『ひねもす至福の時』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049175.html

『My ブログ』 http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049213.html

『生涯学習(History)』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049218.html

『歴史再生:目次』

https://ameblo.jp/matmkanehara/entry-12476266116.html

「神聖の系譜」出版協賛のお願い

https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4

 

サッカー☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪サッカー

 

小嶋秋彦

「歴史学講座『創世』」

補筆

金原政敏

<ローマ〔4世紀〕の地誌家
プリニウスのいう「セレス」>

 

 

 「セリアの島」とは「九州島」

 日本創世記第6章で(6)琉球あるいは沖縄  https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-04-18-3

https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-05-04-1

 「琉球」名の由来説明のため
 ギリシャのパウサニアスの
 『ギリシャ案内記』の一部を紹介した。

 

 『ギリシャ案内記』は
 紀元160年に世に出されたというので、

 記録されている情報は
 2世紀初めから中期のものである。

 ほとんどの内容は
 地中海域の

 ギリシャ本土周辺に関係しているが、
 第6章26節6~9に極めて興味ある

 記述がある。

 そこには「絹」の産地の情報があり、
 「エリュトラー海の最奥に

  セリアの島がある」
 またその近くに 
 Abasa 及び Saxaia の
 二つの島があるといっている。

 後者の両島は記述のとおり説明済みである。

 ここでは「セリアの島」を解釈する。
 同用語はギリシャ語で 
 Seria〔Shria〕 とある。

 「エリュトラー海」は紀元1世紀に
 エジプトの貿易商人が記録した
 『エリュトラー海案内記』の影響か、
 本来は「紅海」名であるが、
 アラビア海からインド洋さらに
 太平洋の極東方面を含めた総称として
 当時の関係者に認識されていたらしく、

 「エリュトラー海の最奥」とは
 極東太平洋の北部と解釈される。
 同語が記される前段「6~8」で
 seres〔shres〕 という
 「衣服作る糸」の産地を述べているので、
 「セリア」はその「虫」に係わるものと
 理解できる。

 パウサニアスも『ギリシャ案内記』の
 日本語への翻訳本は二つある。

 岩波文庫本には残念ながら
 当該部分は訳対象からはずされている。

 もう一つの龍渓書舎版は
 当該部分は翻訳されているものの
 「セリア」名を「セレス」としている。

 『エリュトラー海案内記』の翻訳者
 村井堅太郎氏がその解説部分で

 パウサニアスの「セリアの島」を取り上げ、
 その前段〔6-8〕を翻訳している。

 〔9〕の当該部の翻訳はない。

 M.H.Rocha-Pereira,Pausaniae 
 Graeiae Descriptio,
 Bibbiotheca Teubneriana
 〔ギリシャ語版〕に依ると
 その用語は Seria〔Σηρια〕となっている

 その seria の語義であるが、
 上記したように「虫」との呼称で 
 seres があるので
 同語の変形語と

 解釈しやすいがそうではない。

 同語のギリシャ語表記は 
 〔Σηρια〕となっている
 わずかながら発音に違いがある。

 そこで参考にすべきは「セリカ」名である。

 本書第5章の(5)セレスで
 すでにその名称由来と語源は説明してある。

 「セリカ」の語源はサンスクリット語の
 sailika〔石〕と紹介した。

 「セリア」もその同類語の 
 sailā〔石よりなる、石の多、岩岡〕に依ると
 解釈する。

 それらはまた「繭」のことである。

 つまり「セリアの島」においても
 養蚕が行われていたとの説明になる。

 前項「(1)白木神社」で説いたように、
 養蚕が行われていた
 「九州」がその「島」である。

 セリアは〔九〕でいうとおり
 アサバとサカイアがその近くにある島である。

 「エリュトラー海の最奥」との
 地理説明にも合致する。

 〔九〕にはまた「セル」と呼ぶ川があって、
 その川がセリアを島にしていて、
 エジプトのナイル川が
 デルタ地帯をなしているのと
 同じだといっている。

 その説明は教義の発想で
 「邪馬台国」を想定させる。

 セリアは「繭」から離れた
 「岩岡」としてみれば明白で、
 大牟田市八本町の「岩倉」名に通じる。

 Sailā には〔岩岡〕の概念もあった。

 同地は大牟田川と堂面川に挟まれた所で、
 古代においては
 今より幅の広い野放図な流れで
 あったはずでデルタ地といってもよい。

 「セル」川も堂面川沿いに
 「白川」との地称がある。

 「シラ:白」は
 熊本県の
 阿蘇山の南麓「白水村」を水源とし、
 熊本市へ下り有明海に入る
 「白川」名と同義で
 サンスクリット語の
 jala〔泉、井〕を祖語とするのと
 同じである。

 堂面川の上流にも「高泉」との地称があり、
 事情が同じと理解される。

 「セリアの島」とは「九州島」
 をいったものと解釈され、
 紀元2世紀に
 日本列島の情報が西方ギリシャまで
 伝えられていた証拠である。

 ※出典:繁栄と野望のシルクロード
     ローマ皇帝の使者中国に至る  
     ジャン・ノエル・ロベール著
     伊藤晃・森永公子共訳

 「エルドラルドを求めて」
 (略)
 セリカの南のインドのあたりに、
 二つの新しい島があるとも書いている。

 クリゼ島とアルジレ島の名の示す意味は
 「名前が事実からきているのか、  
  いい伝えが名前からきているのか、
  いずれにしても、 
  その土地が一方は金ででき、
  他方は銀でできている」ということである。

 西暦77年には博物学者ので科学者の
 大プリニウスが
 これらの島について語っているが、
 クリゼ島はセレス人の国の岬だとしている。

 『エリュトゥラー海案内記』を
 書いた船乗りは、
 オリエント地域の海の沿岸を
 探検した人物だが、
 同じ時代にこの島をおおっていた
 神秘のヴェールをいくらかもちあげることが
 できたのである。

 プリニウスは実は、
 古代ローマ時代の著述家としてある程度
 正確な内容を与え、
 驚くべき新事実を明らかにした、
 初めての人である。

 初めは先人たちの説を繰り返し、
 セレス人は長生き(150歳まで生きる)で、
 文明化しているが、かなりの人嫌いである。

 「彼らは他の人々との交流を避けて、
  取引が向こうからやってくるのを
  待っている」

 のだから、と書いている。

 彼もメラのように
 セレス人はオリエントの大洋のほとり、
 北のスキタイと、
 その先にインド人の住む
 現在のヒマラヤ山脈
 との間にいるものとしている。

 ウェルギリス以来の著述家の例にもれず、
 絹はある種の木の葉に生える
 「白いふわふわした毛」で、
 木に水やりをする必要があると信じていた。

 しかしさらに
 彼はセリカを流れる
 三本の主要な河を挙げている。

 プシタラスとカンバリ、
 そしてラノスである。

 特筆すべきは彼が初めて
 謎めいたオリエント一帯のことを
 記したという点である。

 それは明らかに個人的な証言ではなくて、
 タプロバネ島つまりセイロン島
 (=現在のスリランカ)からローマへ
 やって来た使者の語った話なのである。

 セイロン人はセレス人と取引があったので、
 彼らのことを知っていた。

 ※出典:プリニウスの博物誌:雄山閣
     中野定雄 中野里美 中野美代訳

 〇セイロンからの使者からの報告
  (略)
 そして太陽が観察者の左側から出て、
 反対でなく右の方に没することであった。
 
 また彼らの島のインドに面した側面は
 長さ1,250マイルで、
 島はインドの南島に位しているということ、
 そしてヘモドスを越えて
 シナ人の国にも相対していること、
 このシナ人は交易によっても知られており、
 ラキアスの父親が
 そこへ旅行したことがあったが、
 そこへ到着するやいつもシナ人が急いで
 浜へ下って来て彼らを迎えると語った。

 彼らの話では、
 シナ人は普通よりも背が高く、
 亜麻色の毛髪と青い眼をしており、
 荒々しい口調で物を言い、
 旅行者と取引をする際は言語を用いない。
 (?彝族か)
 略

 以下の情報は

 わが国の商人のものと一致していた。

 「川の対岸のセレス人の売りたい商品の
  置かれている傍らに、
  セイロン人が持って来た商品を置き、
  取引が妥当なものだと考えると、
  セレス人は商品を持って
  立ち去るのであった」。

 驚くような証言で、すぐに反論したくなる。

 というのもセレス人の国が
 セイロンに面しているとは
 考えにくいからである。

 すぐに頭に浮かぶのは、
 二つの民族の混同である。

 しかしながら他の地理学者の話に比べれば、
 この証言の全てが

 間違いというわけではない。

 なんといってもローマ人には、
 こうした話を疑おうにも
 方法がなかったのである。

 これはまさに絹を産出する人々に対して
 ローマ人が抱いた強烈な
 イメージの一つなのである。

 ※出典:エリュトゥラー海案内記
          PERIPLUS MARIS ERYTHRAEI
     村川堅太郎〔訳注〕中公文庫

 紀元1世紀なかば、
  エジプト生まれの
 無名の無名の商人が誌した
 ギリシア語の文献、
 「エリュトゥラー海案内記」は、
 古代南海貿易の実態を生き生きと伝える
 貴重な史料である。

 季節風に帆をあげ、
 みずから紅海、インド洋に
 乗り出した体験にもとづく記事は
 詳細にわたり、きわめて精彩に富む。

 ヨーロッパ古代史の碩学が、
 六十六節からなる小冊子を
 平明達意の日本語に訳出し、
 周到厳密な解説と訳注を付す。

 「地図」古代東西交通路(Warmington による)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Silkroutes.jpg

 第39節 「バルバリコン港の輸出入品」

 さて船はバルバリコンに停泊するが、
 船荷は全部河を通じて首都へ向け
 王のもとに運びこまれる。

 この商業地に輸入されるのは
 混ぜ物ない衣服多量と不純のが少量、
 ポリュミタとクリュソリントンと珊瑚と
 ステュラックスと乳香とガラス器と銀器と貨幣、
 それから少量の葡萄酒である。

 これと入れかわりに船に積み込まれるものは
 コストス、ブデルラ、リュキオン、ナルドスと
  カルレアノス石とサッペイロスと
 セーレスの毛皮と綿布と生糸と
 黒色インディゴである。

 航海者はインドの(季節風)に乗って
 ユーリオスの月、即ちエピ-ピの頃に出航する。

 この風によって航海は危険であるが船足が速く
 かつ短くてすむからである。

 「リュキオン」
 この名前は小アジアの
  Lycia の産を想わせる。

 Plinius N.H.XXIV 77 § 125 には
 一種の潅木で
 その枝や根から煎じた液汁は薬品として
  広く用いられ、
 インド産のものは
  リュキアのよりも
 上等であると誌されており、
 XXV 30 § 67 ではリュキア産のが 
 Centaurium という
 植物から出来る旨を述べている。

 Watt p. 130 によるとインド産のは
 ヒマラヤ山の六千~一万フィートの
 高処などに自生する Berberis Linn. 
 という植物で現在でも
 根や幹から黄色染料や、
 特に眼病の薬がとられる。

 「ナルドス」
 英名 nard. 西パンシァブ、シンド、
 ベルチスタン、ペルシアに産する
 Cymbopogon Schoenanthus の
 主として根から採った香料。

 Plinius N.H.XXII 26 § 42 sq.   
 に香油中に主要な位置を占め、
 その穂は一ポンド百デーナーリウス、
 薬は四十~七十五デーナーリウスで、
 インドのほかシリア、ガルリア、クレータ島
 にも産したと伝えている。

 ペルシアの方面のものについては
 アルリアーヌスの
 アレクサンドゥロス遠征史(VI 22. 5)に
 大王の西帰の途上ゲドゥロシアーの荒野に
 これが多く自生し、
 従軍せるフェニキア商人が
 その根を採集したこと、
 また軍隊により踏みつけられた木は
 四辺に芳香を放った旨が誌されている。

 なお Nardos とも呼ばれる香料は 
 Cymbopogon jwarrancusa という
 前者より南方に生ずる草からも採れたし、
 Spikenard という草からも採られた。

 それで本節の他
 (四八)、(五六)、(六三)に
 インドの諸港から色々の名のついた
 ナルドスが輸出されると見えている。

 (四八)の註(4)及び 
 Watt p. 461-462 を看よ。

 「カルレアノス石」
 Skr. Kalyana 
 「祝福された」の音訳 (Bloch)。

 Plinius N.H. XXXVII 33 § 110 
 以下の Callaina(一本Callais)
 に同じ。

 これは同書によると薄緑色で
 中央アジアに産し、
 優良品はカルマニアから出た。

 Lassen IIIS. 14 は
 これをバクトゥリア方面から
 インドに来たトルコ玉とみており、
 Schoff も Turquoise と訳している。
 氏によれば
 これの産地は Khorassan 地方で、
 此処からカブールの谷を通って
 インダス河口に至り
 輸出されたのは自然である。

