みなさん、ごきげんよう!にしこり

 

 

今回は、まず、この写真をご覧ください\(^q^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

向かって左に映っている、爽やかで知的な雰囲気を持ちながらも活力みなぎる、只者ではないオーラを放ちまくっている青年は、僕です。

 

その右側に陣取る悪そうな顔のじいちゃんは、我らが自民党大分市連の秦野会長です。

 

ホントに悪代官みたいな雰囲気でしょ?

 

実物は、もっと悪そうなんですよ\(^q^)/

 

今年で77歳の重鎮ですので、おそらくこのブログを読むことはないでしょうから、僕の中で遠慮は無用ということになっています\(^q^)/

 

何なら、ブログじゃなくても遠慮は無用な方で、飲み会などで40以上年下の僕が人相悪いイジリをしても笑って許してくださる優しい人なんです\(^q^)/

 

人は見かけによらない\(^q^)/

 

僕は優しくて親分肌な秦野会長が好きです。

 

好きという理由だけで、人相の悪いおじいちゃんとのツーショット写真を掲載したかと言えば、そんなわけがありません\(^q^)/

 

今回は、僕が中学校3年生の時に大分市国語弁論大会に出場した際の原稿を読んでいただこうと思い、秦野会長との写真を掲載させていただきました。

 

何を隠そう、僕は大分市国語弁論大会で大分市議会議長賞を受賞しておりまして、その時の大分市議会議長が実は写真の秦野会長なのです\(^q^)/

 

そんな秦野会長と僕が、今同じ職場にいるってスゴくないですか?

 

てなことで、秦野会長に

『中学生の時に秦野会長から賞状もらったことがあるんですよ!今度そのことをブログに載せるんで、一緒に写真撮ってください!』

と、申し出たところ、大喜びで承諾していただいたというわけなんです\(^q^)/

 

ちなみに、写真の秦野会長は少しテンション低めに見えますが、実際は大喜びでしたので、スマホのカメラを向けられたことによる過度な身構えが、独特の表情の要因と推測されます\(^q^)/

 

そんなこんなで、秦野会長、ご協力ありがとうございました!

 

感謝の意を表すために、なぜか『秦野会長』をハッシュタグに入れときますね\(^q^)/

 

 

 

 

それでは、部活しかしてなかった15歳の松木少年が書いた、意気込みだけは立派な原稿を以下に記載させていただきます\(^q^)/

 

原文のままの記載ですから、誤字脱字や文法の誤りは堪忍やで\(^q^)/

 

読み返すと、我ながら稚拙な文章だと思いますので、お手柔らかにお目通しください(笑)

 

 

 

 

闇さえも光に

大在中学校 三年 松木 大輔

 僕には、弟が二人います。上の弟は小学校四年生で、下の弟は二年生です。この話は僕が小学校四年生の時の事です。

 それは、ある日、突然起きたのです。夕方、僕がテレビゲームに熱中していると、母の声がしました。

「大輔、救急車。」

はじめ僕は、母がふざけているのだと思いました。でも、何か様子がおかしいと思ったので、僕は外に出てみました。すると、大きなダンプカーが道路にとまっているのが見えました。ダンプカーの近くに小さなスヌーピーのクツが転がっていました。その横で母は血まみれになった下の弟を抱いていました。その光景を見た僕はとても強いショックを受けました。さっきまで元気に庭を走りまわっていた弟の足はまるでプレスされたかのように押しつぶされて、肉が見えていました。母は救急車を呼ぶのに必死で

「足がちぎれてるんです。子供が死んでしまいます。」

と何度も何度も言っていました。

 救急車が来た後、僕は病院へ向かう車の中で、ねむたくないのに目をつぶってねむろうとしました。僕は弟の事故が悪い夢であってほしいと思いました。しかし、そこには、弟が車にひかれたという事実しかありませんでした。

 幸い弟は、一命をとりとめましたが、右足を切断しました。命が助かって良かったのですが、三ヶ月も入院したので家は大変でした。母が三ヶ月の間ずっと病院に泊まりこんで弟を看病したため、僕と父と上の弟と祖父との男四人の生活がつづきました。

