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小嶋秋彦
「歴史学講座『創世』」
補筆
金原政敏
<ローマ〔4世紀〕の地誌家
プリニウスのいう「セレス」>
「セリアの島」とは「九州島」
日本創世記第6章で(6)琉球あるいは沖縄 https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-04-18-3
https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-04-1
「琉球」名の由来説明のため
ギリシャのパウサニアスの
『ギリシャ案内記』の一部を紹介した。
『ギリシャ案内記』は
紀元160年に世に出されたというので、
記録されている情報は
2世紀初めから中期のものである。
ほとんどの内容は
地中海域の
ギリシャ本土周辺に関係しているが、
第6章26節6~9に極めて興味ある
記述がある。
そこには「絹」の産地の情報があり、
「エリュトラー海の最奥に
セリアの島がある」
またその近くに
Abasa 及び Saxaia の
二つの島があるといっている。
後者の両島は記述のとおり説明済みである。
ここでは「セリアの島」を解釈する。
同用語はギリシャ語で
Seria〔Shria〕 とある。
「エリュトラー海」は紀元1世紀に
エジプトの貿易商人が記録した
『エリュトラー海案内記』の影響か、
本来は「紅海」名であるが、
アラビア海からインド洋さらに
太平洋の極東方面を含めた総称として
当時の関係者に認識されていたらしく、
「エリュトラー海の最奥」とは
極東太平洋の北部と解釈される。
同語が記される前段「6~8」で
seres〔shres〕 という
「衣服作る糸」の産地を述べているので、
「セリア」はその「虫」に係わるものと
理解できる。
パウサニアスも『ギリシャ案内記』の
日本語への翻訳本は二つある。
岩波文庫本には残念ながら
当該部分は訳対象からはずされている。
もう一つの龍渓書舎版は
当該部分は翻訳されているものの
「セリア」名を「セレス」としている。
『エリュトラー海案内記』の翻訳者
村井堅太郎氏がその解説部分で
パウサニアスの「セリアの島」を取り上げ、
その前段〔6-8〕を翻訳している。
〔9〕の当該部の翻訳はない。
M.H.Rocha-Pereira,Pausaniae
Graeiae Descriptio,
Bibbiotheca Teubneriana
〔ギリシャ語版〕に依ると
その用語は Seria〔Σηρια〕となっている
その seria の語義であるが、
上記したように「虫」との呼称で
seres があるので
同語の変形語と
解釈しやすいがそうではない。
同語のギリシャ語表記は
〔Σηρια〕となっている
わずかながら発音に違いがある。
そこで参考にすべきは「セリカ」名である。
本書第5章の(5)セレスで
すでにその名称由来と語源は説明してある。
「セリカ」の語源はサンスクリット語の
sailika〔石〕と紹介した。
「セリア」もその同類語の
sailā〔石よりなる、石の多、岩岡〕に依ると
解釈する。
それらはまた「繭」のことである。
つまり「セリアの島」においても
養蚕が行われていたとの説明になる。
前項「(1)白木神社」で説いたように、
養蚕が行われていた
「九州」がその「島」である。
セリアは〔九〕でいうとおり
アサバとサカイアがその近くにある島である。
「エリュトラー海の最奥」との
地理説明にも合致する。
〔九〕にはまた「セル」と呼ぶ川があって、
その川がセリアを島にしていて、
エジプトのナイル川が
デルタ地帯をなしているのと
同じだといっている。
その説明は教義の発想で
「邪馬台国」を想定させる。
セリアは「繭」から離れた
「岩岡」としてみれば明白で、
大牟田市八本町の「岩倉」名に通じる。
Sailā には〔岩岡〕の概念もあった。
同地は大牟田川と堂面川に挟まれた所で、
古代においては
今より幅の広い野放図な流れで
あったはずでデルタ地といってもよい。
「セル」川も堂面川沿いに
「白川」との地称がある。
「シラ:白」は
熊本県の
阿蘇山の南麓「白水村」を水源とし、
熊本市へ下り有明海に入る
「白川」名と同義で
サンスクリット語の
jala〔泉、井〕を祖語とするのと
同じである。
堂面川の上流にも「高泉」との地称があり、
事情が同じと理解される。
「セリアの島」とは「九州島」
をいったものと解釈され、
紀元2世紀に
日本列島の情報が西方ギリシャまで
伝えられていた証拠である。
※出典:繁栄と野望のシルクロード
ローマ皇帝の使者中国に至る
ジャン・ノエル・ロベール著
伊藤晃・森永公子共訳
「エルドラルドを求めて」
(略)
セリカの南のインドのあたりに、
二つの新しい島があるとも書いている。
クリゼ島とアルジレ島の名の示す意味は
「名前が事実からきているのか、
いい伝えが名前からきているのか、
いずれにしても、
その土地が一方は金ででき、
他方は銀でできている」ということである。
西暦77年には博物学者ので科学者の
大プリニウスが
これらの島について語っているが、
