【兄弟間の確執を癒やすために】 | キセキを紡ぐ Rut of hope

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 うちは兄弟が多いけど、けっこう仲は良いと思う。

旦那の兄弟はうちよりもっと多いけど、みんな仲良しだ。

旦那は一歩引いてる氣がするけど。


親は支配的ではなかったと思う。

なので感謝しております。


ちゅーことで

チヒロサトさんのFacebookより転載させていただきます。

いつもありがとうございますか

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 【兄弟間の確執を癒やすために】


インナーチャイルドの解放ワークをやっていると、子供の頃に経験した家族関係が、いかにその後の人生に影響を及ぼすかが、よくわかる。親に支配された子供は、その後の人生でも、支配されるような人間関係をつねに引き寄せてしまうし、下の兄弟が生まれて、親の関心が自分に向かなくなったのを経験した人は、人の視線に過剰に自分を合わせてしまったり、ある種の人たちに得体の知れない憎悪の念を抱いたりして、それによって人間関係を壊してしまったりする。


特に、親が子供を支配していて、5歳以上離れた弟妹がいるような場合、子供は下の兄弟に激しい憎悪の念を抱くことがある。それで当然、下の兄弟をいじめたりするわけだけれど、それで親に怒られていたりすると、自分は悪い人間なのだという感覚が、潜在意識に染みついてしまったりもする。それが、自分は生きていてはいけない人間なのではないかとか、死んだ方がいいのじゃないかといった感覚になったりすることもあるし、自分が極悪非道な人間なのではないかという思いから、本当に犯罪のようなことをしてしまうこともある。


こうしたことは、なかなか理解しがたいことではあるけれど、つまるところ、意識がその人の現実を作り出してしまうのだ。だから、自分は悪い人間なのではないかという意識が潜在的に強くあると、実際に人に悪い人間だと思われるような事態を作り出してしまったりする。


親がちゃんとどの子にも十分に愛情を注げればいいわけだけれど、子供が小さい頃には親だって若いし、そうそう完璧に子供を育てられるわけでもない。いくらがんばったって、人間的な限界というものもある。だから、子供はそれを理解して、親を許すべきだという話になるのだけれど、それでは状況はあまり変わらない。


元はと言えば、子供に言うことを聞かせるために、親が愛情を出したり引っ込めたり、エサみたいにして使っていたからなのだ。そうやって育てていたから、子供は親にほめてもらおうとして、親の視線に行動を合わせる。それが、下の兄弟が生まれたとたんに、これまで受け取っていた愛情が来なくなるとなったら、子供は自分が悪いのだろうと思い込んでしまう。それで、何もしていないのに、親に愛情を向けられている弟妹に、怒りの念を向けることになる。


しかし、親がそうやって子供に言うことを聞かせようとして、愛情をエサに使うのも、そもそも親もまた社会の権威に支配されていて、子供を支配社会に適応させることを要求されているからなのだ。親は、子供を世間的にまともな子供にしなければならず、幼稚園や学校の決まりに従うようにしつけなければならない。だから、親は子供をありのままに受け入れて愛するということを、しようとしないのだ。その代わりに、子供はこのように育てるべきだという世間の基準に合わせようとして、子供を型にはめるような育て方をしてしまう。


支配がデフォルトになっている社会だからこそ、兄弟間の争いがつきまとうのだろう。現代社会では、兄弟間の闘争は、生まれてきて初めて経験する争いだ。いかにして親の関心をより多く獲得するか。そのために、相手の足を引っ張ったり、暴力をふるったり、嘘をついたり、ズルをしたり、ありとある手が使われる。それはまさに、現代の競争社会の縮図のようだ。


上の兄弟にいじめられた側の人は、その記憶を鮮明に持っていることが多いけれど、下の兄弟をいじめた側の人は、記憶がおぼろげだったり、まったく消えてしまっていることも多い。記憶が消えてしまっているということは、潜在意識に排除されているからなので、その場合、自分が悪い人間だという意識を現実化してしまう可能性は、それだけ大きくなる。だから、こうした状況でインナーチャイルドを解放するのが、より難しくなる。


