豊臣秀次には喘息の持病があり鬱(うつ)での自殺原因は孤独が大なのに誰が(孤独になる)高野山へ(行け)と言ったのか
←写真クリックで拡大します曲直瀬玄朔(まなせげんさく):医学天正記より「喘息」
秀次事件の真相を追っていますと、秀頼が生まれた文禄2年の8月の翌月、つまり文禄2年の9月に、関白秀次が熱海に湯治(とうじ:温泉に入って病気などを治療すること)に行かれたのですが、お湯につかりすぎて体調が悪くなり、持病の喘息で苦しまれたことが曲直瀬玄朔(まなせげんさく)著による「医学天正記」に書かれている事をご存知でしょうか。

豊臣(関白)秀次の人物像に関しては資料がとても少ないわけですが、秀次に喘息の持病があり気鬱(きうつ)という、現代で言えば、神経症を患っておられたことが、医療記録(秀吉や家康もある)という信ぴょう性の高い記録から発見できたことは、真実を知る上において貴重な資料となるわけで、
貴重な資料を知るに及びまして、跡継ぎができない秀吉のもと、豊臣一族政権の存続のために喘息という持病を抱えての関白職を担わなければならなかった秀次を考える、という事がこれまでの歴史の中であっただろうか、という思いを深くいたしました。
また、跡継ぎができない秀吉が持病を持つ甥を関白にしなければならなかった秀吉の采配に秀次に対する気遣いや配慮があったのではないのか、という観点で、今一度歴史を見直すべきではないか、という問題提起も今回のブログでは申し上げたいわけなのでございます。
近世漢方医学書集成6 曲直瀬玄朔 名著出版
秀次を治療した曲直瀬玄朔の内容を現代文に直された文章が、近世漢方医学書集成6 曲直瀬玄朔の解説(矢数道明)のP31~2にあります「「医学天正記」治験録をめぐって験例五「関白秀次の喘息を治療す」に書かれていますので、その個所をを転載させて頂きます。
矢数道明(ヤカズ ドウメイ:昭和・平成期の医師 北里研究所東洋医学総合研究所名誉所長)
P31より
治験例五 (ブログ最上段写真の現代語訳)
関白秀次の喘息を治療す
文禄二年(1593) 玄朔四十五歳
関白秀次公は気鬱積(きうつせき)によって興奮上気し、伊豆のの熱海温泉に湯治(とうじ)にゆかれた。
初め六、七日はよく効いて、食も進み、気分も爽快(そうかい)であったが過度の入浴によって気逆上し、胸が塞がって苦悶(くもん)しはじめ、痰(たん)がつまって喘急し、呼吸荒く、促伯(そくはく:呼吸が早くなる)のため横臥(おうが:からだを横たえること)することができなくなってしまった。
このとき自分(曲直瀬玄朔)に往診のお召しがきたので、朝鮮より帰って間もなく、往ってみると、寸脈は緊で実し、尺脈は虚して力がない。

足の先から膝までは非常に冷たくなっている。これは心より上の方に気があつまって下焦(げしょう:へそより下の肝臓・腎臓・生殖器部)が虚しているものである。
呼吸は苦しく喘鳴(ぜんめい:呼吸時にヒューヒュー、ゼーゼーと音を伴うもの)の声は隣り近所近辺まで聞こえるほどである。
自分(曲直瀬玄朔)はこのとき李東垣(りとうえん:中国の医家)の加減瀉白散(しゃはくさん)一貼を作って与えたが、これをのむと間もなく呼吸が楽になり、足の冷えが温まってきた。さらに二貼のんだところ、呼吸困難はすっかり止み平常に復した。
(以下略)
文禄二年というと秀次は26才の時になりますが、曲直瀬玄朔の「医学天正記」という医療記録からみられる秀次の喘息は深刻なものがあったことをわからせてくれます。
秀次は自身の持病(喘息)を何とか早く治したいという思いは以前から強く持っておられました。
この事を知る事柄に熱海温泉への湯治の2年前の天正19年(1591)に家康を従えて奥州へ行かれた帰りに足利学校(現在の栃木県)によられ「豊臣秀次 学校の書籍等を京都に移す」という事をされているからなのです。
なんでわざわざ足利学校によられたのか、
歴史では単にその事柄のみが記録されているわけですが、実は今回紹介の「医学天正記」を書かれた曲直瀬玄朔の師匠であり、中世医学中興の祖、とも言われていた曲直瀬道三、更にその師匠の田代三喜が、この足利学校で学んでおられたというのです。
田代三喜・曲直瀬道三という、後世名医と言われた方々が学ばれていたという事から、足利学校が儒学の学校であって医学の学校ではなかった言われていたとしても、医学(中国医学を)学べる環境(書籍)があった事が分かってまいりました。

足利学校の学校門(wikiより)