クリゼ島はセレス人の国の岬だとしている。
『エリュトゥラー海案内記』を
書いた船乗りは、
オリエント地域の海の沿岸を
探検した人物だが、
同じ時代にこの島をおおっていた
神秘のヴェールをいくらかもちあげることが
できたのである。
プリニウスは実は、
古代ローマ時代の著述家としてある程度
正確な内容を与え、
驚くべき新事実を明らかにした、
初めての人である。
初めは先人たちの説を繰り返し、
セレス人は長生き(150歳まで生きる)で、
文明化しているが、かなりの人嫌いである。
「彼らは他の人々との交流を避けて、
取引が向こうからやってくるのを
待っている」
のだから、と書いている。
彼もメラのように
セレス人はオリエントの大洋のほとり、
北のスキタイと、
その先にインド人の住む
現在のヒマラヤ山脈
との間にいるものとしている。
ウェルギリス以来の著述家の例にもれず、
絹はある種の木の葉に生える
「白いふわふわした毛」で、
木に水やりをする必要があると信じていた。
しかしさらに
彼はセリカを流れる
三本の主要な河を挙げている。
プシタラスとカンバリ、
そしてラノスである。
特筆すべきは彼が初めて
謎めいたオリエント一帯のことを
記したという点である。
それは明らかに個人的な証言ではなくて、
タプロバネ島つまりセイロン島
(=現在のスリランカ)からローマへ
やって来た使者の語った話なのである。
セイロン人はセレス人と取引があったので、
彼らのことを知っていた。
※出典:プリニウスの博物誌:雄山閣
中野定雄 中野里美 中野美代訳
〇セイロンからの使者からの報告
(略)
そして太陽が観察者の左側から出て、
反対でなく右の方に没することであった。
また彼らの島のインドに面した側面は
長さ1,250マイルで、
島はインドの南島に位しているということ、
そしてヘモドスを越えて
シナ人の国にも相対していること、
このシナ人は交易によっても知られており、
ラキアスの父親が
そこへ旅行したことがあったが、
そこへ到着するやいつもシナ人が急いで
浜へ下って来て彼らを迎えると語った。
彼らの話では、
シナ人は普通よりも背が高く、
亜麻色の毛髪と青い眼をしており、
荒々しい口調で物を言い、
旅行者と取引をする際は言語を用いない。
(?彝族か)
略
以下の情報は
わが国の商人のものと一致していた。
「川の対岸のセレス人の売りたい商品の
置かれている傍らに、
セイロン人が持って来た商品を置き、
取引が妥当なものだと考えると、
セレス人は商品を持って
立ち去るのであった」。
驚くような証言で、すぐに反論したくなる。
というのもセレス人の国が
セイロンに面しているとは
考えにくいからである。
すぐに頭に浮かぶのは、
二つの民族の混同である。
しかしながら他の地理学者の話に比べれば、
この証言の全てが
間違いというわけではない。
なんといってもローマ人には、
こうした話を疑おうにも
方法がなかったのである。
これはまさに絹を産出する人々に対して
ローマ人が抱いた強烈な
イメージの一つなのである。
※出典:エリュトゥラー海案内記
PERIPLUS MARIS ERYTHRAEI
村川堅太郎〔訳注〕中公文庫
紀元1世紀なかば、
エジプト生まれの
無名の無名の商人が誌した
ギリシア語の文献、
「エリュトゥラー海案内記」は、
古代南海貿易の実態を生き生きと伝える
貴重な史料である。
季節風に帆をあげ、
みずから紅海、インド洋に
乗り出した体験にもとづく記事は
詳細にわたり、きわめて精彩に富む。
ヨーロッパ古代史の碩学が、
六十六節からなる小冊子を
平明達意の日本語に訳出し、
周到厳密な解説と訳注を付す。
「地図」古代東西交通路(Warmington による)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Silkroutes.jpg
第39節 「バルバリコン港の輸出入品」
さて船はバルバリコンに停泊するが、
船荷は全部河を通じて首都へ向け
王のもとに運びこまれる。
この商業地に輸入されるのは
混ぜ物ない衣服多量と不純のが少量、
ポリュミタとクリュソリントンと珊瑚と
ステュラックスと乳香とガラス器と銀器と貨幣、
それから少量の葡萄酒である。
これと入れかわりに船に積み込まれるものは
コストス、ブデルラ、リュキオン、ナルドスと
カルレアノス石とサッペイロスと
セーレスの毛皮と綿布と生糸と
黒色インディゴである。
航海者はインドの(季節風)に乗って
ユーリオスの月、即ちエピ-ピの頃に出航する。
この風によって航海は危険であるが船足が速く
かつ短くてすむからである。
「リュキオン」
この名前は小アジアの
Lycia の産を想わせる。
Plinius N.H.XXIV 77 § 125 には
一種の潅木で
その枝や根から煎じた液汁は薬品として
広く用いられ、
インド産のものは
リュキアのよりも
上等であると誌されており、
XXV 30 § 67 ではリュキア産のが
Centaurium という
植物から出来る旨を述べている。
Watt p. 130 によるとインド産のは
ヒマラヤ山の六千~一万フィートの
高処などに自生する Berberis Linn.