 「サッペイロス」
 これは
 今日インドに産するサファイアではない。

 Plinius N.H. XXXVII 39 § 120 に見える
 Sapphiri もやはり 
 「空色で最良のものは
  メディア産であるが
  いずれも透明ではなく、
  また結晶の部分を含んで
  彫刻には役立たぬ」
 とあり、サファイアではない。

 今日のサファイアは
 南インドとセイロン島(スリランカ)の産で
 態々(わざわざ)北インドのバルバリコンから
 輸出されるのは不自然であり、
 本書のもプリーニウスのもともに装飾材として
 また青色塗料として古くから用いられた 
 Lapis Lazuli と考えられる。

 その産地は中央アジアの Bokhara 地方で、
 カルレアノス石と同じ経路でバルバリコンから
 輸出されたわけである。

 「セーレスの毛皮]
 古代に於ける東西貿易の東端の国として、
 また絹の生産者として地中海方面に朧げながら
 広く知られていた
 Seres の名は本書では此処ではじめて出た。

 Setarabo XV c.702 に理想国風に誌されて以来
 Ptolem. VI 16 のやや詳細な記述に至るまで
 Seres の名は他の古典にもしばしば
 その名が見えるが(註(10:生糸)参照)、
 それがどの地方の住民であり、
 silk, soie,Seide の語の語源をなす
  Seres の名が何を写したかについては
 山下寅次氏が史学雑誌十七編
 四、五、六、八、十、十一号、
 十八編一、三、四号で
 「セレス、セリカに就きての考」の題の下に
 極めて詳細な研究を発表し、
 欧人の見解を批判しておられる。

 氏によれば「セレスの地方」たる 
 Serica について最も詳細に誌している
 プトレマイオスに於いて、
 その指すところは大体葱嶺(パミール)より東、
 シナ西北部に及び
 北は天山蒙古地方からシナ、
 トルキスタン、チベットを含み
 ヒマラヤ山脈に及んだ
 (十七編四六四頁、同巻十号附図参照)

 Seres,Serica の名が
 シナの西辺で絹の売買を仲介せる
 アルタイ語族の人々の絹を呼んだ語に
 由来することは今日定説である。 

 絹は蒙古語で Sirge と呼ばれる。

 此処に見える「セーレスの毛皮」については
 Plinius N.H.XXXIV 41 § 145 で
 「あらゆる種類の鉄の中セーレスの
  それが最も優秀であり、
  彼らはこれをその衣服に
  (絹布)と毛皮とともに送る」と延べ、

 またPlinius N.H.XXXVII 78 § 204 では
 「あらゆる皮のうち最も高価なのは
  セーレスの染めたものである」と
 記していることを想い合わすべく、
 Vincent や Muller のように
 本書の記事を疑うべきではなかろう。

 中央アジア方面の毛皮が
 カブールを経て齎されたものらしい
 (cf.Warmington p.157-158)。

 但しプリーニウスに於ける
 「セーレスの鉄」は
 Schoff p.209 により
 実は南インドの Chera 国の
 鉄の意味ではないかとの
 疑いが提出されている。

 蓋し ch の音と s の音が 
 Ceylon の言葉では
 入れ替わっている場合があり、
 本書(六)にも
 インドの鉄のことが見えるからである。

 「生糸」
 ローマ帝政期を通じて
 ローマ人に甚だ珍重せられ、
 時には同じ重みの金と値を
 均しゅうすると言われた
 (Script Hist. Aug. Aurelianus 45)

 シナの絹が古代東西貿易の
 最重要商品だったことは言うまでもない。

 このことは序説四四頁に引いた
 後漢書の記事でも明らかである。

 絹は絹布の他にも生糸の形で送られたが、

 真綿の形でも送られたことは
 (六四)の記事が
 示している。

 ところで山繭(天蚕)から
 絹布を織ることは
 地中海方面でも行われていたが
 (Plinius N.H.XI 25 § 75 sq.)、
 シナの養蚕業のことは
 古代の地中海方面には
 殆ど知られていなかったらしい。

 Stabo.XV.c.694 所引 
 Nearchos によると
 絹は亜麻の表皮を梳って出来ると
 考えたらしい。

 Vergilius Ceorg. II 121 には
 「Seres が繊細な羊皮を樹の葉から梳る」
 旨誌されており、

 綿のように生糸も直接に樹から採られ
 植物性の繊維であるとの
 考えが支配的だったようである。

 Plinius N.H.VI 20 § 54 も Seres を
 「森の羊毛で有名な」と形容しており
 (cf.XII 21 § 38)、

 四世紀の 
 Ammianus Marcellinus XXXIII 6 § 67 sq. 
 に於いても
 Seres の国土が理想国風に描かれ、
 その輝かしい森林から
 羊毛のごときものを産し、
 それを梳って絹織物が出来る旨伝えている。

 ただ二世紀のパウサニアースは 
 Seres の土地には関しては
 「エリュトゥラー海の最奥部に横たわる 
  Serica の島」
 程度のことしか知らなかったが、

 絹については俗説を訂正して
 次のように記している(VI 26 § 7-9)
 「セーレスが衣を造る糸は
  樹皮から出来るのではなく
  次のような別の方法で造られる。

  彼らの土地にはヘルレーネスが 
  ser と呼ぶ虫があり、
  セーレス自身はこれを ser と呼ばず
  別の名で呼んでいる。

  その大きさは
  甲虫の最も大きなものの二倍で、
  その他の点では
  樹下に巣を織りなす蜘蛛に似ており、
  実際足の数も蜘蛛と同様に八つである。

  セーレスは寒暑の気候に適した家を造って
  この動物を養う。

  この動物の造るものは繊細な糸で、
  その足に巻きついている。

  彼らはこの虫に稯を食わせて
  四年に亘り飼育し、
  五年目になると
  最早その生存出来ぬのを知っているので
  緑色の蘆を与える。

  これはこの虫の最も好む食物なので
  蘆に満腹して虫は破裂し、
  死んだ虫の体内に沢山の糸が
  見出されるのである」と。

 養蚕業に関する正確な知識が
 地中海方面に伝わらなかったのは
 絹貿易路の仲介商人が己の利益のために
 殊更にこれを秘密にしたことが
 与っているであろう。

 六世紀に至り
 東ローマのユスティニアーヌス帝の時、
 遂に蚕卵が
 コンスタンティノーブルに齎されて
 養蚕業の起こったことは
 普く人の知るところである。

 「黒色インディゴ」
 熱帯、亜熱帯地方に産する 
 Leguminosae 風の Indigofera 
 から出来た染料。

 その植物は三百種を含み、
 インドのみでも四十種を産する。

 Plinius N.H.XXXV 25 § 43 以下に詳しい。

 「インドの産で外見は黒色であるが
  水に溶くと
  紫色と青色の不思議な混合色を呈する……
  その値は一ポンドに十デーナーリウス。
  薬用として瘧(おこり)と発作を鎮め、
  潰瘍を乾かす」と見える。

 今日の生産については
 Watt p. 660 以下に
 極めて詳細な説明がある。

 「インドの季節風」
 (五七)
  詳し。

 

 

M.K記(責)

http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049209.html

連絡先:090-2485-7908

 

『ひねもす至福の時』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049175.html

『My ブログ』 http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049213.html

『生涯学習(History)』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049218.html

『歴史再生:目次』

https://ameblo.jp/matmkanehara/entry-12476266116.html

「神聖の系譜」出版協賛のお願い

https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4

 

サッカー☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪サッカー

 

小嶋秋彦

「歴史学講座『創世』」

補筆

金原政敏

<ローマ〔4世紀〕の地誌家
プリニウスのいう「セレス」>

 

  https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%A1%88%E5%86%85%E8%A8%98-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%91%E5%B7%9D-%E5%A0%85%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4122055040
 ※出典:「エリュトゥラー海案内記」
     PERIPLUS MARIS ERYTHRAEI
     村川堅太郎訳註:中公文庫

 紀元1世紀なかば、
 エジプト生まれの無名の商人が誌した
 ギリシア語の文献、
 「エリュトゥラー海案内記」は、
 古代南海貿易の実態を
 生き生きと伝える貴重な資料である。

 季節風に帆をあげ、
 みずから紅海、インド洋に
 乗り出した体験にもとづく記事は
 詳細にわたり、
 きわめて精彩に富む。
 
 ヨーロッパ古代史の碩学が、
 六十六節からなる小冊子を
 平明達意の日本語に訳出し、
 周到厳密な解説と訳注を付す。

 「地図」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Silkroutes.jpg
 インド洋北岸・インド
 「エリュトゥラー海案内記」124・125頁
 第三十七節:パルシダイの地方と

         ゲドゥロシア湾、オーライ港

 オマナ地方の次には同じく、
 別の王国に属する
 パルシダイの地方と
 いわゆるテラブドーンの湾が横たわり、
 その真中に当たって(岬が)突出している。

 そしてこの湾には一つの河があり
 船を入れることが出来、
 河口にはオーラテアと呼ばれる
 小さな商業地があり、
 また河の背後には
 海から七日の道程離れた内地の市があり、
 其処にはまた王宮もあって、
 (ラムバキア)と呼ばれる。

 この地方は
 多量の麦と葡萄酒と米と棗耶子とを産するが
 海岸地方にはブデルラ以外には

 何も産しない。

 第三十八節:スキュティア地方と

         シントス(インダス)河、

         バルバリン港と

         パルティア人の支配

 

 この地方の後ろには
 湾が深く入り込んでいるために
 今や海岸が東から海中に突出しているが、
 真北に横たわる
 スキュティアーの沿海部分が続き、
 実に低平の地方で、
 其処からシントス河が(海に注ぐ。)

 これはエリュトゥラー海の河の中でも大きく
 かつ極めて多量の水を

 海中に注ぐので遠くまで、
 そして人が陸地に近づくより前に、
 この河からの清い水がやって来るのである。

 大海から来た者にとって
 この河の辺に近づいた証(しるし)は
 海の深みから現れて来る舵である。

 ちょうど上述の地方やペルシス地方では
 グラアイと呼ばれる舵が証であるように。

 この河には七つの河口があるが、
 これらはささやかで沼地風であり、
 臨海の商業地バルバリコンのある
 真中の河口を除いては
 他は航行が出来ない。

 この(河口の)前面には小さな島があり、
 背後の内地には
 スキュティアの主都ミンナガルがある。

 バルティアー人の王により支配されているが、
 彼らは絶えず互いに追い出し合っている。


 乳香とガラス器と銀器と貨幣、
 それから少量の葡萄酒である。

 これと入れかわりに船に積み込まれるものは
 コストス、ブデルラ、リュキオン、ナルドスと
 カルレアノス石と
 サッペイロスとセーレスの毛皮と綿布と生糸と
 黒色インディゴである。

 航海者はインドの(季節風)に乗って―略―
 
 「エリュトゥラー海案内記」218・219頁
 ※注釈
 「リュキオン」
 この名前は

 小アジアの Lycia の産を想わせる。

 Plinius N.H.XXIV 77 § 125 には

 一種の潅木で
 その枝や根から煎じた液汁は
 薬品として広く用いられ、
 インド産のものはリュキアのよりも
 上等であると誌されており、
 XXV 30 § 67 ではリュキア産のが 
 Centaurium という植物から
 出来る旨を述べている。

 

 Watt p. 130 によるとインド産のは
 ヒマラヤ山の六千~一万フィートの
 高処などに自生する Berberis Linn. 
 という植物で現在でも根や幹から

 黄色染料や、特に眼病の薬がとられる。

 「ナルドス」
 英名 nard. 
 西パンシァブ、シンド、ベルチスタン、

 ペルシアに産する

 Cymbopogon Schoenanthus の
 主として根から採った香料。

 Plinius N.H.XXII 26 § 42 sq. 
 に香油中に主要な位置を占め、
 その穂は一ポンド百デーナーリウス、
 薬は四十~七十五デーナーリウスで、
 インドのほかシリア、ガルリア、

 クレータ島にも
 産したと伝えている。

 ペルシアの方面のものについては
 アルリアーヌスの
 アレクサンドゥロス遠征史(VI 22. 5)に
 大王の西帰の途上ゲドゥロシアーの荒野に
 これが多く自生し、
 従軍せるフェニキア商人が

 その根を採集してこと、
 また軍隊により踏みつけられた木は
 四辺に芳香を放った旨が誌されている。

 なお Nardos とも呼ばれる香料は 
 Cymbopogon jwarrancusa という
 前者より南方に生ずる草からも採れたし、
 Spikenard という草からも採られた。

 それで本節の他(四八)、(五六)、(六三)に
 インドの諸港から色々の名のついた
 ナルドスが輸出されると見えている。

 (四八)の註(4)及び Watt p. 461-462 を看よ。

 「カルレアノス石」
 Skr. Kalyana 「祝福された」の音訳 (Bloch)。

 Plinius N.H. XXXVII 33 § 110 以下の 
 Callaina(一本Callais)に同じ。

 これは同書によると薄緑色で

 中央アジアに産し、
 優良品はカルマニアから出た。

 Lassen IIIS. 14 はこれを 

 バクトゥリア方面から
 インドに来たトルコ玉とみており、
 Schoff も Turquoise と訳している。

 氏によればこれの産地は 

 Khorassan 地方で、
 此処からカブールの谷を通って

 インダス河口に至り
 輸出されたのは自然である。

 「サッペイロス」
 これは今日インドに産する

 サファイアではない。
 Plinius N.H. XXXVII 39 § 120 
 に見える Sapphiri もやはり
 「空色で最良のものはメディア産であるが
  いずれも透明ではなく、
  また結晶の部分を含んで

