ミウラSV/Jの写真を集めてみました。こうして見ると各車ライトやフェンダーの形状等に微妙な違いがあることが分かります。最初の写真のSV/Jは昔自分の部屋にタペストリーというのでしょうか、大きな布製のポスターを壁に飾っていた車だと思います。どこで手に入れたか覚えていませんが、当時はイオタと呼んでました。とても懐かしい。

 

 

はじめに

 史上最高のスポーツカーは何かと聞かれたらランボルギーニ・ミウラを挙げる。その低く構えた流麗なスタイル、それまでの常識を覆すミッドシップエンジンレイアウト、そして何より”睫毛”と称されるエキゾチックなライトデザイン。どこを取っても文句の付け所がなく、性能も当時の市販スポーツカーとして飛び抜けていた。

 ミウラという車は1970年頃に知った。当時の日本は欧州の情報など入り難く、たまたま格好いいプラモデルを組み立てたらそれはランボルギーニ・イオタという名称で、ミウラのレーシングバージョンとされていた。(イオタについては後述する)。実車をじっくりと見たのは2000年頃、当時ポルシェ乗りの仲間たちと休日首都高を走って大黒パーキングで休息を取るのが習慣になっていたが、その大黒パーキングに決まってシルバーのミウラが来ていた。当時はあまり詳しくなかったので詳細は不明だが、多分SVだったのではないかと思う。

 ミウラには幾つかのラインアップがあり、特に謎めいた”J”の存在がミウラの伝説を複雑にしている。ここではミウラという車について簡単に整理したいと思う。

 

TP400 

 1965年のトリノショーでランボルギーニが展示したベアシャシ「TP400」は、まだボディが被さっていないにもかかわらず来場者の目を釘付けにした。鋼板を溶接して構成されたバックボーンフレーム、そのリアミッドには4LのV12 DOHCエンジンが搭載されていた。
 当時はまだミッドシップはレースカーに採用される特殊なレイアウト。大排気量の市販ミッドシップ車はフォードGT40や、そのベースとなったローラ・マーク3くらいしか前例がなく、しかもル・マン24時間レースのホモロゲ用として製作された市販レーシングカーであった。ゆえに量産を前提にした大排気量ミッドシップは「TP400」が世界初と言えるものだったのだ。市販への期待はまさに爆発的に高まったという。

 ミッドシップに搭載された4LのV型12気筒エンジンは、横置き配置を採用したことでプロポーションをコンパクトに保ち、重量配分の改善とホイールベースの短縮を可能とした。エンジン開発のパオロ・スタンツァーニによると、「正直なところ、私たちはミニの先駆的なアイデアに触発された。ただし、ミニでは、ギアボックスはエンジンの下に配置されていて、ミウラには重心が高すぎ、だからそれをエンジンの隣に置いただけである」という。

 

生産型

ミウラP400

 翌1966年、魅力的なボディをまとった新車が発表されると、自動車界に激震が走った。期待に応える形でジュネーブショーに出品された「ミウラ」は、ジャンパオロ・ダラーラとパオロ・スタンツァーニが開発したシャシーに、マルチェロ・ガンディーニが架装した優雅なボディ、リアミッドに横置き搭載された3929ccのV12 DOHCエンジンは、最高出力345bhp、公称172mphの最高速を誇った。欧州の富裕層を中心に、まだプロトタイプであるにも関わらず、会場では100台を超すオーダーがあったという。もっとも、市販までにはさらなる時間を要した。

 思わず息を呑むほどの美しいボディはデザインだけでなく製作も担当するという契約でベルトーネに任された。当時の出版物には「ミウラはジウジアーロの作品である」とする記述がしばしば見られたが、これは流行のボディスタイルが流線型からウェッジシェイプへと移る過渡期であったことと、ベルトーネ・チーフスタイリストの交代が重なったということなどから生まれた誤解であった。

 

 待望の市販モデルが発売されたのは1967年。「P400」と名付けられたランボルギーニ ミウラがついに公道を走り始めた。搭載エンジンは3929ccの60度V12 DOHC。エンジンブロックとトランスミッションケースを一体鋳造したユニークな二階建て構造で、エンジンとトランスミッションを同じオイルで潤滑していた。公称最高速は300km/hである。