足利学校(あしかががっこう)は、下野国足利荘(現在の栃木県足利市)にあった、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった(Wikiより)
この足利学校について「日本医学史研究余話」P104より
「元来、足利学校は創設当初より儒学を講ずることを目的とし、その他の勉学は禁じられていた」
と書かれています、ですから歴史に「豊臣秀次 学校の書籍等を京都に移す」とありましても秀次のことを、政(まつりごと)を学ぶなど勉強の好きな方だ、という感じでとらえていたかもしれません。
しかしなのです。

「日本医学史研究余話」 服部 敏良著(科学書院)
服部 敏良(はっとり としろう:日本の医師、医学史研究家)氏はこの「日本医学史研究余話」のなかで、儒学と医学の関係ついて実に興味深いことを述べておられます。
P14より
「儒学と医学とは全く密接不可分の状況にあり、漢方医学が儒教の影響を受け発達したことはいうまでもない。
しかし、その反面、儒学は国を治むる大道にして君子の学ぶべきもの、医学は報を求めて技を売る小道なりとして、儒者に医を蔑視する風のあったことも事実である。
しかるに、多くの医師は、これを意に介せず、厳然として医道を守り、医術に励み、抜苦与楽、より多くの病人を救うことに力を注ぎ、医学の本領を発揮したのである
(以下略)
秀次が関白になる直前という時代背景からも、 秀次は何とかして持病を治したいという思いから、都に本(医学書)を移して表向きは儒学を学ぶとしながら、職務全うのための体づくりに実は自身で医学を学ぼうとされていたんだ、という事が分かってきたわけなのです。
それにしましても、中国医学の本と思われますが医学の難しい本を読もうとされる事からも、秀次には武人というより文人あるいは学者としての才に秀でたものを持っておられた、という人物像が察せられてくるわけです。
関白豊臣秀次
次に秀次の喘息と鬱(うつ)という、一見すると別個のように思われる関係をネットで検索し現在の医療知識から考えることにしました
そうしますと喘息と鬱(うつ)の関係は別個どころか、大変親密なものである事が分かってきたわけなのです。
検索サイトから抽出したものを記載させて頂きます
http://atopyiden.web.fc2.com/zensoku/utsu.html
恐怖を抱くようになります。
(以上)
この様に、喘息になるといつ起こるかもしれない発作などから精神的ストレスが継続して起こる状態になり、鬱(うつ)病になりやすい、という事が分かります。
そうしますと
太閤秀吉から大きな期待と大任を任されるにもかかわらず、
関白秀次自身は持病(いつ直るか不明)を
持つことから、その期待と大任が
(大名がずらりとそろった様なところで喘息の発作が起こったらなど)
「全うできるだろうか?」
という不安を常に持っていた
ことが想像されてくるわけです。
秀頼が誕生する以前から、この様な状況があったことから、今一度秀次事件の要因を考えなおしてみる必要が出てくるわけです。
また、サイトにはストレスを受けやすい、つまり病気になりやすい性格について書いているものもあります。
や
自分の気持ちを抑えて周囲の人たちに合わせている人が多いのが特徴です。
疲れていても休めないために疲労がたまったり、
困ったことがあっても周りの人に相談しなかったり、頼まれたら断れなかったりするためにストレスが増えて症状が悪くなることがあります。
(以上)
関白秀次に関しての人となりを少なからぬ資料から考察するとき、実によくあてはまっているではないでしょうか
「自分の気持ちを抑えて周囲の人たちに合わせている」では常に秀吉や政権に合わせようとされていますし、元禄4年7月頃に突如として謀反の疑いが持ち上がった時でも、相談している人があまりなかったようですし、またしようともしていなかったようです。
この点で、1595年10月付、(長崎)発信ルイス・フロイス師の年報補遺に気になる記述がみられます。
イエズス会日本報告集第1期第2巻のP110より
「関白殿(秀次)が聚楽(亨)でこのような心配事に悩んでいた時、太閤様は彼に話したいことがあるから(伏見の)己れのもとに来るようにと命じた。
それに対して関白殿は
「ひどく憂鬱な気分に悩まされているため、今回は参上できませぬ」と答えた。(以上)
この記述が正確ならば、秀次のうつ病は相当進行していたのではないかと思われるわけです。
(つぶやき:どうしてイエズス会は豊臣政権のこんな内情までしっているのでしょうか・・・あなたはどう思われます!)