  彫刻には役立たぬ」
 とあり、
 サファイアではない。

 今日のサファイアは
 南インドとセイロン島(スリランカ)の産で
 態々(わざわざ)北インドの

 バルバリコンから
 輸出されるのは不自然であり、
 本書のもプリーニウスのもともに

 装飾材として
 また青色塗料として古くから用いられた
  Lapis Lazuli と考えられる。

 その産地は中央アジアの Bokhara 地方で、
 カルレアノス石と同じ経路で
 バルバリコンから輸出されたわけである。

 「エリュトゥラー海案内記」219・220頁
 注釈
 「セーレスの毛皮]
 古代に於ける東西貿易の東端の国として、
 また絹の生産者として
 地中海方面に朧げながら広く知られていた
 Seres の名は本書では此処ではじめて出た。

 Setarabo XV c.702 に

 理想国風に誌されて以来
 Ptolem. VI 16 の

 やや詳細な記述に至るまで
 Seres の名は
 他の古典にもしばしばその名が見えるが
 (註(10:生糸)参照)、
 それがどの地方の住民であり、
 silk, soie,Seide の語の語源をなす
  Seres の名が何を写したかについては
 
 山下寅次氏が
 史学雑誌十七編四、五、六、八、十、十一号、
 十八編一、三、四号で
 「セレス、セリカに就きての考」の題の下に
 極めて詳細な研究を発表し、
 欧人の見解を批判しておられる。

 氏によれば「セレスの地方」たる 
 Serica について最も詳細に記している
 プトレマイオスに於いて、
 その指すところは

 大体葱嶺(パミール)より東、
 シナ西北部に及び
 北は天山蒙古地方から
 シナ、トルキスタン、チベットを含み
 ヒマラヤ山脈に及んだ
 (十七編四六四頁、同巻十号附図参照)
 Seres,Serica の名がシナの西辺で
 絹の売買を仲介せる
 アルタイ語族の人々の
 絹を呼んだ語に由来することは
 今日定説である。 

 絹は蒙古語で Sirge と呼ばれる。

 此処に見える「セーレスの毛皮」については
 Plinius N.H.XXXIV 41 § 145 で
 「あらゆる種類の鉄の中
  セーレスのそれが最も優秀であり、
  彼らはこれをその衣服に(絹布)と
  毛皮とともに送る」と延べ、
 またPlinius N.H.XXXVII 78 § 204 では
 「あらゆる皮のうち最も高価なのは
  セーレスの染めたものである」と
 記していることを想い合わすべく、
 Vincent や Muller のように
 本書の記事を疑うべきではなかろう。

 中央アジア方面の毛皮が
 カブールを経て齎されたものらしい
 (cf.Warmington p.157-158)。

 但しプリーニウスに於ける
 「セーレスの鉄」は
 Schoff p.209 により
 実は南インドの Chera 国の
 鉄の意味ではないかとの
 疑いが提出されている。

 蓋し ch の音と s の音が 
 Ceylon の言葉では
 入れ替わっている場合があり、
 本書(六)にもインドの鉄のことが
 見えるからである。

 「エリュトゥラー海案内記」221・222頁

 注釈
 「生糸」
 ローマ帝政期を通じてローマ人に

 甚だ珍重せられ、
 時には同じ重みの金と値を

 均しゅうすると言われた
 (Script Hist. Aug. Aurelianus 45)
 シナの絹が古代東西貿易の
 最重要商品だったことは言うまでもない。

 このことは序説四四頁に引いた
 後漢書の記事でも明らかである。

 絹は絹布の他にも生糸の形で送られたが、
 真綿の形でも送られたことは
 (六四)の記事が示している。

 ところで山繭(天蚕)から絹布を織ることは
 地中海方面でも行われていたが
 (Plinius N.H.XI 25 § 75 sq.)、
 シナの養蚕業のことは

 古代の地中海方面には
 殆ど知られていなかったらしい。

 Stabo.XV.c.694 所引 Nearchos によると
 絹は亜麻の表皮を梳って

 出来ると考えたらしい。

 Vergilius Ceorg. II 121 には
 「Seres が繊細な羊皮を樹の葉から梳る」
 旨誌されており、
 綿のように生糸も直接に樹から採られ
 植物性の繊維であるとの
 考えが支配的だったようである。

 Plinius N.H.VI 20 § 54 も Seres を
 「森の羊毛で有名な」と形容しており
  (cf.XII 21 § 38)、
 四世紀の 
 Ammianus Marcellinus XXXIII 6 § 67 sq.
  に於いても
 Seres の国土が理想国風に描かれ、
 その輝かしい森林から

 羊毛のごときものを産し、
 それを梳って絹織物が出来る旨伝えている。

 ただ二世紀の
 パウサニアースは 

 Seres の土地には関しては
 「エリュトゥラー海の
  最奥部に横たわる Serica の島」
 程度のことしか知らなかったが、
 絹については俗説を訂正して
 次のように記している(VI 26 § 7-9)

 「セーレスが衣を造る糸は
  樹皮から出来るのではなく
  次のような別の方法で造られる。
  彼らの土地にはヘルレーネスが 
  ser と呼ぶ虫があり、
  セーレス自身はこれを ser と呼ばず
  別の名で呼んでいる。
  その大きさは甲虫の最も大きなものの

  二倍で、その他の点では
  樹下に巣を織りなす蜘蛛に似ており、
  実際足の数も蜘蛛と同様に八つである。

  セーレスは
  寒暑の気候に適した家を造って

  この動物を養う。
  この動物の造るものは繊細な糸で、
  その足に巻きついている。

  彼らはこの虫に稯を食わせて
  四年に亘り飼育し、五年目になると
  最早その生存出来ぬのを知っているので
  緑色の蘆を与える。

  これはこの虫の最も好む食物なので
  蘆に満腹して虫は破裂し、
  死んだ虫の体内に
  沢山の糸が見出されるのである」と。

 養蚕業に関する正確な知識が
 地中海方面に伝わらなかったのは
 絹貿易路の仲介商人が己の利益のために
 殊更にこれを秘密にしたことが

 与っているであろう。

 六世紀に至り東ローマの

 ユスティニアーヌス帝の時、
 遂に蚕卵がコンスタンティノーブルに

 齎されて
 養蚕業の起こったことは

 普く人の知るところである。

 「黒色インディゴ」
 熱帯、亜熱帯地方に産する
  Leguminosae 風の Indigofera 
 から出来た染料。

 その植物は三百種を含み、
 インドのみでも四十種を産する。

 Plinius N.H.XXXV 25 § 43 以下に詳しい。

 「インドの産で外見は黒色であるが

  水に溶くと紫色と青色の不思議な

  混合色を呈する……
  その値は一ポンドに十デーナーリウス。
  薬用として瘧(おこり)と発作を鎮め、
  潰瘍を乾かす」と見える。

 今日の生産については Watt p. 660 以下に
 極めて詳細な説明がある。

 「インドの季節風」
 (五七)詳し。

 「エリュトゥラー海案内記」142・143頁
 「第六十四節」
  この地方の後ろに既に全く北に当たって
  ある場処へと外海が尽きると、
  其処には
  ティーナイと呼ばれる

  内陸の大きな都があり、
  此処からセーレスの羊毛と糸と織物が
  バリュガサへとバクトゥラを通じて

  陸路で運ばれ、
  またリミュリケーへと

  ガンゲース河を通じて運ばれる。
  このティスの地方へは
  容易には到達することが出来ない。
  というのは此処からは
  稀に僅かの人たちが来るに過ぎないから。
  其処は小熊星の直下に位し、
  ポントスとカスピアー海との
  最も遠隔の部分に境を接するといわれる。
  カスピアー海の傍らには

  マイオーティス湖が横たわり
  大洋(オーケアノス)に注いでいる。

 「第六十五節」
  毎年ティスの境には

  体が矮小で顔幅が恐ろしく広く、
  ……の一種族がやって来る。
  (噂によると)彼らはベーサタイと呼ばれ、
  未開人に殆ど同じだそうである。
  彼らは女や子供を伴い、
  大きな荷物即ち葡萄の若葉を容れた
  籠に似たものを運んでやって来て、
  それから
  彼らとティスの人々との境界の或る処に

  留まり、
  籠を敷き延べてその上で
  数日間お祭り騒ぎをした後
  もっと奥地の自分の故郷へと出発する。
  人々はそれを見張っていて
  この時其処にやって来て

  彼らの下敷きを集め、
  ペトゥロイと呼ばれる蘆の葉肋を

  引き抜き
  (ベーサタイの持ってきた)葉を

  薄く重ねて丸くして
  蘆の葉肋で指し通す。

  これに三種があり、
  大型の葉からは大丸(おおまる)
  マラバトゥロンと呼ばれるものが、
  これより劣った葉からは

  中丸(ちゅうまる)が、
  更に小さな葉からは

  小丸(しょうまる)が出来る。
  そこで三種のマラバトゥロンが出来、
  そしてこれを造る人達によって

  インドに運ばれる。

 「第六十六節」
  これらの場処の後の地方は或いは
  激しい暴風や非常の寒気のために

  近づき難く或いはまた
  神々の神秘な力のゆえに

  踏査不可能である。

 「エリュトゥラー海案内記」
 223・274・275頁・注釈
 「第四十節」
 「エイリノン」
  Eirinon 今日の Cutch 島の北及び
  東側の広大な荒地(Rann of Cutch)。
  乾燥季には海水面より、

  一、二尺上であるが、
  雨季には三尺位の水溜りとなる。
  Eirinon の名は Rann,Rinn とともに梵語で
  「潟」を意味する irina から来ている。
  …略…

 「第六十三節」
  …略…
  「真珠」
  ガンジス河産の真珠は形が小さく、
  不整形でかつ赤味を帯び優秀ではない。

 「ガンゲース織」
  ベンガル産の木綿織で、
  インドでは西北部でも

  優秀な木綿が出来たが、
  作者の説くように
  この地方のが古来特に優秀であった。
  今日ではその中心は
  ブラマプトラ河の河口近くの Dacca で、
  Watt p. 617 によれば
  この地方で手工業的に
  紡がれた綿糸は優秀であり、
  最新の紡績機械を使用する欧米人も
  これから学ぶべきものがあると言う。

 「金坑」
  この地方には顕著な金山はない。
  出来るのは砂金で 
  Calcutta:現在コルカタ)の西に当たる
  Chota Nagpur の高原の西部を流れて
  ガンジス河に合する
  今日の Son 河やその他、
  この高原を流れる諸河は

  古来砂金を産した。
  その他チベットやビルマ境の 
  Assam からも砂金が出た。
  この砂金について Herodotus III 102 sq. 
  をはじめ多くの古典に伝えられた
  蟻を利用しての砂金採集の説話が

  生まれたらしい。
  但し
  MaCrindle, Ancient India as described 
  by Megasthenes and Arrian. 
  Reprint 1926 p. 95 note
  参照。

 今日インドには
 諸処に金を産するが

 産出量は僅少であるり、
 上述の Chota Nagpur 地方も
 地質調査の結果有望でないとされている。
 (Watt p. 565 sq.)。

 「カルティス」
  この名の起源については
  色々の推定が行われているが、
  いまだ

  充分首背せしめるものはないようである。
  音声の上からは梵語 Kalita 
  (「算えられた」の義)が最も近いようである。

 「クリューセー」
  Chryse 「黄金(島)」の義であるが、
  これは作者の誤解で、
  当然島ではなく

  半島とあるべきところである。
  即ち今日のマレイ半島であるが、
  Plinius N.H.VI 20 § 55 では
  Seres に関する漠たる記述の中に
  彼らの土地に Chryse と呼ばれる
  半島のあることを誌している。
  Cf. VI 23 § 80。
  二世紀のプトレマイオスになると
  この半島に関しては
  更に明確な記述が見出される。

  即ち VII 2, 25 の黄金半島の条に
  Balonka, Kokkonagara, Tharrha, Palanda の
  四市を置いている。
  なお I 13-14 参照。
  彼の利用した Tyrus の Marinus 書には
  マレイ半島の彼方まで航海した
  Alexandros という水夫の報告が
  採用されていたのである
  (Ptolem. 114)。
 詳しくは Warmington p. 126-127 参照。

 黄金半島と呼ばれたのは Schoff によれば
 単に東の果てに商人らの理想国を
 置いたというものではなくて、
 現に Pahang 州に古代大金坑の跡が
 発見されているところから推すと
 事実この頃から

 盛んに金を出したためであるという。

 「第六十四節」
 「ティーナイ」Thinai 
  Frisk は写本のまま Thina としているが 
  Ptolem. VII 3,6 には
  Sinai (民族名) の
  「首都 Sinai 或いは Thinai 銅の城壁も、
   その他特記すべきもの…略…」

