東京新聞が偉そうに上から目線の下らない戯言を垂れ流している。


<記者発>若者に届かぬ言葉


~若い世代に自分の暮らしと政治とのつながりを知ってもらう-。そんなうたい文句に誘われ、都内で開かれた討論イベント「格差時代の夜明け前」(NPOカタリバ主催)を聞きに行った。

 「大人」の代表として国会議員と学者、政治記者、「若者」代表として学生やフリーターらが壇上に並び、政治や格差問題を議論。学生や二、三十代のサラリーマンら約四百人が熱心に耳を傾けた。

 盛り上がってきたところで、突然、若者側代表の一人が「議論がかみ合っていない。(大人側の話は)言葉が難しく分からない」とかみついた。会場からも「そうだ」との声があがった。

 大人側の発言は、私たちがふだん記事を書くときに使う表現とそう変わらない。むしろ、意識的に分かりやすく話していたと思っていた。それが若者には通じないのだ。この感覚のズレは何なのか。政治記事が若者に読まれないのも無理はないと、衝撃を受けた。

 さらに司会者が会場に「マスコミの報道は信用できるか」と問うと、大半がノー。討論会に参加する若者は政治に関心があるはずなのに、政治記事を理解できず、信用もしていない。そんな現実を突きつけられた。

 ただ、救いもあった。「次の衆院選に必ず行くか」との司会者の問いには、参加者のほとんどが行くと答えた。投票の判断材料を提供するのは私たちの仕事だ。どう若者の心に届く記事を書くか。難しい宿題をもらった。 (清水孝幸)~


討論イベントと謳っているが、そもそも、左翼的なイベントに過ぎないと感じている。ようは自身の主義主張を押し付け、その価値観こそが正しいと言い放つ傲慢なイベントであったと疑っている。


大人のカタリバ ゲスト


このゲストの並びを見ただけでも、偏向的だし思慮の欠片も無いと感じる。最低限このイベントに相応しくない人間を並べている時点で、偏向したイベントだと感じさせるのは至極当然だ。

まずは宮台真司、援助交際と言い逃れをしただけの少女買春を擁護し、オウム問題では、過剰にオウムに肩入れした、発言者としても表現者としても、過去のメディア受けだけの中身の無いポストモダン詐欺の責任を取らせるべきだ。

さらに、福島瑞穂だ、この馬鹿議員は他者を批判する為に、三文コピーライター並みの中身の無い罵詈雑言を並べているだけの愚物で、まさに税金泥棒だと感じている。

それ以外にも並んだ人物は、テレビコメンテーターとして中身の無いアジテーションを繰り返す元記者が並んでおり、メディアが政治問題を煽る姿勢のくだらなさを具現化しているだけにしか見えない。


それほど自信を持った討論イベントだというのであれば、発言内容をWebでも完全な形で公開して見せろと感じる。Webが発達した今なら、さほどの労力が無くとも、自らの主張の裏づけとして討論内容を公開できるはずだ。


最低限議論の内容すら公開せず、「若者」という安っぽい括りでごまかそうとしているだけにしか見えない。


マスコミの報道が信用できないとの結果が、このような極端なメンバーのイベントでも言われるという事実は、重く受け止めるべきだ、「言葉が難しい」ではない、それ以外の部分を公開せず、今の若者の理解力が無い事が問題のように言い放つ姿にこそ、嫌悪感を感じた。

理解していないのに信じていないというのが事実のであれば、直感的に胡散臭いと見られているといえるのではないのか?とも感じるし、そもそも、この記事のイベントの討論内容を公開せずに一方的に報道がこの討論イベントでマスコミに不信感を表した人間を「理解力が無い」と蔑んでいるだけで、自己の報道の正当性を担保する、見苦しい保身ではないかと疑いを持っている。


メディアが報じたから事実という時代は過ぎている、このようなオピニオンを打ちたければ、それに値するだけの事実を積み重ねて見せるべきで、今回で言えば討論内容すべてを包み隠さず公開した上で、理解の無いのが若者なのか、メディアの偏向報道が指摘された言い逃れなのかの判断をしたい。


報道が事実なのか?そこすら疑われる現実を作ってきたのはメディアだ、それならば偉そうな言葉の裏づけを持ってから語るべきで、それが出来ないのであれば意見を吐き世論誘導を働こうとするのはアジテーターだと認めた事になるのではないかと感じる。