という植物で現在でも
根や幹から黄色染料や、
特に眼病の薬がとられる。
「ナルドス」
英名 nard. 西パンシァブ、シンド、
ベルチスタン、ペルシアに産する
Cymbopogon Schoenanthus の
主として根から採った香料。
Plinius N.H.XXII 26 § 42 sq.
に香油中に主要な位置を占め、
その穂は一ポンド百デーナーリウス、
薬は四十~七十五デーナーリウスで、
インドのほかシリア、ガルリア、クレータ島
にも産したと伝えている。
ペルシアの方面のものについては
アルリアーヌスの
アレクサンドゥロス遠征史(VI 22. 5)に
大王の西帰の途上ゲドゥロシアーの荒野に
これが多く自生し、
従軍せるフェニキア商人が
その根を採集したこと、
また軍隊により踏みつけられた木は
四辺に芳香を放った旨が誌されている。
なお Nardos とも呼ばれる香料は
Cymbopogon jwarrancusa という
前者より南方に生ずる草からも採れたし、
Spikenard という草からも採られた。
それで本節の他
(四八)、(五六)、(六三)に
インドの諸港から色々の名のついた
ナルドスが輸出されると見えている。
(四八)の註(4)及び
Watt p. 461-462 を看よ。
「カルレアノス石」
Skr. Kalyana
「祝福された」の音訳 (Bloch)。
Plinius N.H. XXXVII 33 § 110
以下の Callaina(一本Callais)
に同じ。
これは同書によると薄緑色で
中央アジアに産し、
優良品はカルマニアから出た。
Lassen IIIS. 14 は
これをバクトゥリア方面から
インドに来たトルコ玉とみており、
Schoff も Turquoise と訳している。
氏によれば
これの産地は Khorassan 地方で、
此処からカブールの谷を通って
インダス河口に至り
輸出されたのは自然である。
「サッペイロス」
これは
今日インドに産するサファイアではない。
Plinius N.H. XXXVII 39 § 120 に見える
Sapphiri もやはり
「空色で最良のものは
メディア産であるが
いずれも透明ではなく、
また結晶の部分を含んで
彫刻には役立たぬ」
とあり、サファイアではない。
今日のサファイアは
南インドとセイロン島(スリランカ)の産で
態々(わざわざ)北インドのバルバリコンから
輸出されるのは不自然であり、
本書のもプリーニウスのもともに装飾材として
また青色塗料として古くから用いられた
Lapis Lazuli と考えられる。
その産地は中央アジアの Bokhara 地方で、
カルレアノス石と同じ経路でバルバリコンから
輸出されたわけである。
「セーレスの毛皮]
古代に於ける東西貿易の東端の国として、
また絹の生産者として地中海方面に朧げながら
広く知られていた
Seres の名は本書では此処ではじめて出た。
Setarabo XV c.702 に理想国風に誌されて以来
Ptolem. VI 16 のやや詳細な記述に至るまで
Seres の名は他の古典にもしばしば
その名が見えるが(註(10:生糸)参照)、
それがどの地方の住民であり、
silk, soie,Seide の語の語源をなす
Seres の名が何を写したかについては
山下寅次氏が史学雑誌十七編
四、五、六、八、十、十一号、
十八編一、三、四号で
「セレス、セリカに就きての考」の題の下に
極めて詳細な研究を発表し、
欧人の見解を批判しておられる。
氏によれば「セレスの地方」たる
Serica について最も詳細に誌している
プトレマイオスに於いて、
その指すところは大体葱嶺(パミール)より東、
シナ西北部に及び
北は天山蒙古地方からシナ、
トルキスタン、チベットを含み
ヒマラヤ山脈に及んだ
(十七編四六四頁、同巻十号附図参照)
Seres,Serica の名が
シナの西辺で絹の売買を仲介せる
アルタイ語族の人々の絹を呼んだ語に
由来することは今日定説である。
絹は蒙古語で Sirge と呼ばれる。
此処に見える「セーレスの毛皮」については
Plinius N.H.XXXIV 41 § 145 で
「あらゆる種類の鉄の中セーレスの
それが最も優秀であり、
彼らはこれをその衣服に
(絹布)と毛皮とともに送る」と延べ、
またPlinius N.H.XXXVII 78 § 204 では