 

M.K記(責)

http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049209.html

連絡先:090-2485-7908

AD

 

 

『ひねもす至福の時』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049175.html

『My ブログ』 http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049213.html

『生涯学習(History)』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049218.html

『歴史再生:目次』

https://ameblo.jp/matmkanehara/entry-12476266116.html

「神聖の系譜」出版協賛のお願い

https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4

 

サッカー☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪サッカー

 

小嶋秋彦

「歴史学講座『創世』」

補筆

金原政敏

<ローマ〔4世紀〕の地誌家
プリニウスのいう「セレス」>

『ウィキペディア(Wikipedia)』セリカ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%82%AB

 

 

 ※出典:繁栄と野望のシルクロード
     ローマ皇帝の使者中国に至る
     ジャン=ノエル・ロベール著

 

 <エルドラドを求めて>

 …略…
 セリカの南のインドあたりに、
 ふたつの新し島があるとも書いている。

 クリゼ島とアルジレ島の名の示す意味は
 「名前が事実からきているのか、
  いい伝えが名前からきているのか、
  いずれにしても、

  その土地が一方は金で出来、
  他方は銀でできている。」

 ということである。


 1977年には博物学者で科学者の

 プリニウスが
 これらの島について語っているが、
 クリゼ島セレス人の国の岬だとしている。

 『エリュトラー海案内記』を書いた船乗りは、
 オリエント地域の海の沿岸を

 探検した人物だが、
 同じ時代にこの島を

 ベンガル湾の東に位置付けた。

 旅行者の体験だが、

 この伝説の島をおおっていた
 神秘のヴェールを
 いくらかもちあげることができたのである。

 プリニウスは実は、
 古代ローマ時代の著述家としてある程度
 正確な内容を与え、
 驚く新事実を明らかにした、

 初めての人である。

 初めは先人たちの説を繰り返し、
 セレス人は 長生き(150歳まで生きる)で、
 文明化しているが、かなりの人嫌いである、
 「彼等は他の人々との交流を避けて、
  取引が向こうからやって来るのを
  待っている」
 のだから、と書いている。

 彼もメラのようにセレス人は
 オリエントの大洋ほとり、北のスキタイと、
 その先にインド人の住む

 現在のヒマラヤ山脈との
 間にいるものとしている。

 ウェルギリウス以来の著述家の例にもれず、
 絹はある種の木の葉に生える
 「白いふわふわした毛」で、
 木には水やりをする必要が

 あると信じていた。

 しかし、
 さらに彼はセリカを流れる三本の主要な
 河を挙げている。

 プシタラスとカンバリ、そしてラノスである。

 特筆すべきは彼が初めて謎めいた
 オリエント一帯の事を記したという点である。

 それは明らかに個人的な証言ではなくて、
 タプロバネ島つまりセイロン島
 (=現在のスリランカ)からローマへやって来た
 使者の語った話なのである。

 セイロン人はセレス人と取引があったので、
 彼等のことを知っていた。

 「セイロンの人々は

  ヘモディ(ヒマラヤの別名)の
  山々を隔ててセレス人と

  向いあっていた……。
  セイロン人が到着する時には、
  セレス人が迎えに出るのだった。


  彼らは並外れて背が高く、

  紅毛で目は青く、
  ぞっとするような声の持ち主で、
  外国人とは話をしない。
  以下の情報は
  我が国の商人のものと一致していた。
  川の対岸のセレス人の売りたい商品の
  置かれているかたわらには、
  セイロン人が持って来た商品を置き、
  取引が妥当なものだと考えると、
  セレス人は商品を持って

  立ち去るのであった」。
 ⦿!? セレス人は彝族か

 驚くような証言、すぐに反論したくなる。
 というのもセレス人の国が
 セイロンに面しているとは

 考えにくいからである。
 すぐに頭に浮かぶのは、
 二つの民族の間の混同である。
 しかしながら他の地理学者の話に比べれば、
 この証言のすべてが

 間違いというわけではない。
 何と言ってもローマ人には、
 こうした話を疑おうにも

 方法がなかったのである。
 これはまさに絹を産出する人々に対して
 ローマ人抱いた

 強烈なイメージの一つなのである。
 以下…略…




 <セレスと青龍>
  ※出典:歴史研究家「小嶋 秋彦」

    『日本創世紀』第5章養蚕と絹
  セリカ sērika(ca) とともに
 ラテン語で ser、seris、
 ギリシャ語で Σηρ、Σηρος 
 と表現される用語について
 触れておかなければならない。

 これらは、
 そこから絹を入手したアジアの種族名で、
 シナ人の呼称とされている呼称である。

 この用語の語源についての

 追求もされてきたが、
 確定されるまでに至っていない。

 これもセリカ同様、
 漢語の絹商品に係わる用語に
 語源を求めることはすでに止められ、
 朝鮮語やモンゴル語に求める
 見解があることを既述したが、
 モンゴル語に設定するのは理屈が通らない。

 朝鮮語の絹は絹を表わす sir は
 斯盧、新盧、新羅と表記された。
 サンスクリット語の sila〔石〕が祖語である。

 しかし、
 斯盧が韓半島の南部に表れるのは

 紀元後のことで、
 セレスが史料に表れるのが
 紀元前2世紀であることを考慮すると、
 これに由来するとするのは難しい。

 海路を経て西アジアへ伝えられた
 「絹」名はセリカである。

 これに対し、
 セレスは内陸、中央アジアを経て
 西アジアへ伝えられた
 絹を生産する人々の名称である。

 ジャン・ノエル・ロベールは
 「ローマから中国へ」の中で、
 ローマの地理学者ストラボーンが
 バクトリアの王(メナンドロス)が
 「彼の支配をセレス人にまで及ぼした」

 と記述し、
 それは
 別の地理学者アポロドロスに
 依ることを述べているので、
 アポロドロスは紀元前1世紀の初めに
 セレス人について言及していたと述べている。

 メナンドロスは

 紀元前180年頃バクトリアに君臨し、
 163年頃には
 パンジャブ地方〔インド西部〕へも勢力を

 伸長した
 ギリシャ人の王の中で最も強盛な王で
 「ミリンダ王」である。

 紀元前1世紀の初めに
 ローマの地理学者が
 セレスの存在を知ったことになる。

 そこで想起されるのは月氏の西遷である。

 彼等は紀元前176年に
 甘粛省の安定から匈奴に追われ

 西遷を始め、
 紀元前138年には
 バクトリアに到着し定着を始めたとされる。

 紀元前2世紀の後半に移動したのである。

 月氏と秦氏でみたように彼等こそ
 絹貿易の仕掛人と考えられるのである。

 月氏は安定(地名)辺りで和氏

 「和氏」及び「羲氏」

 接触していたに違いない。

 和氏は絹の技術知識を持って
 安定(地名)の地、
 三危山の麓へ移っていたのである。

 嫘祖伝承により「和夷」である阿泥族の故郷
 四川省西方の高原が
 「蠶」の発祥地であることはすでに述べた。

 川西高原を流れる現在の大渡河は

 明の時代まで
 峨水あるいは和水と表記された
 和族(氏)の居住地であった。

 「禹貢」の「和夷」を
 この和水の流域に住む夷族と解釈するのが
 シナの古典的理解であった。

 しかし、
 現代になって少数民族の研究が進み

 「和夷」を
 阿泥族とするのが一般的理解となっている。

 涼山彝族自治省を流れる川に

 安寧河があるが、
 この河はかって阿泥河であった。

 安寧は阿泥の転換であることが解かる。

 大渡河の上流大金川沿いに

 「安寧」の地名がある。

 阿泥(和)族の遺称地である。

 山海経「海内経」には次のようにある。

 西海の内、流沙の中に国あり、
 名は壑市(かくし)

  …中略…

 流沙の東、黒水の西に朝雲の国、
 司彘(してい)の国あり、
 黄帝の妻、雷祖は昌意を生む。

 雷祖とは嫘祖のことである。


 国水はアハチベット族自治省を流れ
 岷江に合流する黒水河のことで、
 その西とは大渡河(和水)の上流

 大金川流域である。

 つまり嫘祖は和族(氏)の出であることを
 ここでも解いているのである。

 このような考察及び韓半島、
 日本の倭族の養蚕に対する記録によると、

 安定(地名)へ移された「和氏」は
 十分に絹の知識を持っていたことが解る。

 和氏と同居した月氏は、
 和氏から

 紀元前2世紀のうちにその情報を獲得し、
 牧畜民〔温帯地帯型羊飼い〕から
 絹商人へと転換したのである。

 彼等の運んだ絹商品が
 パルチアを経由してローマに到達し、
 ローマの貴重品となったのである。

 セレスとは絹を扱う商人達ではあるが、
 その生産地の人々をいうものと
 ラテン語、ギリシャ語では

 理解されているので、
 四川盆地辺りの人々ということになる。

 紀元前2世紀頃の
 蜀の主要民族は「和夷」であった。

 そして彼等の「蠶」の神として崇拝されたのは
 「天叢氏」の青衣神、
 西王母の乗物となる「青龍」であった。


 特に蜀が「青龍」の地となっていたことは、
 「青龍」の地名龍門山、龍泉山の

 山名などにより
 理解ができる。

 つまり、セレス seris は、
 「青龍」sha〔tshie、tsie:緑〕-lu〔龍〕の
 転訛と考えられるのである。

 和人〔倭人〕の後裔である

 日本語訓(よ)みでは、
 これを sei-ryu といい、より seris に近い。

 ストラボンはセレスは紅毛で碧眼であったと
 記述しているところみると、
 絹を商品として取り扱っていたのは、
 単に和族だけでなかったことが窺われる。

 月氏は紅毛碧眼の民といえないだろうが、
 流通に他の複数の種族(ソクディア人)が
 係わっていた表われであろう。

 紀元前2世紀になっても

 東方の絹の生産地について
 ローマでは詳しいことを解っていなかった。

 当時マケドニアの商人
 マエスが陸路「絹の国」へ至ったという。

 彼はそこをセリカといったが、 
 そこに15の町があり、
 首都をセラ Sera といったという。

 この sera も青龍を原語とするとみられる。

 セレスは青龍の転訛と考えられるのである。

 そのほとんどは紀元後の史料となるが、
 タクラマカン砂漠の周辺から
 ソグディアナ〔中央アジア〕の一帯で
 養蚕が行われた記録と
 実際の絹製品が遺物として残されている。

 その大生産地が
 現在ホータン(和田)という
 タクラマカン砂漠の西南の町である。

 そこは

 クシャン王朝の王家の発祥地でもある。

 クシャン(貴霜)名の語幹について
 繭を表わす kosa があることが指摘される。

 そのギリシャ語市名 

 Kustana、Kothan などの
 祖語も kosa(繭) にあるといってよいと

 考えられる。

 漢の時代の「蚕種西遷」伝承や
 現在においても

 絹の生産が盛んであることをみると、
 桑の生育に適した環境といえよう。

 中央アジアからトルコにかけて

 繭、絹は現在でも
 kosa と呼び慣らされている。

 西王母の故郷として
 カシミールまで考えられているのは、

 青龍である蚕が西方にも
 広く飼われるようになったことにもよる。

 古代ローマでは、
 シナのことを

 「セリカ(絹の国)」とよんだように、
 シナの絹織物は、

 古くから陸路を経て遠く運ばれた。

 シリアのパルミラから出土した
 漢代の錦・綾・綺(にしき あや あやぎぬ)など、
 交易路の各地点より出土した
 漢代から唐代にかけての多量の絹織物は、
 それを伝えている。

 しかし、
 シナは製品の絹織物を輸出しても、
 蚕種(さんしゅ)(蚕の卵)の

 国外への持ち出しはかたく禁じていた。

 そのため、こうした地域には、
 蚕種の西方への伝播にまつわる
 いくつかの伝説が残されている。

 タリム盆地のホータンにある
 この地に嫁ぐ王女が蚕種を
 帽子の中に隠して伝えたという
 蚕種西遷説話が描かれている。

 

 ※漢書地理志の〔甘粛省〕「涼州」


 

M.K記(責)

http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049209.html

連絡先:090-2485-7908

『ひねもす至福の時』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049175.html

『My ブログ』 http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049213.html

『生涯学習(History)』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049218.html

『歴史再生:目次』

https://ameblo.jp/matmkanehara/entry-12476266116.html

「神聖の系譜」出版協賛のお願い

https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4

 

サッカー☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪サッカー

 

小嶋秋彦

「歴史学講座『創世』」

補筆

金原政敏

<ヨーロッパ東方のユダヤ人(アシュケナージ)の来歴>

 

 ※出典:紀元前2世紀後半の世界地図 ©世界の歴史まっぷ

https://www.sekainorekisi.com/%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D2%E4%B8%96%E7%B4%80%E5%BE%8C%E5%8D%8A%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9C%B0%E5%9B%B3/

「前二千年紀の世界」の画像検索結果

康居=犬戎

 

≪中国の史料「春秋左氏伝」の「犬戎」≫

 

