安井かずみさんの本を読んだ。

彼女の本ではない。

「安井かずみ」を書いた本だ。

実は1年ほど前から読みたいと思っていて、

書店に行くと必ず探したのだが、見つからなかった。

僕は昔から「本は出会い」と思っているところがあって、

読みたい本でも、書店で出会うことができないと、

「これも縁だな」とあきらめてしまう。

ただ、今回は幸運にも?新型コロナのせいで自宅待機に

なってしまい、書店に行くこともできなくなったので、

書店での縁を諦めて、ネットでこの本を注文した。

 

一気に読んだ。

面白かった、という表現があっているかわからないけど、

読んでよかった。

 

 

 

 

 

昨日は、「もし自分が今高校生だったらどう思うか」を書いた。

 

今日は、今、もしくは、高校球児でなくなったあとの自分から

見た場合について書こうと思う。

 

現役(高校球児)のときは、夏の地区予選からつながっている

「甲子園」という目標がなくなった絶望感がメインの感情だが、

大人になって思うことは、「甲子園」への道ではない。

 

昨日も書いたが、強豪校ならまだしもそうでない高校は、

現実的には甲子園なんて夢のまた夢。

別に甲子園大会がなくなっても、もともと甲子園に行けなかった

のだから(そのような実力だったのだから)、とくにどうってことは

ないのではないか?

確かに、それはある。しかし、別の損失というか、違った感情(残念さ)を

抱かざるをえない。

 

それは、

「真剣勝負」ができなくなることだ。

 

ほとんどの球児が、高校で野球をやめると思う。

プロに行けるのはほんの一握り。

大学や社会人で野球をやれるのも、これまた高校球児のほんの数パーセント

だろう。

あとやれるとしたら草野球くらいしかない。

 

ただ、草野球はあくまでも草野球であり、

僕も、「最後の夏」がおわってから草野球をやったことがあるが、

「勝負」という見方をした場合、それは高校球児のときの公式戦(特に夏の大会予選)

とは天と地ほどの違いがあった。

 

もちろん、草野球でもかなりのレベルでやっている方々もいるし、

大会だって開かれているから、草野球は真剣勝負では無いとは言えない。

ただし、実際にはそういう草野球のチームに入って野球を続ける人も

やはり稀であるのも現実だと思う。

 

「野球の楽しさ」を味わうという意味では、僕からすれば、ある意味草野球のほうが

たのしい。

でも、「勝負」をするあの緊張さ、真剣さ、厳しさ、そしてそういったなかで

勝つことの喜び、負けたときのくやしさというのは、草野球では味わえない。

 

僕は高校球児のときにはそのことはわからなかった。

大人になって草野球をやったときにそれを感じた。

「ああ、もうあのときのような真剣勝負はできないんだな」と。

 

もしかしたら、それは人によって違うのかもしれない。

僕はキャッチャーだったので、もしかしたらほかの元球児より、

その違い(高校時代の野球と草野球)が強いかもしれない。

※なぜキャッチャーだとそうなのかは、また別の機会に書こうと思う。

 

結論として、

「ああ、君たち(今の高校球児、特に3年生)は、もう一生野球の真剣勝負

ができなくなってしまうんだなぁ。ほんとにかわいそうだなぁ」

というのが僕の今の心境です。

 

僕なんかは、今でも、「ああ、あのころに戻って甲子園を目指したい」なんて

ことは思わない。

でも、「あの時代に戻って、もう1度、真剣勝負で野球をしたいなぁ」とは

なんども思った。

 

地区大会については、まだ中止と決まったわけではない。

なのでまだ真剣勝負の機会は残っているともいえる。

でも、昨日書いたように、地区大会は「甲子園につながっている」から

その価値というか重みがあるので、甲子園への道がなくなった状況で、

それがどれだけの価値や重みがあるのかはわからない。

 

それでも、やらないよりはやったほうがいいに決まっている。

ぜひ地区大会をなんらかの形でやってほしいと思っている。

 

プロに行けるか、大学に野球推薦で行けるか、そういうレベルの人に

とって甲子園大会はまさにセレクション会場であり、それがなくなった

ということの損失もあると思うが、

大部分の高校球児にとっては、僕は、「人生の最後の真剣勝負」の場が

なくなったという意味のほうが、言葉に表しきれないほどの残念さを

感じるのだ。

 

 

 

 

 

 

僕は中学・高校と野球部だった。

まさに、甲子園を目指していた球児であった。

 

先日、新型コロナの影響で、今年の夏の甲子園大会を中止する

ことが発表された。

 

そのことについて、僕なりに思ったことを書こうと思う。

 

まず、もし僕が高校3年のときにそうなったら、と考えてみた。

 

僕の高校は特別強豪ではなかった。

それでも、毎日毎日土曜も日曜も練習した。

「甲子園を目指していたのか?」と訊かれれば、

「そこまでは・・・」と答えていただろう。

でも逆に、

「甲子園を目指してなかったのか?」と問われたら、

「目指していないわけではない」というのが本音。

 

夏の大会は春の大会と異なる。

春は「推薦」だけど、夏の大会は地区予選で負けなければ、

どこの高校でも甲子園に出れる可能性がある。

なので、強豪校ではない高校はまず予選の一回戦に勝つことを

目的にし、それに勝てば次に二回戦、また勝てば三回戦・・と考える。

なので、はじめから甲子園を目指すとは言えないけど、

勝つことで甲子園につながるので、「目指していない」とも言えないのだ。

 

つまり、夏の大会は予選から甲子園までつながっている。

強豪であろうが弱小であろうが甲子園への道が「ある」というのが

重要だと思う。

 

その道がなくなった、ということが決定された。

「どうせ甲子園になんか行けなかったんだから、同じだ」

とは考えなかったと思う。

 

目標がなくなった。

なんのために今まで練習していたのか?

もうこれ以上練習しても意味ない

 

と僕なら思う。

 

さらに、今の時代はわからないが、僕らの時代は、

けっこう野球部というのは、「ワル」が多かった。

野球をやっているからおさえていた(おさえられていた?)。

そういう連中がこうなった場合、当然もとに戻る(つまりワルになる)、

ことになるだろう。

僕なんかもある意味気づいたら野球をやるために高校に行っていたような

気がするので、そうなったら高校自体辞めてしまう可能性が高い。

(実際、僕は最後の夏の大会が終わった後、つまり2学期から半分しか

学校に行かなかった。ま、これは言い訳できないけど)。

 

負けてさっぱり辞める

ことさえ難しいのに、

負けずにさっぱり辞める

なんて、僕には想像できない。

 

もちろん野球だけを特別扱いできないけど、

この甲子園大会中止はそれほど現役の高校球児(特に3年)にとっては

大きなことであり、人生を左右されかねないものだ

 

と思った。

 

つづく