「あらゆる皮のうち最も高価なのは
セーレスの染めたものである」と
記していることを想い合わすべく、
Vincent や Muller のように
本書の記事を疑うべきではなかろう。
中央アジア方面の毛皮が
カブールを経て齎されたものらしい
(cf.Warmington p.157-158)。
但しプリーニウスに於ける
「セーレスの鉄」は
Schoff p.209 により
実は南インドの Chera 国の
鉄の意味ではないかとの
疑いが提出されている。
蓋し ch の音と s の音が
Ceylon の言葉では
入れ替わっている場合があり、
本書(六)にも
インドの鉄のことが見えるからである。
「生糸」
ローマ帝政期を通じて
ローマ人に甚だ珍重せられ、
時には同じ重みの金と値を
均しゅうすると言われた
(Script Hist. Aug. Aurelianus 45)
シナの絹が古代東西貿易の
最重要商品だったことは言うまでもない。
このことは序説四四頁に引いた
後漢書の記事でも明らかである。
絹は絹布の他にも生糸の形で送られたが、
真綿の形でも送られたことは
(六四)の記事が
示している。
ところで山繭(天蚕)から
絹布を織ることは
地中海方面でも行われていたが
(Plinius N.H.XI 25 § 75 sq.)、
シナの養蚕業のことは
古代の地中海方面には
殆ど知られていなかったらしい。
Stabo.XV.c.694 所引
Nearchos によると
絹は亜麻の表皮を梳って出来ると
考えたらしい。
Vergilius Ceorg. II 121 には
「Seres が繊細な羊皮を樹の葉から梳る」
旨誌されており、
綿のように生糸も直接に樹から採られ
植物性の繊維であるとの
考えが支配的だったようである。
Plinius N.H.VI 20 § 54 も Seres を
「森の羊毛で有名な」と形容しており
(cf.XII 21 § 38)、
四世紀の
Ammianus Marcellinus XXXIII 6 § 67 sq.
に於いても
Seres の国土が理想国風に描かれ、
その輝かしい森林から
羊毛のごときものを産し、
それを梳って絹織物が出来る旨伝えている。
ただ二世紀のパウサニアースは
Seres の土地には関しては
「エリュトゥラー海の最奥部に横たわる
Serica の島」
程度のことしか知らなかったが、
絹については俗説を訂正して
次のように記している(VI 26 § 7-9)
「セーレスが衣を造る糸は
樹皮から出来るのではなく
次のような別の方法で造られる。
彼らの土地にはヘルレーネスが
ser と呼ぶ虫があり、
セーレス自身はこれを ser と呼ばず
別の名で呼んでいる。
その大きさは
甲虫の最も大きなものの二倍で、
その他の点では
樹下に巣を織りなす蜘蛛に似ており、
実際足の数も蜘蛛と同様に八つである。
セーレスは寒暑の気候に適した家を造って
この動物を養う。
この動物の造るものは繊細な糸で、
その足に巻きついている。
彼らはこの虫に稯を食わせて
四年に亘り飼育し、
五年目になると
最早その生存出来ぬのを知っているので
緑色の蘆を与える。
これはこの虫の最も好む食物なので
蘆に満腹して虫は破裂し、
死んだ虫の体内に沢山の糸が
見出されるのである」と。
養蚕業に関する正確な知識が
地中海方面に伝わらなかったのは
絹貿易路の仲介商人が己の利益のために
殊更にこれを秘密にしたことが
与っているであろう。
六世紀に至り
東ローマのユスティニアーヌス帝の時、
遂に蚕卵が
コンスタンティノーブルに齎されて
養蚕業の起こったことは
普く人の知るところである。
「黒色インディゴ」
熱帯、亜熱帯地方に産する
Leguminosae 風の Indigofera
から出来た染料。
その植物は三百種を含み、
インドのみでも四十種を産する。
Plinius N.H.XXXV 25 § 43 以下に詳しい。
「インドの産で外見は黒色であるが
水に溶くと
紫色と青色の不思議な混合色を呈する……
その値は一ポンドに十デーナーリウス。
薬用として瘧(おこり)と発作を鎮め、
潰瘍を乾かす」と見える。
今日の生産については
Watt p. 660 以下に
極めて詳細な説明がある。
「インドの季節風」
(五七)
詳し。
M.K記(責)
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