結論から。

 

「イギリス文学概論」担当の先生とは私の卒業後すぐに結婚しました。

友人からは、”やったね!”なんて言われたりしました。

 

でも、彼との結婚生活は17年に及んだ後、私が単身米国へ渡った事により、

その内の8年が別居。

 

彼には本当に悪い事をしてしまった。85%私が悪い。

(100%じゃない所にまだ自己防衛能力を発揮中!)

 

結婚し、子供は最低2人か3人。大学教員の妻として私は安定した結婚生活を手に入れたはずだったのに。

 

彼は私の成長(?)を期待しながら、将来良い家庭を築きキャリアに専念できると

思っていたのだろうと思う。

 

途中経過は以下の通り:

 

結婚して何年かしてやっと(私の!)念願であった彼の国費研修に帯同して米国へ。私もちゃっかり?大学院へ。そして、帰国。大学での非常勤講師をするかたわら母の看病・死。

 

一方で、いくら治療を受けても、続けても授からない子供。

 

心も体もくたくたになった私は、単身米国へ渡り、国際ビジネス専攻でMBAを取得。

(今なら’よくやったよな~。もう絶対出来ない!’と思う。)

 

この頃は本当にどん底の生活をしていた。

生活費・学費捻出する為に朝・昼ウェイトレスをした。

 

部屋は大学院時代の友人宅の一部屋を借り、車は5万円で購入した日系オンボロ車、信号で停止するとエンストを起こす事度々。食事は勤め先のレストランのまかないがほとんど。店のお客には蔑まれ、韓国人のレストラン・オーナーにはこき使われる毎日。オシャレなんてする暇もお金もないただの日本人おばはん。

 

学校の方はどうかというと、レストランのランチとディナー時間の隙間時間に課題関連の本・記事を読み、レポートは夜何日かかけて書くという毎日が2年近く続いた。

 

後になって知った事だが、私の裏のニックネームは”教授”だったらしい。

落ちぶれたもんです。

 

でも、私にはそんな事知る由も、気をくばる余裕なんていうのもなかったのよね。

とにかく、”生き残らなれば・・・”だけ。

 

こうしてMBA取得後、就職先を探す。ビジネス経験のない私、ましてや就労ビザを持たない私がどんな仕事につけるのだろうと不安な日々。

 

大学教員の妻として、非常勤講師をして社会的、金銭的にも安定した生活を捨て、そしてなによりも彼を置いて来てしまった私が負うべき十字架だったのかも。

 

それでも、’やっと自分らしい生き方が出来そう。。。’とワクワクしていたのも事実。意気揚々、やっぱりなんかバカで勘違いな私はこの後、次々ときつ~い事を経験するなんて想像もつかないのでした。

 

ここでやっとこのブログの本題である「残酷転職物語」のはじまり、はじまり。。。

なのでした。