まれます。
たとえば、僕の学生時代は部活ばっかりやっていて、髪型や制服にほとんどこだわりがありませんでした。
多少は髪型などで背伸びしたいような気持があったとしても、規則を破ってまで背伸びすることに魅力は感じませんでした。
それは、僕の例です。
一生懸命勉強する子もいれば、友達との時間に軸足を置く子もいます。
勉強にはオシャレの重要性は低いかもしれませんが、コミュニケーションにはオシャレは重要な要素となるかもしれません。
それぞれに考えや立場の違った子どもたちが集まって、学校で学びます。
だから、みんなの意見を集約して、その学校に通うみんなにとって最善の道を選ぶのがいいんだと思います。
校則をなくしたっていいし、今の自分たちに最適な校則に変えていってもいい。
校則問題に時間を割くのがもったいないと感じるなら、そのまんまにしといてもいい。
そんなわけで、僕としては、校則があってもなくても、ツーブロックにしたいけどできないままになっても、結論は何でもいいと思っているのです。
ただ、子どもたちが自分たちで選択するということは必要だと思います。
結論にたどり着くまでの過程こそが最も重要だということです。
子どもたちが違和感を覚えたものについて、大人が「そういう決まりだから」という押し付けをすることは、教育ではないと考えるからです。
誰かが作ったルールは守らなければならないけど、誰かが作ったルールは変えられるし、新たにルールを作ることもできるという前提を、子どもに対して大人が担保してあげることが絶対大事。
子どもたちには、希望と実情や時代の変化などを十分に考慮した上で、自分たちの意見というものを確立し、そのことから多くの学びを得て欲しいです。
これが、今回のツーブロックの件についての僕の最大の感想です。
そして、このことを突き詰めて考えていくことが、社会を築いていく大人にとっても素晴らしい学びになるんじゃないかとも思います。
余談ですが、僕が通っていた大分県立大分舞鶴高校では、校則は存在せず、生徒会自主規制を設けていました。
先述の通り、いつも丸刈りで汗臭い男子高校生だった松木少年は、規則について何の感情も抱いたことがありませんが、こうして考えていくと、自分が恵まれた環境に置かれていたのだということを思い知らされます。
ちなみに、大分舞鶴高校には校訓もなく、代わりに舞鶴魂と呼ばれる「しまれ・がんばれ・ねばれ・おしきれ」という言葉を掲げています。
この言葉は、今でも僕が大切にしている言葉です。
ユニークな校風に育まれたユニークな僕から、ユニークな母校に謝意を表するという余談中の余談で、今回の記事の結びといたします。
最後に一言・・・大分に元気とまつき!!