 〔傳〕二年、春、虢公敗犬戎于渭汭。
 犬戎、西戎別在中國者。渭水、出隴西、

 東入河。
 水之隈曲曰汭。
 ○汭、如銳反。隈、烏囘反。

 舟之僑曰、無德而祿、殃也。
 殃將至矣。
 遂奔晉。
 舟之僑、虢大夫。

 夏、吉禘于莊公。
 速也。

 初、公傅奪卜齮田。
 公不禁。
 卜齮、魯大夫也。
 公卽位。
 年八歲、知愛其傅、而遂成其意、以奪齮田。
 齮忿其傅、幷及公。
 故慶父因之。
 ○齮、魚綺反。

 秋、八月、辛丑、共仲使卜齮賊公于武闈。
 宮中小門、謂之闈。
 ○共、音恭。

 成季以僖公適邾。
 僖公、閔公庶兄。
 成風之子。

 共仲奔莒。
 乃入、立之。
 以賂求共仲于莒。
 莒人歸之。
 及密、使公子魚請。
 密、魯地。
 瑯邪費縣北有密如亭。
 公子魚、奚斯也。

 不許。
 哭而往。
 共仲曰、奚斯之聲也。
 乃縊。
 慶父之罪雖重、季子推親親之恩、
 欲同之叔牙、存孟氏之族。
 故略其罪不書殺、又不書卒。

 閔公、哀姜之娣叔姜之子也。
 故齊人立之。
 共仲通於哀姜。
 哀姜欲立之。
 閔公之死也、哀姜與知之。
 故孫于邾。
 齊人取而殺之于夷、以其尸歸。
 爲僖元年、齊人殺哀姜傳。
 夷、魯地。
 ○與、音預。孫、音遜。

 僖公請而葬之。
 哀姜之罪已重。
 而僖公請其喪還者、外欲固齊以居厚、
 内存母子不絕之義、爲國家之大計。

 【読み下し文】

 〔傳〕二年、春、

 虢公犬戎を渭汭[いぜい]に敗る。
 犬戎(けんじゅう)は、

 西戎の別に中國に在る者。
 渭水は、隴西に出でて、東して河に入る。
 水の隈曲を汭と曰う。
 ○汭は、如銳反。隈は、烏囘反。

 舟之僑曰く、德無くして祿あるは、
 殃[わざわい]なり。
 殃將に至らんとす、と。
 遂に晉に奔る。
 舟之僑は、虢の大夫。

 夏、莊公に吉禘す。速きなり。


 初め、公の傅卜齮[ぼくき]の田を奪う。
 公禁ぜず。
 卜齮は、魯の大夫なり。
 公位に卽く。
 年八歲にして、其の傅を愛することを知りて、
 遂に其の意を成さしめて、以て齮の田を奪う。
 齮其の傅を忿り、幷せて公に及ぶ。
 故に慶父之に因る。
 ○齮は、魚綺反。

 秋、八月、辛丑、共仲卜齮をして
 公を武闈[ぶい]に賊せしむ。
 宮中の小門、之を闈と謂う。
 ○共は、音恭。

 

 成季僖公を以[い]て邾に適く。
 僖公は、閔公の庶兄。
 成風の子。

 共仲莒に奔る。
 乃ち入りて、之を立つ。
 賂を以て共仲を莒に求む。
 莒人之を歸す。
 密に及ぶとき、公子魚をして請わしむ。
 密は、魯の地。
 瑯邪費縣の北に密如亭有り。
 公子魚は、奚斯なり。

 許さず。
 哭して往く。
 共仲曰く、奚斯の聲なり、と。
 乃ち縊る。
 慶父の罪重しと雖も、

 季子親親の恩を推して、
 之を叔牙に同じくして、
 孟氏の族を存せんと欲す。
 故に其の罪を略して殺を書さず、

 又卒を書さず。

 閔公は、哀姜の娣の叔姜の子なり。
 故に齊人之を立つ。共仲哀姜に通ず。
 哀姜之を立てんことを欲す。
 閔公の死するや、哀姜之を與り知れり。
 故に邾に孫る。
 齊人取[とら]えて之を夷に殺し、

 其の尸を以て歸る。 

 僖元年、齊人哀姜を殺す爲の傳なり。
 夷は、魯の地。
 ○與は、音預。孫は、音遜。

 僖公請いて之を葬れり。
 哀姜の罪已[はなは]だ重し。
 而るに僖公其の喪を請いて還すは、
 外齊を固くして以て厚に居り、
 内母子不絕の義を存して、
 國家の大計を爲さんことを欲してなり。

 【通釈】
 二年春に、

 虢公は犬戎を渭汭[いぜい]のくまで
 破った。
 虢の大夫の舟之僑は
 「人に君たるもの徳もないのに
  戦いに勝ったりして幸いを受けているのは、
  禍を受けるもとである。
  今に禍がふりかかるであろう」といって
 すぐ晋に出奔した。

 夏に、荘公を太祖の廟で合祭したのは、
 まだ三年の喪が終わらない時で、
 はやすぎたことをそしったものである。

 これよりさき、閔公のもり役が大夫の卜齮の
 田地を横取りしたが、
 閔公はそれをおさえなかった。

 秋八月辛丑の日(25日)に、
 共仲(慶父)の閔公をうらんでいた卜齮に
 いいつけて

 閔公を宮中の小門の所で殺させた。

 そこで成季は、閔公の庶兄にあたる僖公を
 つれて邾に逃げたが、

 共仲は莒に出奔したので、
 成季は魯に帰って僖公を立てた。

 財貨をつかって莒に対し

 共仲を引き渡すように
 要求したので、莒の人は共仲を魯に帰した。

 魯の蜜という所に来た時に、
 共仲は公子魚に命乞いをさせたが、
 僖公は許さなかった。

 そこで公子魚は泣き声をあげて 

 共仲のもとに行った。

 共仲はそれを聞いて
 「あれは奚斯(公子魚)の声である」と言って、
 首をくくって死んだ。

 閔公、哀姜の娣(妹)叔姜の生んだ子である。

 だから斎の人は

 共仲を立てようと考えていた。

 ところが閔公が殺されると、
 哀姜もそれに関係していたので、

 邾に逃げた。

 斎の人は哀姜をとらえて夷という所で殺し、
 そのなきがらを運んで斎に帰った。

 僖公は哀姜のなきがらを斎からもらい受け
 葬った。

 〇犬戒(けんじゅう)
  國の名。古代の蠻夷。
  一名、混夷・昆夷、
  また犬夷・畎夷・犬封とも称する。
  陜西省鳳翔縣の北。
  殷代には周の祖、西伯、
  周代には穆王・懿王等が
  屡々(しばしば)之を討伐したが、
  完全に征服出来ず。
  幽王が国政を怠るに及び、
  申候とともに幽王を
  驪山のふもとで攻め殺し、
  周は遂に鄷鄗を去って
  雒邑に都するに至った。
  そのまま涇水・渭水のあたりに
  住みついていた蛮族という。

 

 〇康居(こうきょ)

  漢魏時代の西域の國の名。

  トルコ族に属し、

  中央アジアのシル河流域から、

  キルギス広野を中心とし、

  東は烏孫、

  西は奄蔡、

  南は大月氏、

  東南は大宛國に接した。

  しかし、康居の名称は西晋時代から

  史上に見えず。

  唐書には

  康國を以てその後裔としている。

 

M.K記(責)

http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049209.html

連絡先:090-2485-7908

 

 

 

 

 

 

 

『ひねもす至福の時』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049175.html

『My ブログ』 http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049213.html

『生涯学習(History)』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049218.html

『歴史再生:目次』

https://ameblo.jp/matmkanehara/entry-12476266116.html

「神聖の系譜」出版協賛のお願い

https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4

 

サッカー☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪サッカー

 

小嶋秋彦

「歴史学講座『創世』」

補筆

金原政敏

<ヨーロッパ東方のユダヤ人(アシュケナージ)の来歴>

 

≪ヘブライ人とユダヤ人≫

<古代日本へ渡来した人々の系譜>

 


 令和の今日に至っても
 ヘブライ〔イスラエル〕人とユダヤ人を
 混同して考えられている。
 
 実際その来歴の背景を綿密に考察すると、
 両者を一致させてはいけないことが
 明白になってくる。

 ヘブライ人は紀元前数千年の経歴を持ち、
 メソポタミアの域内チグリス川沿いに
 祖地を持つ「供犠」セム族の子孫である。

 これに対し
 ユダヤ人は『旧約聖書』「創世記」に
 アシュケナージとの呼称が

 記されている人々で
 古い経歴を持つだろうことは知られる。
 

 ※参考:『旧約聖書』「創世記」
 第10章 ノアの子孫
 10:1 ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図は
     次のとおりである。
     洪水の後、彼らに子が生れた。 
 10:2 ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、

     マダイ、ヤワン、トバル、メセク、

       テラスであった。 

  10:3 ゴメルの子孫はアシケナズ、リパテ、
      トガルマ。 
 10:4 ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシ、
    キッテム、ドダニムであった。 
 10:5 これらから

    海沿いの地の国民が分れて、
    おのおのその土地におり、
    その言語にしたがい、
    その氏族にしたがって、
    その国々に住んだ。
 10:6 ハムの子孫はクシ、ミツライム、プテ、
    カナンであった。 
 10:7 クシの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、
    ラアマ、サブテカであり、
    ラアマの子孫はシバとデダンであった。  10:8 クシの子はニムロデであって、
    このニムロデは
    世の権力者となった最初の人である。
 10:9 彼は主の前に力ある狩猟者であった。
    これから
    「主の前に力ある狩猟者ニムロデの

     ごとし」 ということわざが起った。 
 10:10 彼の国は最初シナルの地にある

     バベル、エレク、アカデ、カルネ

     であった。 
 10:11 彼はその地からアッスリヤに出て、
     ニネベ、レホボテイリ、カラ、 
 10:12 およびニネベとカラとの間にある
         大いなる町レセンを建てた。 
  10:13 ミツライムからルデ族、アナミ族、
         レハビ族、ナフト族、 
  10:14 パテロス族、カスル族、カフトリ族が

     出た。
     カフトリ族からペリシテ族が出た。
 10:15 カナンからその長子シドンが出て、
     またヘテが出た。 
 10:16 その他エブスびと、アモリびと、
         ギルガシびと、 
  10:17 ヒビびと、アルキびと、セニびと、 
 10:18 アルワデびと、ゼマリびと、
         ハマテびとが出た。
     後になってカナンびとの

     氏族がひろがった。  

 10:19 カナンびとの境はシドンから

     ゲラルを経てガザに至り、

     ソドム、ゴモラ、アデマ、
     ゼボイムを経て、レシャに及んだ。 
 10:20 これらはハムの子孫であって、
     その氏族とその言語とにしたがって、
     その土地と、その国々にいた。
 10:21 セムにも子が生れた。
         セムはエベルのすべての子孫の

     先祖であって、ヤペテの兄であった。 
  10:22 セムの子孫はエラム、アシュル、
         アルパクサデ、ルデ、アラムであった。
  10:23 アラムの子孫はウヅ、ホル、ゲテル、
         マシであった。 
  10:24 アルパクサデの子はシラ、シラの子は
         エベルである。 
  10:25 エベルにふたりの子が生れた。
         そのひとりの名をペレグといった。
         これは彼の代に地の民が

     分れたからである。        

     その弟の名をヨクタンといった。 
  10:26 ヨクタンにアルモダデ、シャレフ、
         ハザルマウテ、エラ、 
  10:27 ハドラム、ウザル、デクラ、 
  10:28 オバル、アビマエル、シバ、 
  10:29 オフル、ハビラ、ヨバブが生れた。
         これらは皆ヨクタンの子であった。 
  10:30 彼らが住んだ所はメシャから
         東の山地セパルに及んだ。 
  10:31 これらはセムの子孫であって、
         その氏族とその言語とにしたがって、
         その土地と、その国々にいた。
  10:32 これらはノアの子らの氏族であって、
         血統にしたがって国々に

     住んでいたが、
         洪水の後、

          これらから地上の諸国民が

          分れたのである。※

 しかし、
 彼らは

 メソポタミアの外郭地帯を発祥の地とし、
 しかも、ヤペテの系列に加えられており、
 セム族とは違い供犠の人々ではない。

 とはいえ双方とも

 温帯型羊飼いに属している。

 ユダヤ人は

 メソポタミアの東の外れにいたために
 中国甘粛省辺りまで

 長い長い羊を追っての旅に出て、
 中国の史料に「犬戎」とか「康居」とかとなり、
 その周辺から中央アジアに跋扈していたが、
 漢族の隆盛に従い、

 カスピ海北岸まで遷って
 ハザール帝国を成立させた。

 そこで
 彼等はヘブライの宗教・天主教を国教として
 取入れ「ユダヤ人」となった。

 その後も
 彼等は不幸にも蒙古の襲来を受けて
 流浪の民として国を失ってしまう

 運命となった。

 課題:令和元年5月
  ヨーロッパ東方のユダヤ人
  〔アシュケナージ〕の来歴
  ―ローマ〔4世紀〕の

    地誌家プリウスのいう「セレス」―
 

 1.「創世記」〔旧約聖書〕の「アシュケナージ」
 2.中国の史料「春秋左氏伝」の「犬戎」
 3.漢書地理志の「涼州」〔甘粛州〕
 4.四川省の少数民族彝族・哈尼族の言葉
   〔和語=倭語〕
 5.「世本」のいう「黄帝」の後裔=西戎・北狄
 6.「史記」大宛列伝の「康居国」と
   大月氏国〔1世紀-5世紀〕
 7.タリム盆地〔新疆吾尓自治区〕の庫車と
   古代の亀玅〔クチャ、kizil〕
 8.トルコ語の「kizi」の語義
 9.カザフスタン国とウズベキスタン国に
   広がるKizil砂漠
 10.ハザール〔Khazal〕人とその帝国
   〔紀元5世紀-13世紀〕
 11.ハザール人の国の滅亡
 12.蒙古によって国を滅亡された
   バザール〔ユダヤ〕人は
   第二次世界大戦終了頃
   西欧・ロシア地域に合わせて
   300万人程度となっていた

