僕の撮影した写真たちです。
この写真たちには、僕の中では共通項があります。
それは、美しく感じるということです。
雨雲と太陽が偶然もたらした虹、種の保存のために進化して得られたカエルのグリーン、青空に映える人工物である白鷺城、どれもが僕には美しく見えます。
もちろん、黄金比に代表されるように、僕たちが美しく感じるものには法則性が存在するのかもしれません。
僕らが、何かを美しく感じたり心地よく感じたりする理屈はさて置き、僕は視覚から得た情報で美を感じ、先の3枚の写真を思わず撮影してしまいました。
つまり、何が言いたいかと言えば、人は視覚をはじめとする五感を通して心が動くということです。
そして、その感覚を覚える瞬間は、とても直感的です。
我ながら、当たり前のことを言ってますね(笑)
だけど、わざわざ今回このお話をさせていただいているのは、僕がその感動に対して灯台下暗し的境地に陥っていたことに気が付いたからです。
以前の記事で、カール・ブッセさんの詩や僕のお気に入りの短歌について触れたり、松木流シュールレアリズムの作品を披露したりしました。
最近の記事で言えば、巨人の上原投手の雑草魂論や高杉晋作さんの哲学について言及した内容にも共通していると思うのですが、僕の感性のアンテナは思考によって得られる感動に偏っています。
要するに、頭でっかちなんです。
実は、そんな頭でっかちな僕が、最近クラシック音楽をよく聴いています。
これが不思議なもので、何となく気が向いて聴き出しました。
僕なりに分析するには、適応障害になってから、自然と心が求めてきたんだと思います。
頭がボーっとしてるから、心の喜びを感じるには直接的刺激しかないぞ!と主張してきたのでしょう。
クラシックを聴くと本当に心地いいです。
ドビュッシーさんの月の光は、僕を幻想的な世界に導き、心を洗ってくれます。
ベートーベンさんのエリーゼのためには、可愛らしい少女を連れてきて、優しい気持ちにしてくれます。
ヨハン・シュトラウス1世さんのラデツキー行進曲は、手拍子を強要してきて、気が付けば強引に明るい気持ちにしてくれています。
ブラームスさんのハンガリー舞曲は、ドラマチックに僕の心にちょっかいを出してきて、緩急をもって絶妙な爽快感をくれます。
ガーシュウィンさんのラプソディ・イン・ブルーは、不思議の国で一緒に遊んでくれるんですが、そろそろ開放してくれよって思ってもなかなか許してくれず、だけど過ぎ去った後には、味のあるいい奴だったなぁと思わせる手法で僕を骨抜きにします。
JSバッハ師匠は、どの曲でもファーザー感を出してくるので、いつの間にか僕は絶対的に服従させられていて、聴くとなぜか感謝してしまいます。
他にも好きな曲は沢山ありますが、どの曲も、耳から直接、僕の心を動かしてくれます。
ということで、僕はクラシックを聴くことで、直感的感動の素晴らしさを再認識することができ、頭でっかちでいると息が詰まるなぁと思ったんです。
そして、そのおかげで、少しだけ心にゆとりが持てるようになりました。
人は、喜びがなければ、心が苦しくなるものだと思います。
苦しんでいる心からは、前向きな気持ちは生まれにくいです。
思考によって得られる感動は、胸に刻まれ、強く長く続く気がします。
ですが、それだけでは、電池が切れちゃうことがある。
僕は闘病を通して、そのことを学びました。
ですから、みなさん五感を大切に。
最近、社会は四角四面で、その中に閉じ込められている僕たちは、少しギスギスしているように感じます。
頭でっかちにならず、心にゆとりを持つことができれば、きっとみんな楽しくなれると思います。
そんな想いから、今日はこのお話をさせていただきました。
だけど、日々の暮らしの中で、些細な感動にアンテナを張る余裕がないという人が多くいるはずです。
だから、そんな社会になるためには、僕はもっともっと仕事を頑張らなければいけません。
というわけで、改めて決意表明をさせていただいて、今回の記事の結びといたします。
追伸
最終的に頭でっかちな結論に至りましたが、僕にはクラシックがあるから大丈夫です!
最後に一言・・・大分に元気とまつき!!