今回は、ミスター・ゲイ・ジャパンについてお話をさせていただきます。

 

日本国内で、ミスター・ゲイ・ジャパンというゲイの方のミスターコンテストが開催されていたというネット記事を目にして、思わず食いついてしまいました。

 

ありそうでなかった画期的な企画に思われて、面白い試みだと感じたからです。

 

興味が湧いてきたので、少々調べてみましたが、容姿に加えてスピーチ、審査員との質疑応答などを総合的に勘案して優勝者が決まるという、一般的なミスコンと似た雰囲気のものであったようです。

 

大会の模様も写真で拝見させていただきましたが、みなさん良い表情をされていて素敵でした。

 

カッコイイです。

 

ちなみに、僕は、僕もそれに負けないくらい素敵でカッコイイと思うということを、持ち前の負けず嫌い精神から申し添えさせていただきます。

 

 

なぜ、僕の負けず嫌い精神に火がついたかと言えば、本当に出場者のみなさんが輝いていたからだと思います。

 

セクシャルマイノリティのみなさんは、その人生において様々な生きづらさを感じる機会があるものと推察されますが、自分らしく生きるために、『カミングアウト』という言葉が強調されて使われるほど、わざわざ他者に対して自分の特性を強く表明することなどが、時に必要とされます。

 

そうした社会的背景がある上で、出場者のみなさんは堂々とコンテストに臨まれています。

 

自分らしさへの誇りが全身から溢れ出し、すごくキラキラしていました。

 

あんなにキラキラされると、自己愛で生きている僕からすれば、そりゃあ嫉妬の対象になりますよ。

 

僕も自分らしさへの誇りでは負けへんで!っていう感じで。

 

 

そこから少し視点を変えて、『カミングアウト』ということについて、想うことを少し。

 

先にも記しましたが、カミングアウトって何なんですかね?

 

僕は専門知識を深く持っているわけではないので、見当違いなことを言っていたら申し訳ないんですが、意を決して、わざわざ自分のデリケートな部分の特性について宣言するという文化があるということに、僕は違和感ありです。

 

社会はもっとフラットであるべきだと思うんですよね。

 

男女だとか、異性だとか、同性だとか、そういう属性なんかどうでもよくて、好意を持つ者同士がパートナーになって、お互いがハッピーになれば、それでザッツオール!な気がするんです。

 

人がとやかく言うことじゃないと思うんです。

 

A君がB君好きらしいよっていう話があったとして、B君が異性愛者なら、同性を恋愛対象として見ることはできないんだというお断りをフツーに入れればいいだけの話であって、顔が好みじゃないっていう理由でフラれるのと同じ次元のことだと思うんですよねぇ。

 

ここで、もしも周りにA君に対して差別的なことを言うやつがいたとして、そんなやつダサすぎでしょ。

 

人を好きになる気持ちは、自然と湧いてくるはずで、その純粋な気持ちは美しいに決まってます。

 

誰にもその気持ちは止められないし、その気持ちを止める権利は誰にもないはずです。

 

何が言いたいかと言えば、僕は、セクシャルマイノリティの恋愛が、セクシャルマイノリティの恋愛というカテゴリーにわざわざ分類されること自体がナンセンスだと思うということです。

 

 

こういった僕の考えは、以前の記事でも触れさせていたことがありましたが、現実問題として、セクシャルマイノリティの方々が生きる上で多くの障害を抱えているということも認識しています。

 

同性婚のことだったり、先進自治体で導入されている同性パートナーシップ制度のことだったり、社会として考えていかなければならないことは沢山あると思っています。

 

特に、同性パートナーシップ制度に関しては、自治体単独の取り組みによって、セクシャルマイノリティの方々が抱える生活上の問題を改善する効果があると考えていて、個人的に研究していきたいと思っています。

 

 

色々と考えを綴ってきましたが、つまるところ、僕は、自分に誇りを持って生きる人は素敵だと思うということです。

 

そして、誰しもが自分に誇りを持って、自分らしく生きていくことができる社会の実現を目指したいと思っています。

 

 

最後に、忌野清志郎さんと坂本龍一さんによる名曲い・け・な・いルージュマジックの一節を紹介させていただき、今回の記事の結びといたします。

 

 

他人がとやかく言ってもどうしようもない事さ

誰もあの娘をとめられない