 ただし、その操縦性にはまだまだ課題を抱えていたのも事実だ。前後重量配分は42:58で、V12 DOHCを横置きに搭載するミウラは、速度が上がるとフロントがリフトすることでも有名だった。後世レーシングカーの設計・開発で名を馳せるダラーラやカウンタックの開発を手掛けたスタンツァーニをもってしても一筋縄ではいかなかった。
 空力にも問題を抱えており、公称値の300km/hはともかく実際に250km/hの巡航をこなす異次元の性能を発揮したが、前後同サイズのタイヤなどがハンドリングを阻害し、いったんリアがブレイクすると制御不能に陥ると言われた。それゆえ「1台生産するごとに改良されていった」と言われるほど、頻繁な仕様変更を行い、操縦性を始めさまざまな改善が行われた。
 最高出力は350PSで最高速度は290km/h。ボディ外板の厚みが生産途中で0.9mmから1.0mmに変更されているため、車重は前期が980kgで後期は1,040kgとなっている。

 P400は、1967年に約110台(108台もしくは111台とも)が、1969年までに274台が生産された。

 

 ちなみにMiuraの名称はスペインの闘牛牧場「ミウラ」、およびそのオーナーであるドン・アントニオ・ミウラにちなんで命名された。リアの車名バッジも闘牛がモチーフとなっている。PはPosteriore(後ろ)の略でエンジンが後方に位置していることから、400は排気量4L(3,929cc)の意味である。

 

 当時のカタログがこれである。

 

 

 

ミウラP400S

 1969年には、パワーアップバージョンの「P400S」も登場。車名に加えられたSはスピント=チューニングを表し、エンジン燃焼室の形状変更による圧縮比アップ、インテークマニフォールドの径拡大などにより370psまでパワーアップしている。また顧客であった富裕層の嗜好に合わせ、パワーウインドーを標準装備したほかエアコンの装着も可能になった。オーバーヘッドコンソールの採用もP400Sからである。外観はほとんど変わらず、ウインドシールドのモールのリムがブラックアウトからクロームに変更された。フロントエンドに関しても、特徴的なヘッドライトの“睫毛”はそのままだ。製造数は338台で、ミウラの中では最も多い。

 

sogano “ハーレーハレハレ” marikoさんのYoutube

 

 

ミウラP400SV

 量産バージョンの中で最も開発が進み、最も速い最終形が、1971年に登場したSV(スーペル・ヴェローチェ)だ。新しいウェバー製キャブレターとカムタイミングによって、最高出力は385bhpに向上。リアのトレッドが広がり、タイヤサイズも前215/70VR15・後225/60VR15と前後異サイズとなり、操縦性は大幅に改善された。リアサスペンションはそれまでの反転Aアーム+トレーリングリンクから、コンベンショナルなA型ロワーアームに変更され、リアカウルはフェンダー部に膨らみを持たせ上部のエッジを立たせた形状でワイド化され、いっそう力強いスタンスになった。一方で、あの象徴的なヘッドライト周りのグリルの睫毛は消え、ブラックに塗り分けられた。その下のフロントグリルも横長の楕円状だったものが上部中央が前方下部に張り出し、Sより口元をややすぼめた印象となっている。あわせてフロントウインカーも変更され、リアコンビネーションランプは縦3分割の新デザインとなった。生産後期には、潤滑系の問題を修正するため、ギアボックスのオイルサンプが分離され、冷間時のギアが入りにくいという悪癖も解消された。SVをたった150台製造したところで、ミウラの生産は1973年に幕を閉じた。

 オプションでLSDが用意されたが、実際に装備されている個体は少ない。

 

 

カーショップ吉田屋さんのYoutube

 

生産型ミウラ : 諸元
1966 ランボルギーニ ミウラ P400
■全長×全幅×全高:4360×1760×1055mmm ■車両重量:980kg ■エンジン形式:60度 V型12気筒DOHC ■排気量:3929cc ■最高出力:350ps/7000rpm ■最大トルク:37.6kg-m/5100rpm ■トランスミッション :5MT ■最高速度:293km/h ■当時の新車価格:-円