 

 課題:令和元6月
   ハザール〔Khazal〕人の
   ユダヤ教への改宗〔紀元8世紀〕
   ―ユダヤ人〔ハザール人〕の信仰
     <タルムード>―

 1.旧東ドイツ国内の都市MarxStatと
   Gera及びSuhl地方
 2.ローマの地誌家プリウスのいう
   「セレス」の絹商人=〔紅毛碧眼の人〕
 3.和語〔倭語〕による「ハザール」の理解
  〔和語を知らなければ
   ハザールの古代は理解できない〕
 4.和語(あるいはシュメール語)による
   「アシュケナージ」の理解
 5.和語による
   「涼州」「犬戎、混夷」「康居」「亀玅」
   発音の理解
 6.ハザール人の

   ヘブライの宗教〔天主教〕への 
   国家的改宗と編纂
 7.和語によるドイツ語Scharlachの理解
 8.「アンネの日記」の作者
   「アンネ」名の和語による理解
 9.「シャーロック」名の和語による理解
 10.「イデシュ語」〔ユダヤ人の近代用語〕
 11.ハザール人の故郷は甘粛省・タリム盆地
 12.メソポタミア地方の羊飼い〔犬を使った〕
   たちは錫を求めて東方へ遠征した
 13.羊飼いの一部は甘粛省で放牧業を続け
   絹商人はとなり次第に西方に還った
 14.羊飼いの一部は四川省で彝族となり
   養蚕と稲作を生業とした
 15.ハザール人・
   紀元8世紀にいわゆる

   "ユダヤ教"に改宗した
 16.ハザール人の帝国は
   ジンギス汗の蒙古に圧迫された
 17.ヨーロッパへ移住したユダヤ教徒の
   ハザール人はカトリックなどの
   キリスト教徒から徹底的に差別された
 18.「ユダヤ」YHDY呼称の背景
  (1)ユダヤYHDの語義
  (2)ユダヤとヘブライの
    ユダ族〔YHDH〕とは関係ない
 19.ユダヤ人〔ハザール人〕の故郷は
   イスラエル〔地中海東岸〕ではない
  (1)シオニズム〔シオンへ帰ろう〕運動は
    故意の政治活動だった

 課題:令和元年7月
   近代ヨーロッパ東方(オーストリア)
   のユダヤ人〔アシュケナージ〕
   ―社会的抬頭と反ユダヤ主義―

 

 

M.K記(責)

http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049209.html

連絡先:090-2485-7908

 

『ひねもす至福の時』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049175.html

『My ブログ』 http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049213.html

『生涯学習(History)』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049218.html

『歴史再生:目次』

https://ameblo.jp/matmkanehara/entry-12476266116.html

「神聖の系譜」出版協賛のお願い

https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4

 

サッカー☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪サッカー

 

小嶋秋彦

「歴史学講座『創世』」

 

≪「山海経」の構成≫



   現本の『山海経』は全18巻であり、
   次のように大別される。

 (1).五蔵山経(巻一~巻五)、
 (2).海外四経(巻六~巻九)、
 (3).海内四経(巻十~巻十三)、
 (4).大荒海内経(巻十四~巻十八)。

   それぞれで内容も文体も異なり、
   同時期に

 同一人物の手で成立したものではない。

   このうち
   五蔵山経を「山経」、
   海外四経以下を「海経」と呼ぶ。

 (1).五蔵山経
   巻一 南山経

      (南山経・南次二経・南次三経)

     巻二 西山経

      (西山経・西次二経・西次三経・

       西次四経)

     巻三 北山経

       (北山経・北次二経・北次三経)

     巻四 東山経

      (東山経・東次二経・東次三経・

       東次四経)

    巻五 中山経

      (中山経・中次二経~中次十二経)

  (2).海外四経
   巻六 海外南経
   巻七 海外西経
   巻八 海外北経
     巻九 海外東経

  (3).海内四経
   巻十  海内南経
   巻十一 海内西経 
     巻十二 海内北経
   巻十三 海内東経

  (4).大荒海内経
    巻十四 大荒東経
    巻十五 大荒南経
     巻十六 大荒西経
   巻十七 大荒北経
   巻十八 海内経

  http://momohahamatmkanehara.blogspot.jp/2015/06/blog-post_26.html

  「山海経」  第九 海外東經
  海外自東南陬至東北陬者
  (長+差)丘 爰有遺玉 青馬 視肉 
  楊柳 甘柤 甘華 百果所生 在東海
  兩山夾丘 上有樹木 一曰嗟丘 
  一曰百果所在 在堯葬東
  大人國在其北 爲人大 坐而削船 
  一曰在(長+差)丘北
   奢比之尸在其北 獸身 人面 大耳 
  珥兩青蛇 一曰肝楡之尸在大人北
   君子國在其北 衣冠帶劍 食獸 
    使二大虎在旁 其人好讓不爭 有薰華草 
    朝生夕死 一曰在肝楡之尸北
   (工+虫)在其北 各有兩首 

  一曰在君子國北
   朝陽之谷 神曰天呉 是爲水伯 

  在北兩水閒
   其爲獸也 八首人面 八足八尾 皆青黄
   青丘國在其北 其狐四足九尾 

  一曰在朝陽北
   帝命豎亥歩 自東極至于西極 
  五億十選九千八百歩 豎亥右手把算 
    左手指青丘北 一曰禹令豎亥 
    一曰五億十萬九千八百歩
   黑齒國在其北 爲人黑 食稻啖蛇 

  一赤一青 
    在其旁 一曰 在豎亥北 爲人黑首 
    食稻使蛇 其一蛇赤
   下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 

  在黑齒北
   居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝
   雨師妾在其北 其爲人黑 兩手各操一蛇 
    左耳有青蛇 右耳有赤蛇 一曰在十日北 
    爲人黑身人面 各操一龜
   玄股之國在其北 其爲人衣魚食(鳥+區) 
    使兩鳥夾之 一曰在雨師妾北
   毛民之國在其北 爲人身生毛 

  一曰在玄股北
   勞民國在其北 其爲人黑 或曰敎民 
    一曰在毛民北 爲人面目手足盡黑
   東方句芒 鳥身人面 乘兩龍
   建平元年四月丙戌 待詔太常屬臣望 
    校治侍中光祿勳臣 

  侍中奉車都尉光祿大夫臣秀 
    領主省

    「山海経」 第十二 海内北經
  海內西北陬以東者。
  蛇巫之山,上有人操柸而東向立。

  一曰龜山。
   西王母梯几而戴勝杖,其南有三青鳥,
     為西王母取食。在昆侖虛北。
   有人曰大行伯,把戈。其東有犬封國。
     貳負之尸在大行伯東。
   犬封國曰犬戎國,狀如犬。

  有一女子,方跪進柸食。
     有文馬,縞身朱鬣,目若黃金,

  名曰吉量,乘之壽千歲。
   鬼國在貳負之尸北,為物人面而一目。
     一曰貳負神在其東,為物人面蛇身。
   蜪犬如犬,青,食人從首始。
   窮奇狀如虎,有翼,食人從首始,

  所食被髮,在蜪犬北。
     一曰從足。
   帝堯臺、帝嚳臺、帝丹朱臺、帝舜臺,
     各二臺,臺四方,在昆侖東北。
   大蜂其狀如螽。朱蛾其狀如蛾。
   蟜,其為人虎文,脛有綮。在窮奇東。
     一曰,狀如人。昆侖虛北所有。
   闒非,人面而獸身,青色。
   據比之尸,其為人折頸被髮,無一手。
   環狗,其為人獸首人身。

  一曰蝟狀如狗,黃色。
   〈礻末〉,其為物人身黑首從目。
   戎,其為人人首三角。
   林氏國有珍獸,大若虎,五采畢具,

  尾長于身,
     名曰騶吾,乘之日行千里。
   昆侖虛南所,有氾林方三百里。
   從極之淵深三百仞,維冰夷恆都焉。
     冰夷人面,乘兩龍。一曰忠極之淵。
   陽汙之山,河出其中;凌門之山,

  河出其中。
   王子夜之尸,兩手、兩股、胷、首、齒,

  皆斷異處。
   舜妻登比氏生宵明、燭光,處河大澤,
     二女之靈能照此所方百里。一曰登北氏。
   蓋國在鉅燕南,倭北。倭屬燕。
   朝鮮在列陽東,海北山南。列陽屬燕。
   列姑射在海河州中。
   射姑國在海中,屬列姑射,西南,山環之。
   大蟹在海中。
   陵魚人面,手足,魚身,在海中。
   大鯾居海中。
   明組邑居海中。
   蓬萊山在海中。
   大人之市在海中。

    「山海経」 第十四 大荒東經
  東海之外大壑 少昊之國 

  少昊孺帝于此 棄其琴瑟
  有甘山者 甘水出焉 生甘淵
  大荒東南隅有山 名皮母地丘
  東海之外 大荒之中 有山名曰大言 

  日月所出 有波谷山者
  有大人之國 有大人之市 名曰大人之堂

  有一大人其上 張其兩耳
  有小人國 名靖人 有神 人面獸身 

  名曰犁之尸 有山 楊水出焉
  有國 黍食 使四鳥 虎 豹 熊 羆
  大荒之中 有山名曰合虚 日月所出
  有中容之國 帝俊生中容 中容人食獸 

  木實 使四鳥 豹 虎 熊 羆
  有東口之山
  有君子之國 其人衣冠帶劍
  有司幽之國 帝俊生晏龍 晏龍生司幽 

  司幽生思士 不妻 思女 
  不夫 食黍 食獸 是使四鳥
  有大阿之山者
  大荒中有山名曰明星 日月所出
  有白民之國 帝俊生帝鴻 帝鴻生白民 

  白民銷姓 黍食 使四鳥 虎 豹 熊 羆
  有青丘之國 有狐 九尾
  有柔僕民 是維土之國
  有黑齒之國 帝俊生黑齒 姜姓 黍食 

  使四鳥
  有夏州之國
  有蓋余之國 有神人 八首人面 

  虎身十尾 名曰天呉
  大荒之中 有山名曰鞠陵于天 東極 

  離日月所出
  名曰折丹 東方曰折 來風曰俊 

  處東極以出入風
  東海之渚中有神 人面鳥身 珥兩黄蛇 

  踐兩黄蛇 名曰禺 
  黄帝生禺 禺生禺京 禺京處北海 

  禺處東海 是爲海神
  有招搖山 融水出焉
  有國曰玄股 黍食 使四鳥
  有困民國 勾姓□食 有人曰王亥 

  兩手操鳥 方食其頭 
  王亥託于有易 河伯僕牛 有易殺王亥 

  取僕牛 河念有易 
  有易潛出 爲國于獸 方食之
  名曰搖民 帝舜生戲 戲生搖民
  海内有兩人 名曰女丑 女丑有大蟹
  大荒之中 有山名曰搖羝 上有扶木 

  柱三百里 其葉如芥 
  有谷曰源谷 湯谷上有扶木 一日方至 

  一日方出 皆載于烏
  有神 人面 犬耳 獸身 珥兩青蛇 

  名曰奢比尸
  有五采之鳥 相棄沙 惟帝俊下友 

  帝下兩壇 采鳥是司
  大荒之中 有山名猗天蘇門 日月所生
  有民之國
  有山
  又有搖山
  有山
  又有門戸山
  又有盛山
  又有待山
  有五采之鳥
  東荒之中 有山名曰壑明俊疾 日月所出
  有中容之國
  東北海外 又有三青馬 三騅 甘華 

  爰有遺玉 三青鳥 三騅 
  視肉 甘華 甘柤 百穀所在
  有女和月母之國 有人名曰 北方曰 

  來之風曰 
  是處東極隅以止日月 使無相閒出沒 

  司其短長
  大荒東北隅中 有山名曰凶犁土丘 

  應龍處南極 殺蚩尤與夸父 
  不得復上 故下數旱 旱而爲應龍之状 

  乃得大雨
  東海中有流波山 入海七千里 其上有獸 

  状如牛 蒼身而無角 
  一足 出入水則必風雨 其光如日月 

  其聲如雷 其名曰 
  黄帝得之 以其皮爲鼓 以雷獸之骨 

  聲聞五百里 以威天下

 「山海経」 第十八 海內經
  東海之内,北海之隅,有國名曰朝鮮;
  天毒,其人水居,偎人愛之。
  西海之内,流沙之中,有國名曰壑市。
  西海之内,流沙之西,有國名曰氾葉。
  流沙之西,有鳥山者,三水出焉。
  爰有黄金、璿瑰、丹貨、銀鐵,皆流于此中。
  又有淮山,好水出焉。
  流沙之東,黑水之西,有朝雲之國、

