ひきこもりは、表面上のみえる状態であって、本質はただ「しんどい」という状態なので、ひきこもっているかどうかではないということ。

「私は生きている価値があるのだろうか?」「生きづらい」と思っていること。

ひきこもっていても、ニートでも、働いていてもしんどいのはしんどい。
どうやったらそれが解消されていくのか?がわからない。ので苦しい。から考えるのをやめて生きる。

自分は道端の雑草かもしれないけれど、雑草だって花が咲く。雑草だって名前だってある。
自分を受け入れてくれる場所がひとつあるだけでいい。

大勢の知り合いよりも、ひとりの味方がいれば人は生きていられると思うのです。

「わたし」という存在をそのまま受け入れてくれたならば、「生きていてよかった!」と思えると思う。

理想とする自分像に縛られているけど、その自分像は他人によってつくられた虚像だ。

本当は、そのまま産まれたての赤ちゃんのように何もできなくたって「命」があるだけで素晴らしいのだ。

全ての命が誕生を祝福されている。それは間違いない。

どんな状況で産まれたとしたって、この世の中の生を授かることは素晴らしいと思う。

なんでもすぐにうまく行かないから、できた時の喜びがはんぱなく。体験できるから。

わたしはひきこもりではなかったけれど、ずっとずっと生きずらかったし、生きている意味を見出せなかった。自傷行為を繰り返していたし、過呼吸症候群、摂食障害もしたし、うつ病もパニック障害もあった。神経が過敏すぎる自分がとても嫌いだった。


だから、表面上には、明るく楽しく悩みなんてないような能天気な人になりたかったし、そう思われたかった。

果てしない闇を全面に出てる人なんて受け入れてもらえないと思っていたし、みんなそんな人と関わりたくないはずだと心のなかで思ったからだ。

でも実際は、光のまったく届かない深い深い闇に包まれる洞窟の底にいて、

そこから、「明るく楽しい自分を演じている自分」をみていたのだと思う。

そして1人になった時には、そのギャップが苦しくてつらくて、直視ができないので、何かに依存していないと生きていられなかったんだと思う。

依存対象は、嗜好品であったり、買い物であったり、スリルであったり、人であったり、仕事であったり。とにかく静寂がくると洞窟のなかにいる自分に戻ってしまうのが怖かったんだと思う。

いまでこそ、客観的に状況を把握することができるけど。

洞窟の底にいた自分は、今はいない。
表面上にみえる自分も今はいない。


魂のままに全てを受け入れる覚悟ができたとき、洞窟の底から上を見上げていた自分は、わからないけど上に登ることを始めた。方法はわからないけど、とにかく動くことを始めた。

「ここは暗いし、苦しいけどどうしたらいいのかわからない。だから、もう消えてしまいたい」と思っていた自分からは想像できなかった今の自分。

めっちゃ楽ちんになりました。あはは~。

いろいろとやってみて思うこと。


とにかく、丁寧に今を生きること。
起きたことは全部認めること。
やりたいことはやる。
やらなきゃいけないことは、楽しんでできるように工夫をする。 
どんなこともハマりこまないようにすること。

まぁ、生き抜くこと。が大事だなぁと感じてます。


生きているということは、動いていることだから。

なにかしら、風向きは変わってくるのだから、それをどうなるかなぁと楽しんだらいいんじゃないかなぁと思えるようになりました。



前に描いていた作品から。今では描けない繊細さ(笑)

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