1970 ランボルギーニ ミウラ P400S
■全長×全幅×全高:4390×1780×1100mmm ■車両重量:1180kg ■エンジン形式:60度 V型12気筒DOHC ■排気量:3929cc ■最高出力:370ps/7700rpm ■最大トルク:39.5kg-m/5500rpm ■トランスミッション :5MT ■最高速度:280km/h ■当時の新車価格:1200万円

1972 ランボルギーニ ミウラ P400SV
■全長×全幅×全高:4390×1780×1100mmm ■車両重量:1305kg ■エンジン形式:60度 V型12気筒DOHC ■排気量:3929cc ■最高出力:385ps/7850rpm ■最大トルク:40.7kg-m/5750rpm ■トランスミッション :5MT ■最高速度:285km/h ■当時の新車価格:-円
 


カスタムモデル

 

ロードスター(Zn75)

 ベルトーネではミウラP400(車体番号#3498)をベースにオープンカー化したショーカーを制作し、1968年のブリュッセル・モーターショーにミウラロードスターとして出品した。オープンカーとして300km/hに対応するため車高はミウラよりさらに30mm下げられ、ウインドシールドの角度も変更されていた。エンジンカバーとして設けられていたルーバーは撤去され、エンジン部もオープンになっている。剛性を補うためにロールバーが設けられ、サイドメンバーも強化されている。ルーフに装備されていたスイッチ類はコンソールに移され、リアコンビネーションランプも変更された。ボディカラーはライトブルーのメタリックであった。

 ショー終了後、ミウラロードスターはアメリカの非営利団体であるILZROに買い取られた。ILZROは産業界における鉛および亜鉛利用のための研究開発を行う機関で、アメリカ国内、さらには世界中の自動車関連企業に対して広くアピールするための「ドリームカー」を制作することを企図していた。このプロジェクトは執行役員副社長のシュレード・ラドケが取り仕切っており、フォードの上級スタイリストデザイナーであるジョン・フォスターにコンサルティングを依頼していた。当初、当時斬新なスタイルとして話題となっていたフォード・マスタングも提案されたが、スタイル変更についてフォード側が認めず、ILZROとビッグスリーとの関係も考慮した結果、フォスターは1968年初頭にミウラを使うことを提案した。ベルトーネはこの提案を大歓迎したが、ランボルギーニ側の責任者であるスタンツァーニはランボルギーニ車としてモディファイすることを許可せず、当時制作中だったミウラロードスターが使われることになった。

 ILZROに買い取られたミウラロードスターは、ベルトーネと協力してコンバージョンが行われた。パーツの大半はILZROの推奨する亜鉛合金製やクローム製に置き換えられ、展伸加工された亜鉛合金製のバンパー、ドア、ラジエーター、ステアリング・ホイール、シフトレバープレート、押出形成の亜鉛合金グリル、亜鉛コーティングされたホイールおよびマフラー、鍛造加工のシフトノブなど、合計で50か所以上が変更された。このモデルは1969年5月に亜鉛の原子番号にちなんでZn75として発表され、ボディカラーは金属の輝きを生かすため、パールメタリック調のダークグリーンに変更された。世界各地のモーターショーでの展示のほか、世界各国の自動車関連企業へも貸し出された

 ショーカーとしての役割を終えた後はオークションにかけられ、生みの親であるラドケ自身が落札。1980年に一度全面リフレッシュされ、1981年2月にはボストン交通博物館に寄贈された。同館でのレストアを経て再度オークションにかけられ、3度目のオークションでイギリスのアルコール飲料メーカーであるポートマングループの手に渡るが、この時はランボルギーニ・ミュージアムを設立するためと発表されていた。その後Zn75の仕様のままで、1990年から少なくとも1996年までは日本国内のヒストリックカー専門店にあった。

