南三陸町 防災対策庁舎 「取り壊し」か「保存」か

産経新聞 10月11日(木)7時55分配信

南三陸町 防災対策庁舎 「取り壊し」か「保存」か
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「取り壊し」か「保存」かで揺れる防災対策庁舎は休日には多くの観光客が訪れる=宮城県南三陸町(石田征広撮影)(写真:産経新聞)

 ■町民らの声 町長、結論先送り

 ■「あの惨事を忘れてはいけない」「遺族のこと思うと…」

 東日本大震災から1年7カ月。巨大津波で42人が犠牲になった宮城県南三陸町の防災対策庁舎が「取り壊し」か“震災遺構”として残す「保存」かで揺れている。一度は取り壊しを決めた佐藤仁町長(60)が8月、再考や保存を求める町民らの陳情を受けて、取り壊しの再検討を表明したためだ。町議会は9月定例会で「早期取り壊し」の陳情を採択したが、法的な拘束力はなく、結論は決まっていない。

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  ◆「難しい」

 「難しい」。佐藤町長が険しい表情で声を絞り出した。町議会最終日の先月25日、防災対策庁舎の「取り壊し延期と再考」「保存」「早期取り壊し」を求める3本の陳情のうち、採択されたのは「早期取り壊し」だった。佐藤町長は「個人的な考えだが、震災を伝えるモニュメントにしたい」と震災直後に表明した。防災対策庁舎は町職員の遠藤未希さん=当時(24)=が防災無線で最期まで避難を呼びかけた場所だったからだ。

 「急いで高台に避難してください」。遠藤さんの呼びかけに多くの町民が救われた。赤い鉄骨がむき出しになった庁舎は東日本大震災を代表する被災のシンボルともなった。町長自身も屋上のアンテナにつかまって九死に一生を得た。

 だが、構想は町職員の遺族らの猛反発で一度は頓挫する。身内の悲劇を思い起こされる庁舎は「見たくない」。観光客が庁舎をバックにピースサインで写真を撮ることは遺族にとって無神経にみえた。昨年9月、一度は庁舎の取り壊しが決まった。


◆震災の生き証人

 風向きが変わったのは今年8月。遺族の中に保存や取り壊し延期を求める意見もあるとして、十分な議論を求める「取り壊し延期と再考」の陳情と、震災の生き証人として残す「保存」の陳情が相次いだ。

 佐藤町長は取り壊しの再検討を表明した。

 町議会で、「早期取り壊し」の陳情が採択されたものの、本会前日の特別委員会での採択は7-6の僅差だった。佐藤町長は「別の陳情も出されている。もう一度、内部で慎重に検討したい」と結論の先送りを表明した。

 震災から時間が経過し、風化は進む。被災のシンボルを取り壊して町が忘れ去られないか。全国からの支援で復旧・復興しているのに、町だけの論理で取り壊してもいいのか。佐藤町長の悩みは続く。

 3連休の中日となった今月7日、庁舎前広場に県外ナンバーの車がずらりと並んだ。沼津、山形、岩手、宇都宮、習志野…。一様に庁舎を見上げ、合掌する人々の姿があった。

 観光バスから降り立った親子の集団は新潟県上越市から来たダンスサークルの一行。「テレビと生で見るのとでは大違い。土台だけになって…」と、子供たちを引率してきた主婦(52)は涙ぐんだ。

 石川県白山市の主婦(56)は「広島の原爆ドームと同じで残すべきだ。あの惨事を忘れてはいけない」と話した。一方で、横浜市の男性会社員(32)は「遺族のことを思うと取り壊すべきだ。写真で残せばいい」と語った。

 被災地を訪れた人々の意見も分かれている。




 先日の視察の際に初めて伺いました。



 その時も早朝から観光バス数台が止まっていて、大震災での被害の大きさに皆さん驚いていました。



 宮城県内では、南三陸町以外でも同様の問題があります。どれも大変難しい問題ですが、大震災を後世に伝えることは我々の役目ではないかと考えます!


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