  司彘之國。
  黄帝妻雷祖,生昌意。昌意降處若水,

  生韓流。
  韓流擢首、謹耳、人面、豕喙、麟身、

  渠股、豚止,
  取淖子曰阿女,生帝顓頊。
  流沙之東,黑水之閒,有山名不死之山。
  華山青水之東,有山名曰肇山。
  有人名曰柏子高,柏子高上下於此,

  至于天。
  西南黑水之閒,有都廣之野,后稷葬焉。
  其城方三百里,蓋天地之中,素女所出也。
  爰有膏菽、膏稻、膏黍、膏稷,百榖自生,

  冬夏播琴。
  鸞鳥自歌,鳯鳥自儛,靈壽實華,

  草木所聚。
  爰有百獸,相羣爰處。此草也,冬夏不死。
  南海之内,黑水青水之閒,
  有水名曰若木,若水出焉。
  有禺中之國。有列襄之國。
  有靈山,有赤蛇在木上,名曰蝡蛇,木食。
  有鹽長之國。有人焉鳥首,名曰鳥民。
  有九丘,以水絡之,名曰陶唐之丘、
  叔得之丘、孟盈之丘、昆吾之丘、
  黑白之丘、赤望之丘、參衛之丘、
  武夫之丘、神民之丘。
  有木,青葉紫莖,玄華黄實,名曰建木,

  百仭無枝,
  上有九欘,下有九枸,其實如麻,

  其葉如芒。
  大皥爰過,黄帝所為。
  有窫窳,龍首,是食人。

  有青獸,人面,名曰猩猩。
  西南有巴國。大皥生咸鳥,咸鳥生乘釐,
  乘釐生後照,後照是始為巴人。
  有國名曰流黄辛氏,其域中方三百里,

  其出是塵。
  有巴遂山,澠水出焉。
  又有朱卷之國。
  有黑蛇,青首,食象。
  南方有贑巨人,人面長脣,黑身有毛,

  反踵,
  見人則笑,唇蔽其目,因可逃也。
  又有黑人,虎首鳥足,兩手持蛇,方啗之。
  有羸民,鳥足,有封豕。
  有人曰苖民。
  有神焉,人首蛇身,長如轅,左右有首,
  衣紫衣,冠旃冠,
  名曰延維,人主得而饗食之,伯天下。
  有鸞鳥自歌,鳯鳥自儛。鳯鳥首文曰德,

  翼文曰順,
  膺文曰仁,背文曰義,見則天下和。
  又有青獸如莵,名曰𡹤狗。

  有翠鳥。有孔鳥。
  南海之内有衡山,有菌山,有桂山。
  有山名三天子之都。
  南方蒼梧之丘,蒼梧之淵,其中有九嶷山,
  舜之所葬,在長沙零陵界中。
  北海之内,有蛇山者,蛇水出焉,

  東入于海。
  有五彩之鳥,飛蔽一鄉,名曰翳鳥。
  又有不鉅之山,巧倕葬其西。
  北海之内,有反縛盗械,帶戈常倍之佐,
  名曰相顧之尸。
  伯夷父生西岳,西岳生先龍,
  先龍是始生氐羌,氐羌乞姓。
  北海之内,有山,名曰幽都之山,

  黑水出焉。
  其上有玄鳥、玄蛇、玄豹、玄虎、玄孤蓬尾。
  有大玄之山。
  有玄丘之民。有大幽之國。有赤脛之民。
  有釘靈之國,其民從䣛已下有毛,

  馬蹏善走。
  炎帝之孫伯陵,伯陵同吳權之妻阿女緣婦,
  緣婦孕三年,是生鼓、延、殳。
  殳始為侯,鼓、延是始為鍾,為樂風。
  黄帝生駱明,駱明生白馬,白馬是為鯀。
  帝俊生禺號,禺號生淫梁,淫梁生番禺,

  是始為舟。
  番禺生奚仲,奚仲生吉光,

  吉光是始以木為車。
  少皥生般,般是始為弓矢。
  帝俊賜羿彤弓素矰,以扶下國,
  羿是始去恤下地之百艱。
  帝俊生晏龍,晏龍是為琴瑟。
  帝俊有子八人,是始為歌舞。
  帝俊生三身,三身生義均,

  義均是始為巧倕,
  是始作下民百巧。
  后稷是播百榖。
  稷之孫曰叔均,始作牛耕。
  大比赤隂,是始為國。
  禹、鯀是始布土,均定九州。
  炎帝之妻,赤水之子聽訞生居,

  炎居生節竝,
  節竝生戲器,戲器生祝融,

  祝融降處於江水,生共工。
  共工生術器,術器首方顚,是復土穰,

  以處江水。
  共工生后土,后土生噎鳴,

  噎鳴生歳十有二。
  洪水滔天。
  鯀竊帝之息壤以堙洪水,不待帝命。
  帝令祝融殺鯀于羽郊。
  鯀復生禹。
  帝乃命禹卒布土以定九州。


 

M.K記(責)

http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049209.html

連絡先:090-2485-7908

 

 

『ひねもす至福の時』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049175.html

『My ブログ』 http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049213.html

『生涯学習(History)』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049218.html

『歴史再生:目次』

https://ameblo.jp/matmkanehara/entry-12476266116.html

「神聖の系譜」出版協賛のお願い

https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4

 

サッカー☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪サッカー

 

小嶋秋彦

「歴史学講座『創世』」

 

≪「山海経」 第十八 海內經≫


 東海之内,北海之隅,有國名曰朝鮮;
 天毒,其人水居,偎人愛之。

 西海之内,流沙之中,有國名曰壑市。

 西海之内,流沙之西,有國名曰氾葉。
 流沙之西,有鳥山者,三水出焉。
 爰有黄金、璿瑰、丹貨、銀鐵,皆流于此中。
 又有淮山,好水出焉。
 流沙之東,黑水之西,有朝雲之國、

 司彘之國。
 黄帝妻雷祖,生昌意。昌意降處若水,

 生韓流。
 韓流擢首、謹耳、人面、豕喙、麟身、

 渠股、豚止,
 取淖子曰阿女,生帝顓頊。
 流沙之東,黑水之閒,有山名不死之山。
 華山青水之東,有山名曰肇山。
 有人名曰柏子高,柏子高上下於此,至于天。
 西南黑水之閒,有都廣之野,后稷葬焉。
 其城方三百里,蓋天地之中,素女所出也。
 爰有膏菽、膏稻、膏黍、膏稷,

 百榖自生,冬夏播琴。
 鸞鳥自歌,鳯鳥自儛,靈壽實華,

 草木所聚。
 爰有百獸,相羣爰處。此草也,冬夏不死。
 南海之内,黑水青水之閒,
 有水名曰若木,若水出焉。
 有禺中之國。有列襄之國。
 有靈山,有赤蛇在木上,名曰蝡蛇,木食。
 有鹽長之國。有人焉鳥首,名曰鳥民。
 有九丘,以水絡之,名曰陶唐之丘、
 叔得之丘、孟盈之丘、昆吾之丘、
 黑白之丘、赤望之丘、參衛之丘、
 武夫之丘、神民之丘。
 有木,青葉紫莖,玄華黄實,名曰建木,

 百仭無枝,
 上有九欘,下有九枸,其實如麻,

 其葉如芒。
 大皥爰過,黄帝所為。
 有窫窳,龍首,是食人。有青獸,人面,

 名曰猩猩。
 西南有巴國。大皥生咸鳥,咸鳥生乘釐,
 乘釐生後照,後照是始為巴人。
 有國名曰流黄辛氏,其域中方三百里,

 其出是塵。
 有巴遂山,澠水出焉。
 又有朱卷之國。
 有黑蛇,青首,食象。
 南方有贑巨人,人面長脣,黑身有毛,

 反踵,
 見人則笑,唇蔽其目,因可逃也。
 又有黑人,虎首鳥足,兩手持蛇,方啗之。
 有羸民,鳥足,有封豕。
 有人曰苖民。
 有神焉,人首蛇身,長如轅,左右有首,
 衣紫衣,冠旃冠,
 名曰延維,人主得而饗食之,伯天下。
 有鸞鳥自歌,鳯鳥自儛。

 鳯鳥首文曰德,翼文曰順,
 膺文曰仁,背文曰義,見則天下和。
 又有青獸如莵,名曰𡹤狗。有翠鳥。

 有孔鳥。
 南海之内有衡山,有菌山,有桂山。
 有山名三天子之都。
 南方蒼梧之丘,蒼梧之淵,其中有九嶷山,
 舜之所葬,在長沙零陵界中。
 北海之内,有蛇山者,蛇水出焉,

 東入于海。
 有五彩之鳥,飛蔽一鄉,名曰翳鳥。
 又有不鉅之山,巧倕葬其西。
 北海之内,有反縛盗械,帶戈常倍之佐,
 名曰相顧之尸。
 伯夷父生西岳,西岳生先龍,
 先龍是始生氐羌,氐羌乞姓。
 北海之内,有山,名曰幽都之山,

 黑水出焉。
 其上有玄鳥、玄蛇、玄豹、玄虎、玄孤蓬尾。
 有大玄之山。
 有玄丘之民。有大幽之國。有赤脛之民。
 有釘靈之國,其民從䣛已下有毛,

 馬蹏善走。
 炎帝之孫伯陵,伯陵同吳權之妻阿女緣婦,
 緣婦孕三年,是生鼓、延、殳。
 殳始為侯,鼓、延是始為鍾,為樂風。
 黄帝生駱明,駱明生白馬,白馬是為鯀。
 帝俊生禺號,禺號生淫梁,淫梁生番禺,

 是始為舟。
 番禺生奚仲,奚仲生吉光,

 吉光是始以木為車。
 少皥生般,般是始為弓矢。
 帝俊賜羿彤弓素矰,以扶下國,
 羿是始去恤下地之百艱。
 帝俊生晏龍,晏龍是為琴瑟。
 帝俊有子八人,是始為歌舞。
 帝俊生三身,三身生義均,

 義均是始為巧倕,
 是始作下民百巧。
 后稷是播百榖。
 稷之孫曰叔均,始作牛耕。
 大比赤隂,是始為國。
 禹、鯀是始布土,均定九州。
 炎帝之妻,赤水之子聽訞生居,

 炎居生節竝,
 節竝生戲器,戲器生祝融,

 祝融降處於江水,生共工。
 共工生術器,術器首方顚,是復土穰,

 以處江水。
 共工生后土,后土生噎鳴,

 噎鳴生歳十有二。
 洪水滔天。
 鯀竊帝之息壤以堙洪水,不待帝命。
 帝令祝融殺鯀于羽郊。
 鯀復生禹。
 帝乃命禹卒布土以定九州。

 

 出典:山海經/海內經
http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%B5%B7%E7%B6%93/%E6%B5%B7%E5%85%A7%E7%B6%93

  「山海経」
https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%B5%B7%E7%B6%93
 


 

M.K記(責)

http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049209.html

連絡先:090-2485-7908

 

『ひねもす至福の時』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049175.html

『My ブログ』 http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049213.html

『生涯学習(History)』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049218.html

『歴史再生:目次』

https://ameblo.jp/matmkanehara/entry-12476266116.html

「神聖の系譜」出版協賛のお願い

https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4

 

サッカー☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪サッカー

 

小嶋秋彦

「歴史学講座『創世』」

 

≪山海経(せんがいきょう)≫


 魏書倭人伝には、
 その当時の韓半島から倭への行程や
 倭の国々の名称が記載されている。

 

 最初後漢の属領となった
 帯方郡から旅程が述べられる。

 帯方郡は
 現在のソウル市辺を中心とした地域である。

 (奴国)
 同国名は「漢委奴國王」と刻印された「金印」が
 志賀島の南側から江戸時代に見出されていることから、
 当該地が博多湾沿岸であったことが明らかである。

  「奴」は「ナ」と訓まれるが、
  これはインドの紀元前の用語
  サンスクリット語〔梵語〕の「船」を表わす
  nau 音写で、
  同地方に紀元前2、3世紀には
  インドに係わりのあった人々が
  渡来し定着していたことを示す。

  川の名称でもある「那珂」も 
  nauka の音写で船類を表わし、
  現在の福岡市の中心地から内陸かなりの地域まで、
  倭人伝が「二万戸」あるといっているように、
  この平野広くをその領域としていたものである。

  金印は紀元57年に後漢の光武帝から贈られた。
  「後漢書」巻一下、光武帝(建武中元)2年正月
  「東夷倭奴國王遣使奉獻。
   倭在帯方東南大海中、依山島爲國」
  と記録されているのに当たる。