 最終的にはオリジナルの状態にレストアされ、2009年に『Octane』誌の表紙を飾った。

 
”J"(イオタ)
 イオタは、ランボルギーニのテストドライバーだったボブ・ウォーレスが1969年11月にレーシングカー構想の実験車として提案したもので、このオリジナル「J」は当時ファクトリーが製造した最も過激なバージョンである。ボディワークはアルミニウムに変更し、キャビンは装備をはぎ取り、空力面にも手を加え、V12は大幅に改良して440bhpに引き上げた。FIAが定める競技規則の付則J項に合致するよう設計されたが、レース出場禁止が当時のランボルギーニにおける社是であったことから、レースへの出走にゴーサインが出ることはなかった。製造は1台のみで、残念ながら、売却後すぐに公道での事故で大破してしまった。現在は忠実なレプリカがいくつか存在。SVRもJの影響が色濃い。

 シャシーはリアセクションの一部を除いて新規に設計されたもので、サスペンション形式やジオメトリ、ステアリングラックのマウント位置も異なっていた。フレームは鋼鉄を主な材質とし、部分的に軽合金も使用して軽量化が図られ、板金とパイプで作られた。トレッド幅は広げられ、コニ製レーシングサスペンションとベンチレーテッドディスクブレーキを備え、ホイールはウォレスが試作したウラッコラリーと同タイプのフロント9インチ幅、リア12インチ幅の軽量マグネシウム合金カンパニョーロ製センターロックタイプで、ミウラのクラシカルなスピナー仕様ではなくレース現場に対応できる六角ナット式である。

 シャシーとボディーパネルはブラインドリベットで接合されている。パネル表面の多数のリベットが薄いアルミのエッジからの破断防止のために打たれ、このリベットがミウラとの外観上の差異のひとつとなっている。ボディーについて、ルーフはミウラの鋼鉄製のものを流用したが、前後のカウルはアルミニウム合金製でヒンジ開閉ではなく取り外し式である。リアカウルは12インチ幅のホイールにあわせて幅が広げられている。ドアシル側面のダクトはなく、ラジエーターベントのグリルも取り外された。サイドガラスはアクリル樹脂製に置き換えられ、はめ殺しを経て一部スライド開閉付きに改められた。ヘッドライトはミウラのポップアップ式からアクリルのパースペックスキャップで覆われた埋め込み式に変更されている。フロントホイールハウス後ろにはエアアウトレットが備わり、フロントのグリル面積は拡大され、グリルの両端にはダウンフォースを増加させる2つの大きなフロントウィスカーが追加され、給油口も左右フロントフェンダー上面に露出する形で作製された。燃料タンクは両サイドドアシルの下側に1つずつ、合計2つ取りつけられている。

 スペアタイヤはエンジンの後方に移され、小さいトランクも装備されたが、これらは競技車両規定を満たすためであり、内装もミウラとは全く異なる質素でレーシーな作りである。その他消火器やキルスイッチを装備する等、厳密にJ項に沿っている。

 パワートレインはミウラの流用で排気量も不変であるが、圧縮比は10.4:1から11.5:1に高められ、カムの変更、電子点火、ドライサンプ潤滑、ストレート構造のエキゾーストシステムを採用し、4基のウェーバー46IDLキャブレターによって公称最高出力440 ps/8,500 rpm(ボブの実測値では402 ps)を発生する。

 

 オリジナルJはウォレスのチームによって3万キロほどの走行実験を行った後、ジャリーノ・ジュリーニという人物に売却された。それからヴァルテル・ロンキという人物を経て、レーシング・チーム「スクーデリア・ブレシア・コルサ」 のオーナーでカーコレクターであるアルフレッド・ベルポナーが購入した。1971年4月28日、ベルポナーの取引を担当したディーラー「インテルアウト」の経営者であるエンリコ・パゾリーニが、助手席に同ディーラーのジョパンニ・ペデリネリを乗せて納車前のテスト走行を行っていた。しかし、ミラノ東部の開通前のブレア高速道路を走行中、230 km/hで5速にシフトアップした際にノーズが浮き上がり横転して出火。パゾリーニとペデリネリに命の別状はなかったが、オリジナルJは修復不能なダメージを負い廃車となった。

 イオタの名はJレギュレーションの”J”が近代西洋諸言語、イタリア語では「J」の文字が無く発音できないため、スペイン語読みにしたJOTA(ホタ)、イオタと発音する事に由来する。イタリア語で正式には「Iota」であるが造語として「Jota」と表記された。ランボルギーニ社の見解で、イオタと呼ばれて作製された車体は1台も無く、後に周囲から俗称でイオタと呼ばれるようになり、世間で広まり、オリジナルJ以外は「イオタ・レプリカ」とも呼称される。