ですから、こんな持病持ちの秀次が謀反を起こすなんて、どうしてできるのでしょうか。
さすれば、通説のストーリーは健康な武士(秀次)を想定して書かれているのではないか推察できるわけです。
をもう一度見直して頂きますとこの事は、秀次が早くから喘息でうつ病があったという観点からもあり得ないと申し上げられるわけです。
(矢部健太郎先生は秀吉がたいそう秀次には気を使われていたと記事には書かれています)
そして最後になりますが、宮中の「お湯殿上の日記」に記載されています、秀次が腹をお切りになったのは、無実であるが故、と記述されている点の思考です。
まず、鬱(うつ)病と自殺の関係について調べてみましたら以下のようなサイトから、自殺の原因で最も多いのが鬱(うつ)病であるという事なのです
厚生労働省における自殺対策においても、その中核となっているのはうつ病対策です。
i)うつ病の現状
厚生労働省が3年ごとに全国の医療施設に対して行っている「患者調査」によると、平成8年には43.3万人だったうつ病等の気分障害の総患者数は、平成20年には104.1万人と12年間で2.4倍に増加しました。
「患者調査」は、医療機関に受診している患者数の統計データですが、
うつ病患者の医療機関への受診率は低いことがわかっており、実際にはこれより多くの患者がいることが推測されます。
甘く見てはいけない!うつ病の自殺率
http://www.skincare-univ.com/article/008134/
「この病気は一生治らない」
「周囲に迷惑をかけてしまう」
と絶望してしまうため、結果的に自殺に結びつくと考えられます。
また、うつ病と脳の仕組みにより「脳内の情報伝達物質が正常に働かなくなったために自殺に至った」と考えることも可能です。
(以上)
勿論、鬱病患者は自殺率が高いという事あっても、うつ病だから自殺するというわけではありません
ただ、うつ病者が自殺に至るようになる条件としては「孤独」という状態になることが言われています。
ならば、秀次が行かれた高野山というところは、どういうところであるといえるのでしょうか
私も秀次公のお墓のある高野山のお寺(高台寺)に行かせて頂いていますが、本当に深い山の中なのです。
400年以上前ならば、ほとんど人もいないところではなかったと思われます。
ですから、鬱(うつ)病の秀次は、実に孤独になれる環境に身を置かれた、という事が出来るわけなのです。
(これは400年前の人のことではなく現代人にも当てはまる事柄とも言えるわけです)
「秀吉の命令=「追放」ではなく、秀次の自発的な行動=「出奔」として記録されている。
ならば、秀次が鬱病で自殺しやすい、孤独な環境がある高野山へ行かれた、というのは、秀次が思い立ったことなのか、または誰の指示なのか、あるいは誰かからのアドバイス(助言)なのか?という疑問に行きついてきたわけなのです。
本ブログのタイトルを
豊臣秀次には喘息の持病があり鬱(うつ)での自殺原因は孤独が大なのに誰が(孤独になる)高野山へ(行け)と言ったのか
特にイエズス会の日本報告には意図的に秀吉を悪者にしようという意思がある事が分かってきましたし、その恣意的な内容が徳川家康の時代に使われ利用されているという関係にも、注目していきたいと思っております。
歴史の真実に光を当てる・・・
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