ピラミッド型支配にサヨウナラ | キセキを紡ぐ Rut of hope

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今日は午後から他部所応援===333
休憩取れるか微妙なので、予約投稿しておこうっと。

ちゅーことで、
チヒロサトさんのFacebookより転載させていただきます。
いつもありがとうございます。
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【王のように分ける】

ドイツで作られたメルヘン映画で、ある国の王が息子たちと狩りに出かけて、パンを分けて食べるときに「王のように分ける」と言ってパンを裂くシーンがあったのを思い出した。ドイツ語では、平等に分けるというのを「兄弟のように分ける」というのだけれど、この映画では、それにかけて「王のように分ける」と言わせていたのだ。

私は最初その意味がわからなくて、王のような分け方ってどんな分け方なんだろうと思っていた。そのシーンでは、王さまはただ半分にしたようにしか見えなかったからだ。あとになってから、あれは「兄弟のように分ける」と同じ意味で「王のように分ける」と言っていたのだと気がついた。王たる者は、あるものをいつでも平等に分けるべきなのだと。
 
その映画では、王は息子たちと狩りをしながら、王としてはどのようにするべきなのかということを息子たちに教えていた。飢饉になったら、最後の一つのパンまで平等に分けろ、とかそういうことをだ。それでお昼のパンを裂きながら、「王のように分ける」と言っていたのだった。

何ていう映画だったか忘れてしまったのだけれど、70年代くらいに作られた東ドイツの映画だったかもしれない。東欧圏では、メルヘン映画でもよくそういう共生の思想が端々に入っていたりする。

王さまというものは、生れながらに特権を持っていて、人々と国土とを所有しているのだという考えに私たちは慣らされてしまっているので、「王のように分ける」というのが「平等に分ける」という意味だということになかなか思い至らない。しかしもともとは、王というものは、平等に分ける役を請け負っているからこそ、王としての特権を与えられているのだという考え方がある。それが社会契約説というものなのだけれど、実際ヨーロッパでも昔は、王は人々がそのために適役と思われる人物を任命していたのだそうだ。いろんなところに「王の玉座」と呼ばれる石の遺跡があるのだけれど、それは、人々が王と認める人物をそこに座らせて、王の特権を与える儀式をするために使われたものなのだそうだ。

王は、国土と人民を外敵から守るために戦い、国の産物を公平に分ける責任を負う。その代わりに人々は王に命令する権限を与えるのだ。人々は余剰の生産物を王のところに持っていくけれども、王はそれを責任を果たすために使い、残りは公平に分けなければならない。だから、もし王がその責任を果たさないで、国民を不当に扱うようになったら、人々は王を倒して、新しい人物を王に据える権限がある。それがメルヘンにもよく出てくる、「悪い王をやっつける英雄」の物語だ。

今の世界はといえば、もう何十年も富が公平に分けられていないのに、それを誰も正すことができないような状況だと思う。70年代から生産性の上昇に対して、賃金の上昇が比例しなくなっているのだそうで、ということは、ものすごい額の富がどこかへ消えていっていて、その額は時とともにどんどん増えていっているということになる

私たちはそんなこととも知らず、政治にはそれだけのお金がかかるものなのだと思い込まされていたようなところがある。ところで、それがどこへ消えていっていたのかが、この2年ほどで次々表に出てきていた。

何よりも政治家を買収し、操るために、ものすごいお金が流れていたことがわかった。政府が税金でものを買うと、そのうちかなりの割合の金額が口を聞いた政治家のところに行く。表向きは企業が講演料とか何とかの名目で支払っているのだけれど、つまりは税金から出ているのだ。そういう類のお金で与党も野党もすべて取り込まれてしまい、政治家をいくら取り換えても、何も変わらないようにされてしまっている。

テクノロジーの発達によって、生産性はどんどん上がっていき、それにつれて消えていくお金もどんどん増えていったのだ。そのお金で、メディアをすべて買収し、司法までも取り込んでしまい、不正が暴かれないようにしてしまった。その上、メディアを使って人々を心理操作して、不正に意識が向かないようにさえしてしまった。

それが西側諸国のいたるところにある「沼」なのだ。公平に分けられなかった富で買収され、腐敗し切ったマリオネットになった人々が、お金のために犯罪を犯し続けている、ズブズブの沼だ。

政治家は皆同じで、正義などはないのだと言っている人も多い。これまでのことを見ていたら、確かにそうだと思えるところもある。2年半前に奇妙なパンデミックが始まってから、まさかこの人がと思うような政治家までが、ことごとく腐敗してグローバル金融エリートの言うなりになっていることがわかってしまった。そのさまは、「沼」がいかに深く、巧妙に人を欺いているのかをありありと示していた。

しかし、この状況を正すことができるのは、やはり人間が持つ正義という感覚だと私は思う。この2年半で、私たちはどのような仕組みでこうした不正の状況が保たれているのかについて、多くのことを学んできた。その一方で、それまで政治とは縁のなかった弁護士や医学者などのエキスパートたちが、政治的に抗議活動を始めるようにもなった。ありとある妨害を受けながら抗議活動を続けている人たちの動機になっているものは、不正を許したくないという思いでしかない。それを見ていると、この極端な状況になって、やはり正義の感覚は人間にとって本質的なものなのだと思わないではいられない。

自分の保身や利権のために動いている人たちの顔つきがどんどんドス黒くなってくるのに対して、抗議活動をしている人たちの顔は、どんどん輝かしくなっていく。それを見ていると、人間を幸せにするのは、やはりお金でも地位でも特権でもなく、人々のために正しいことをしているという正義の感覚であり、誠実さなのだと思えてくる。そういう人たちに、まさに王の輝きというものが見えるのだ。

物質的な層で見るならば、政治とはお金や特権のやりとりだということになるのだけれど、精神的な層、あるいはエネルギー的な層で見るならば、政治とは愛のエネルギーのやりとりだということになるんじゃないかと思う。公正さを取り戻すことで、多くの人が苦悩から解放され、豊かになる。それによって人々から支持されて、より大きな権限を与えられる。政治がそのようなものとして見られるようになったとき、本当に循環する政治というものが生まれるんじゃないかと思う。

政治家を崇拝したり期待したりする対象としてではなく、公正に分ける役を果たす人として見るべきなのだと思う。政治家がちゃんと「王のように分ける」かどうかを見るべきだし、その責任を果たさない場合はすぐに降ろす権限が私たちにはあるのだということを知る必要がある。

私たちはあまりにも腐敗に慣らされてしまっていて、そんなことは現実的でない理想のように思っていたりもするのだけれど、私たちがそういう意識で政治を見ているからこそ、腐敗が終わらないのかもしれない。つまるところ、私たちの意識が現実を作っているのだからだ。だからこそ今、政治家とは「王のように分ける」人々であるべきなのだという意識を私たちは持つべきなんじゃないかと思うのだ。

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画像は、森の家の庭のブラックベリー。