 

ミウラSV/J

 ランボルギーニはJへのオマージュとして、特別な顧客のために6台(一般的には4台)のSVをSV/J仕様にコンバートした。改良サスペンションや出力の向上、Jの特徴を備えるボディワークなどは共通するが、細部は様々に異なる。ランボルギーニは1980年代にSV/Jをもう1台、ゼロから造り上げた。また、非公式のリクリエーション版が数台存在し、スイスのランボルギーニ輸入代理店のために造られたワンオフのタルガトップ・バージョンもある。

  ミウラSV/Jは工場公式架装としてミウラ史上最も希少かつ最強の派生モデルである。写真のSV/Jは、シャシーナンバー4860のオリジナルSV/J。

 ミウラSV/Jは、固定式ヘッドライトやフロントスポイラー、専用のオーバーフェンダーやエアアウトレットなど、スパルタンな意匠が特徴である。SV/Jは新車で販売された記録はなく、あくまでもSVのチューニングカーで正式なスペックもない。しかしエンジン出力は「J」と同じく400馬力を超えるだろうとされている。

 

こちらはオリジナルではなく日本で作られたSVJ。

 

 

ミウラSVR

 クルマ好きの日本人なら、イオタと言われれば、ほとんどの人がこのクルマを思い浮かべるだろう。通称SVRと呼ばれる1台のみのこの個体は、1968年製のミウラP400をベースとしたJレプリカだ。その唯一無二のスタイリングや、あまりにも特別な存在でミステリアスであることから、現在に至るも絶大な人気を誇っている。
 このSVRという呼称は最初から名付けられていたわけではなく、後から付けられたものだ。たった1台しか存在しないクルマに対して名前が後から生まれ、共通認識として持てている状態であることは類まれな事象であり、伝説とも呼べる存在だからこそ起こりうることなのだろう。

 ドイツ人のハインツ・シュターバーは、自身のミウラSをクラッシュさせてしまい、このSVRを造り上げることにした。イオタをインスピレーションとしつつ、さらに改造を推し進めた。当初はファクトリーの支援が得られなかったため、シュターバーは独自にパーツを調達(その中にはポルシェ917のブレーキもあった)。ドイツのディーラー、ヘルベルト・ハーネの助力によってランボルギーニに組み立てを実施した。こうして生まれたワンオフは、レース志向のスペシャルとなった。アグレッシブなスタイリングに、カスタムメイドのサスペンションを擁し、性能も大幅にアップグレード。1975年に完成し、のちに日本に売却されて、カルト的存在になった。2018年にランボルギーニによってレストアされている。
 他のJレプリカとは異なる部分が多く、当時最新のタイヤであるピレリP7や、BBS製のホイール、通常より太いタイヤを収めるために広げられたリアフェンダー、ルーフにはスポイラーが装着されている。

 

終わりに

 ミウラという名称は、ミウラ生誕40周年にあたった2006年のレトロフィットコンセプトにも与えられたが、アウディグループのヴァルター・デ・シルバがデザインを手がけたこの車は、縦置き 6,498cc LP640 V型12気筒の四輪駆動で、ボディサイズも大柄でコンパクトなミウラとは異質なものであるため、ここでは省略する。

 久しぶりの投稿になりました。カプチーノは寒い時期なので、時折近所を軽く走らせる程度。すっかり絆が強まった感じです。

 

 絆と言う話題では、新しい家族が出来ました。その紹介をちょっとしますね。

 私は子供の頃から無性に鳥のハヤブサが好きで、飼いたくてたまらなかったのですが、それは叶わず。

 好きな理由をあえて上げれば速いからでしょうかね。降下速度は時速380km以上で、地球上の生物最速ですからね。でもそれだけではなくて、とにかく胸が高鳴るのですよ。

 ハヤブサは皆さん多分鷹の一種と思っているのでは?私もそうでしたから。ところが実は違うらしいのです。近年のDNA解析でインコに近いことが判明しました。それを知ったのは昨年くらいでしたかね。

 