このような場合は、つまるところは、意識上で社会全体をまるごと変えてしまうしかないのかもしれない。公開ワークショップ2回目の被験者を務めてくれた人は、5歳年下の弟との関係については、記憶がほとんどないと言っていた。どういう環境で育ちたかったと思うかと聞いたら、親にいつも自分が一番に関心を向けて欲しかったというので、そういう子供時代を皆でイメージして、そういう育ち方をしたことにしてみた。


すると面白いことに、弟がかわいいという感情が現れてきたイメージを受け取った人が多かった。十分に愛されている感覚があれば、人に愛を向けることもまた容易にできるのだ。結局のところ、自分が受け取るものは自分が人に与えるものであり、自分が与えるものは、自分が受け取るものでもあるのだから。


親が子供を世間的な型にはめようとせず、ありのままに認めて愛することができれば、子供は親の愛を争って、たがいに攻撃的になることもないのだろう。親も、子供を思い通りにしようとして、イライラすることもない。それで、母親も父親も肩の力が抜けて、子供をありのままに愛していて、自分もありのままで悠々としているイメージが現れてきた。おそらく、支配と戦いの世界が始まる前の古代の時代には、家族はそうしたものだったのだろう。


被験者を務めた当人は、恐い、助けて、と言っているインナーチャイルドを、必死になって救い出そうとしているイメージが出てくるばかりだったと言っていたけれど、参加者の皆がそれぞれに見た幸せな家族関係のイメージを聞いているうち、安心して、胸が暖かくなってきたと言っていた。それで、インナーチャイルドに、「今まで封じ込めていてごめんね。これからはもう封じ込めないから、何でも好きにしていいよ、いくらでも大きくなっていいよ」と言ってもらった。


インナーチャイルドが解放されて、意識の中に戻ってきたとき、軸がすっと通って、内側から輝いているような感じになる。本当のその人が身体の中にしっかり入っているという感じになる。そうなって初めて、実はそれまでは、本当の自分でないものを演じていただけだったのだということがわかる。それが、どこかしら自分と繫がり切れていないという感覚や、得体の知れない虚しさになっていたりするのだと思う。


その人は、群馬県の妙義山の麓にずっと住んでいたというのだけれど、妙義山は登頂するのが難しい山として、クライマーたちの注目を集めている山だ。しかし、この山はそもそも、誰が山頂まで行き着けたとかいうことで争うような山ではないのじゃないのかと思った。


私も学生時代、山登りをしていたけれど、山というのは、ピークを制覇することにこだわり始めると、つまらなくなる。競争みたいになって、ストレスが多くなり、縛られてしまうのだ。山登りが好きな人は、もともとは誰でも、ただ山にいるのが好きだからと登り始めるのだけれど、あるときから、ピークを制覇する競争に巻き込まれてしまう。そうすると、もっともっとと、果てしなく走り続けることになる。


もっともっとと競争させるのが、実は支配のやり方だったのだろう。支配者たちは、支配する人々を分断して、たがいに争わせる。そうすると、人々はたがいに憎み合って、攻撃し合い、競って支配者の望むように動くことになる。


しかし、こうした支配の時代も、そろそろ終焉を迎えているようだ。この頃の世界の状況を見ていると、この世界をこれまで支配してきた人たちが、実は極悪犯罪集団にすぎなかったことが、これでもかとばかりに示されているかのようだ。支配の世の中とはつまるところ、ストックホルム症候群のように、人々が加害者を自分の味方だと思い込み、従っているようなものなのだ。だから、この状況から私たちが解放されるときには、支配者たちは実は私たちの味方ではなく、加害者だったのだということを知ることになる。まさにそれによって、私たちは支配から解放されていくのだ。今の状況は、まさにそれが起こっているように思える。


だから今、私たちは、これまで争い合い憎み合ってきた兄弟たちが、実は支配者によって意図的に分断された仲間同志だったということを思い出そうとしているのかもしれない。兄弟間の確執も、誰が悪かったからとか、誰がいたらなかったからといったことではなくて、争い合わなければならないようにしかけられていたから、できていた状況にすぎなかったのだ。だから、憎しみや罪の意識を手放して、たがいに赦し合い、和解し合うことで、それぞれ自分のインナーチャイルドを解放する時が来ているのだと思う。


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画像は、妙義山



    

 

  

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表紙と挿絵を描かせていただきました↓↓

 

 

 

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え?