弟はリハビリを続けて、義足をつけて歩けるようになりました。弟が初めて義足をつけて歩けた時、僕達家族は本当にうれしくてたまりませんでした。でも僕は、弟といっしょに外を歩くのがいやでした。弟といっしょにいると、周囲の人の視線が集まるからです。小学校四年生だった僕にはつらいことでした。義足をつけた弟の足はそんなに珍しいのでしょうか、ジロジロと見るその視線に遠慮はありません。自分は何も悪いことをしているわけでもないのに身体がこわばり、顔を上げることすらできませんでした。世間の人の目に僕達兄弟はどのように映っているのだろうか。そんなことばかりがいつも僕の心をとらえていました。

しかし弟は、幼稚園の運動会で友達と楽しそうにお遊戯もするし、かけっこでは、前を走る友達に追いつこうと一生懸命に走ります。そんな弟に僕達家族は大声援を送るのです。特に母の声援はあたりをはばからず、誰よりも大きな声で応援します。笑顔で、昼ご飯を食べにもどった弟を

「お前兄ちゃんの弟やに、足おっせぇなぁ。」

ときつい冗談で迎えます。別に珍しくもなんともないごくあたりまえの普通の家族。それが僕の家族です。もう、誰の視線も気にならない僕がそこにいました。

 いま、弟は僕の影響でバスケットボールをやっています。弟ははやく走れないし、高く跳べないけど、負けずギライなので他の子に負けないくらい努力をしています。そのせいかシュートとドリブルだけはなかなか上手いです。これから先、弟はきっと足がないということで、大きなカベにぶつかることがあると思います。だけど何事にも努力しようとする今の弟の姿勢がある限りきっとそのカベものりこえることができると思います。

 僕たちの住んでいる社会の中では、いつ、何が起こるかわかりません。一寸先は闇という言葉が、うちの弟が良い例です。突然車にひかれて、右足を失いました。しかし、弟は努力して、歩けるようになり、普通に生活をおくれるようになりました。弟は闇を光にしたのです。でもここまでくるには、弟の努力だけでは、無理だったでしょう。家族や親せき、友達などの支えがあってはじめて、弟は闇を光に変えることができたんだと思います。

 先日新聞にベトナムのグエン・ドクさんの記事が載っていました。彼はベトナム戦争の際にまかれた枯葉剤の後遺症で、義足を必要とする生活を送っています。彼の義足を作っているのが私達の住む大分市の幸さんであることを新聞は報じていました。ドクさんは、双生児のベトさんと分離手術を受けた病院に就職し、自分と同じ境遇の子供達に希望の光を与えているというのです。ドクさんの明るい笑顔はとても力強く、生き生きしているように見えます。ドクさんの生活に希望を与えたのは一体何でしょう。その一つが幸さんです。身体の成長とともに何度も作り変えられる義足。幸さんは技術と心でドクさんを支えたのです。そしてもう一つがドクさん自身の夢を追いかける前向きな努力であったことは言うまでもありません。

 人の世は一寸先は闇。どんな辛いことが待ち受けているかわかりません。しかしそんな時にも、前向きに努力していけば闇でさえ光に満ちた生活に変えることができます。僕の弟のように。そしてドクさんのように。

 今日も弟は楽しそうにバスケットをしています。僕もどんな辛い事があったとしても、前向きに、前向きに考えて、道を切り開きながら生きていこうと思います。

 

 

 

どうでしたか?

 

とりあえず、自発的にブログに中学校の時の作文を載せたのに、僕は恥ずかしい気持ちでいっぱいです\(^q^)/

 

おぉ、回を跨いでのマッチポンプ\(^q^)/

 

 

なぜ今回、勝手に恥ずかしがるというマゾヒスティックな行為に及んだかと言いますと、久しぶりに自分の少年時代の文章に触れ、勇気をもらうことができたからです。

 

僕としては、子どもの頃の自分の気持ちを思い出したり、また、そこから新たに得られたものがあったような気がしました。

 

前回は、親御さんとのトークのススメでしたが、今回は、自らを振り返るススメです。

 

きっと楽しいし、色んな感覚を味わうことができると思います。

 

台風も近付き、外に出る機会も少ないでしょうから、そんな時間を設けてみてはどうでしょうか?

 

兎にも角にも、ちゃんと原稿を残しておいてくれた母親に感謝\(^q^)/

 

 

 

最後に一言・・・台風に向けて備えあれば憂いなし!!