 一昨日パートナーのマドと買い物に出て、たまたま時間調整でペットショップでも覗いてみようとなりまして、大好きな鳥のコーナーへ行ったらシロハラインコに出会いました。その表情や口ばし、特に足が猛禽類のようで、私はハヤブサを思い出したのです。その時はそのまま去りましたが、家に帰ってから気になってきまして、ハヤブサは飼えないけどあのインコなら飼えるよなと関心と言うか直感が来たのです。マドは最初全く乗り気じゃなかったのですが、私のイミナアート

 

 

 ところが何をどう勘違いしたのか、私はシロハラインコの値段を一桁間違えてまして、こりゃ高くて無理だとなりました。そうしたらマドが隣の真っ白なオカメインコを気に入って、私もいいねと賛同しまして、価格も想定内だったので店員さんと話を進めました。そうしたら店員さんに、オカメインコは鳴き声が半端なくうるさいですよと説明されて、マドはそれは耐えられないとあきらめました。

 

 縁がなかったのかなと家に戻ったら、今度はマドが熱心にインコについて調べてくれて、私とマドに最適なのはウロコインコのようだとなりました。ところがネット情報ではウロコインコは人気が高く、手頃な個体は近隣では販売されていないようでした。私が、まあ頑張って日を改めて少し遠方に足を延ばしてみようかと思っていたら、マドがカプチーノのドライブがてらに近くの別の姉妹店舗のペットショップに行ってみようよと提案してきたのです。こういう時のマドの直感は凄いものがあるので、駄目もとで行ってみることにしました。そうしたら…

 

 なんと居たのですよ、まさにイメージ通りの運命的なウロコインコちゃんが!マドも私もその場で決めようとなりましたが、鳥かごも何もないので必要なもの一式、店員さんのアドバイスで同時に購入する事にして、カプチーノでは載らなくなりました。

 それで一旦戻ってキャロルで出直し、無事にウロコインコちゃんが新しい家族となりました。

 これが見た目が小さなハヤブサなので、ファルコと名付けまして、さらに生まれて2ヵ月くらいなのですが、もう手乗りに育てられていたのです。そしてとても利口でおとなしい。わぉ!最高。可愛いです♪

変わらぬ日常が続いている錯覚。

もう変わっていることに気付けばいいのに。


「そろそろ来れば?」

「はい」


それでまさこはやって来た。

40年間出られなかった「家」という牢獄はすでに幻想。

姑の鎖は消え、牢名主に見えたご主人は気持ち良く送り出す。


宇宙は最高のシンクロニシティで祝福の出迎え。

光のシャワー

黄色い絨毯

池ではペリカンとカワセミが喜びのコラボレーション


言葉は要らない


ただ自分が 新世界にいることを味わうのだよ

 こんにちは。マトです。

 

 今朝は未明から動悸が速くなり、貧血気味でクラクラして動けずにいました。エネルギーの高まりによるアセンション症状というもので、10年ほど前から時折現れます。こうなると半日から一日、治まるまでヒーリング石を胸に乗せて寝ているのですが、今朝は妻のまどが、ヒーリングしてみる?と言ってきました。

 今までエネルギーの高まりにヒーリングというエネルギーを加算するのは逆効果だろうと断っていましたが、今朝はやってもらおうと思いました。

 まどは通常のヒーリングも出来ますが、軽くマッサージしていく「ヒーリングタッチ」を売りにしていて、本来は女性限定ですがそこは夫婦の特権で、毎夕やってもらってます。それで今朝もヒーリングタッチを所望しまいました。

 普段はエネルギーを味わう感じですが、不調の時のヒーリングは格別です。温かさと安らぎが全身に広がって、気が付くと熟睡してました。そして、動悸は治まり完全復調です。う~ん、凄いなぁ。

 

 まあ元々は私がホワイトブラザーフッドから受け取ったものですが、いまやまどが第一人者。

 あまり大きな声では言えないのですが、とにかく奇跡も起こします。

 最初の頃はいわゆる伝授が出来ずに何人かの人たちに残念がられましたが、その後、波動領域をやや下げることで伝授も可能となりました。

 興味持たれた方は、かはなまでお問い合わせくださいね。

 

 

ちらりと写る まど