  つまり前述したように「倭」が東夷である概念は
  ここにも踏襲されているのである。
   ところで、「奴」の祖語が
  サンスクリット語であると述べ、
  それが「梵語」と紹介したが、
  この用語は
  5、6世紀日本へシナ、韓半島を経て
  伝教された仏教の用語であるが、
  それは漢字によったものである。

  しかし当書が紹介しているサンスクリット語は
  それ以前よりずっと古く紀元前3世紀頃には
  韓半島及び倭の地へもたらされていたばかりでなく
  インド方面の人々が
  渡来定着していたとするのである。
  その証拠がシナの紀元前2世紀頃の
  地理書である「山海経」にある。

 ※海内經第十八
  東海之内,北海之,有國名曰朝鮮、
   天毒,其人水居,偶人愛人。
  西海之内,流沙之中,有國名曰壑市。
  西海之内,流沙之西,有園名曰沮葉。
  流沙之西,有烏山者,三水出馬。
  爰有黄金、璿瑰、丹貨、銀臓,皆流于此中。
  又有准山,好水出鴛。
  流沙之東,黒水之西,朝雲有之國、可彘之國。
  黄帝妻雷祖,生唱意,昌意降處若水,生韓流。
  韓流擢首、謹首、人面、豕喙、麟身、渠股、
  豚止,取淖子曰阿女,生帝顓頊。
  〔山海経逐次牽引による〕

  その第十八「海内経」の冒頭に
  「東海之内、北海之隅、有國名曰朝鮮、
   天毒、其人水居、偎人愛人。」
  とあるのがそれである。

  意訳すれば、
   「シナ大陸からみて東方の海のうち、
   北方の隅に国がある。
   その国の名は朝鮮、天毒という。
   そこの人は水上を住居として、
   倭人とインド人が住んでいる」となる。

  現在においてすぐ理解できる国名は「朝鮮」である。
  次の「天毒」とは何処かであるが、
  晋時代の研究家郭璞は「天毒國即天竺國」としており、
  「天竺」、また
  三蔵法師によって後代表記された「身毒」、
  いわゆる「インド」のこととしている。

  その当該地はあの南アジアの
  「インド大陸」を指しているのだろうか。
  そうではない。
  上記に役々原書の通り記した
  句読点の付け方から理解すると
  「朝鮮」に並んで「天毒(インド)」が」
  あるとの内容になる。

  文章の区切りは「,」印で、
  朝鮮と天毒の間に付されている
  「、」印は並列を表わしている。

  つまり朝鮮と接するようにして
  「天毒(インド)」があるということになる。

  これを考察すれば、紀元前においては
  朝鮮は未だ韓半島の北部であるから、
  韓半島南部辺りに
  「インド人の国」があったとなるし、
  「其人水居」とあることを加味すると、
  海の向うに居たともなる。

  本実は「水上で生活をしている」との意義で、
  これは「アズミ[阿曇]族」が相当である。

  アズミ族は紀元前のかなり古い時代から
  メソポタミア・インドを祖地として
  木造帆船でアラビア海、
  インド洋から極東の太平洋へ
  その交易網を広げた海洋族である。

  インド亜大陸へ牛飼いのアーリア人が、
  北方ヒンズークシ山脈を越えて侵入してきた
  紀元前1500年頃よりも早く
  同大陸の西方に勢力を拡げていた文明人である。

   アズミ族は遠く海洋を航海するいわゆる、
  海上、つまり船上を住み家とする人々であった。

  船が家なのである「アズミ」の祖語は 
  es-ma で語義は「屋船」である。

  この「船[ma]」が奴国の
  「奴[nau](船)」と合致する。

  このことから奴国は那珂ばかりでなく
  博多湾を取り囲む地域に
  広がっていたことが判明してくる。

  同湾の西方面は今津湾と称されるが、
  この「今:イマ」も e の音写で、
   e は es と同義の「家」を表わすのでやはり、
  「家(屋)-船」となり
  「アズミ es-ma 」と同義、
  また福岡市西区の湾岸の地域名「姪浜」の
  「メイ」も ma-e で「イマ e-ma 」を
  転倒させただけで「船-家」である。

  このように奴国の地域は
  博多湾の周囲で阿曇族が支配していたのである。

  倭人伝には「有二萬餘戸」とあり、
  倭人伝が記す国の中では戸数が多く、
  博多湾岸広くがその領域だったことを示している。

  倭人伝は続いて「東行至不彌國百里~有千餘家」とある。

 ※魏書倭人伝による倭国の諸国地理

 帯方郡―――――狗邪韓国―――――対馬:千余戸
    (水行七千里)    (渡海千里)

 対馬―――――一大(壱岐):一支、三千許家
   (渡海千里)

 一大(壱岐)―――――末盧(松浦)
      (渡海千里)

 末盧(松浦)――――――――伊都国(糸島):千余戸
      (陸行東南五百里)
 
 伊都国(糸島)―――――奴国:福岡市博多湾、二万余戸
       (東南百里)

 奴国―――→不弥(福間:花見)有弥の里:千余戸
   (東百里)

 不弥―南水行二十日―陸行十日―各国・邪馬台国(大牟田市)七万余戸

  (つまり奴国に至ることを意味する)

 不弥―南水行二十日―投馬国―水行一月―各国・邪馬台国

  ※投馬国:五万余戸(宮崎平野)南水行十日、陸行一月

  (つまり奴国に至ることを意味する)


 

M.K記(責)

http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049209.html

連絡先:090-2485-7908

 

『ひねもす至福の時』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049175.html

『My ブログ』 http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049213.html

『生涯学習(History)』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049218.html

『歴史再生:目次』

https://ameblo.jp/matmkanehara/entry-12476266116.html

「神聖の系譜」出版協賛のお願い

https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4

 

サッカー☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪サッカー

 

小嶋秋彦

「歴史学講座『創世』」

 

≪アズミ族の正体:エリュトゥラー海案内記≫

 


 「エリュトゥラー海案内記」 

PERIPLUS MARIS ERYTHRAEI

  https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%A1%88%E5%86%85%E8%A8%98-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%91%E5%B7%9D-%E5%A0%85%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4122055040
 出典:「エリュトゥラー海案内記」
     PERIPLUS MARIS ERYTHRAEI
     村川堅太郎訳註:中公文庫

 紀元1世紀なかば、
 エジプト生まれの無名の商人が誌した
 ギリシア語の文献、
 「エリュトゥラー海案内記」は、
 古代南海貿易の実態を
 生き生きと伝える貴重な資料である。

 季節風に帆をあげ、

 みずから紅海、インド洋に
 乗り出した体験にもとづく記事は

 詳細にわたり、
 きわめて精彩に富む。

 

 ヨーロッパ古代史の碩学が、
 六十六節からなる小冊子を
 平明達意の日本語に訳出し、
 周到厳密な解説と訳注を付す。

 「地図」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Silkroutes.jpg

 「エリュトゥラー海案内記」124・125頁
 第三十七節
 オマナ地方の次には同じく、
 別の王国に属する
 パルシダイの地方と
 いわゆるテラブドーンの湾が横たわり、
 その真中に当たって(岬が)突出している。

 そしてこの湾には一つの河があり
 船を入れることが出来、
 河口にはオーラテアと呼ばれる

 小さな商業地があり、
 また河の背後には
 海から七日の道程離れた内地の市があり、
 其処にはまた王宮もあって、
 (ラムバキア)と呼ばれる。

 この地方は
 多量の麦と葡萄酒と米と棗耶子とを産するが
 海岸地方にはブデルラ以外には何も産しない。

 第三十八節
 この地方の後ろには

 湾が深く入り込んでいるために
 今や海岸が東から海中に突出しているが、
 真北に横たわる

 スキュティアーの沿海部分が続き、
 実に低平の地方で、
 其処からシントス河が(海に注ぐ。)

 これはエリュトゥラー海の河の中でも大きく
 かつ極めて多量の水を海中に注ぐので遠くまで、
 そして人が陸地に近づくより前に、
 この河からの清い水がやって来るのである。

 大海から来た者にとって
 この河の辺に近づいた証(しるし)は
 海の深みから現れて来る舵である。

 ちょうど上述の地方やペルシス地方では
 グラアイと呼ばれる舵が証であるように。

 この河には七つの河口があるが、
 これらはささやかで沼地風であり、
 臨海の商業地バルバリコンのある
 真中の河口を除いては
 他は航行が出来ない。

 この(河口の)前面には小さな島があり、
 背後の内地には
 スキュティアの主都ミンナガルがある。

 バルティアー人の王により支配されているが、
 彼らは絶えず互いに追い出し合っている。

 乳香とガラス器と銀器と貨幣、
 それから少量の葡萄酒である。

 これと入れかわりに船に積み込まれるものは
 コストス、ブデルラ、リュキオン、ナルドスと
 カルレアノス石と
 サッペイロスとセーレスの毛皮と綿布と生糸と
 黒色インディゴである。

 航海者はインドの(季節風)に乗って―略―

 

 「エリュトゥラー海案内記」218・219頁


 「リュキオン」
  この名前は小アジアの Lycia の産を想わせる。

 Plinius N.H.XXIV 77 § 125 には一種の潅木で
 その枝や根から煎じた液汁は
 薬品として広く用いられ、
 インド産のものはリュキアのよりも
 上等であると誌されており、
 XXV 30 § 67 ではリュキア産のが 
 Centaurium という植物から
 出来る旨を述べている。

 

 Watt p. 130 によるとインド産のは
 ヒマラヤ山の六千~一万フィートの
 高処などに自生する Berberis Linn. 
 という植物で現在でも根や幹から黄色染料や、
 特に眼病の薬がとられる。

 「ナルドス」
 英名 nard. 
 西パンシァブ、シンド、ベルチスタン、ペルシア
 に産するCymbopogon Schoenanthus の
 主として根から採った香料。

 Plinius N.H.XXII 26 § 42 sq. 
 に香油中に主要な位置を占め、
 その穂は一ポンド百デーナーリウス、
 薬は四十~七十五デーナーリウスで、
 インドのほかシリア、ガルリア、クレータ島にも
 産したと伝えている。

 ペルシアの方面のものについては
 アルリアーヌスの
 アレクサンドゥロス遠征史(VI 22. 5)に
 大王の西帰の途上ゲドゥロシアーの荒野に
 これが多く自生し、
 従軍せるフェニキア商人がその根を採集してこと、
 また軍隊により踏みつけられた木は
 四辺に芳香を放った旨が誌されている。

 なお Nardos とも呼ばれる香料は 
 Cymbopogon jwarrancusa という
 前者より南方に生ずる草からも採れたし、
 Spikenard という草からも採られた。

 それで本節の他(四八)、(五六)、(六三)に
 インドの諸港から色々の名のついた
 ナルドスが輸出されると見えている。

 (四八)の註(4)及び Watt p. 461-462 を看よ。

 「カルレアノス石」
 Skr. Kalyana 「祝福された」の音訳 (Bloch)。

 Plinius N.H. XXXVII 33 § 110 以下の 
 Callaina(一本Callais)に同じ。

 これは同書によると薄緑色で中央アジアに産し、
 優良品はカルマニアから出た。

 Lassen IIIS. 14 はこれをバクトゥリア方面から
 インドに来たトルコ玉とみており、
 Schoff も Turquoise と訳している。

 氏によればこれの産地は Khorassan 地方で、
 此処からカブールの谷を通ってインダス河口に至り
 輸出されたのは自然である。

 「サッペイロス」
 これは今日インドに産するサファイアではない。

 Plinius N.H. XXXVII 39 § 120 
 に見える Sapphiri もやはり
 「空色で最良のものはメディア産であるが
  いずれも透明ではなく、
  また結晶の部分を含んで彫刻には役立たぬ」
 とあり、
 サファイアではない。

 今日のサファイアは
 南インドとセイロン島(スリランカ)の産で
 態々(わざわざ)北インドのバルバリコンから
 輸出されるのは不自然であり、
 本書のもプリーニウスのもともに装飾材として
 また青色塗料として古くから用いられた
  Lapis Lazuli と考えられる。

 その産地は中央アジアの Bokhara 地方で、
 カルレアノス石と同じ経路で
 バルバリコンから輸出されたわけである。

 「エリュトゥラー海案内記」219・220頁

 「セーレスの毛皮]
 古代に於ける東西貿易の東端の国として、
 また絹の生産者として
 地中海方面に朧げながら広く知られていた
 Seres の名は本書では此処ではじめて出た。

 Setarabo XV c.702 に理想国風に誌されて以来
 Ptolem. VI 16 のやや詳細な記述に至るまで
 Seres の名は
 他の古典にもしばしばその名が見えるが
 (註(10:生糸)参照)、
 それがどの地方の住民であり、
 silk, soie,Seide の語の語源をなす
  Seres の名が何を写したかについては

 

 山下寅次氏が
 史学雑誌十七編四、五、六、八、十、十一号、
 十八編一、三、四号で
 「セレス、セリカに就きての考」の題の下に
 極めて詳細な研究を発表し、
 欧人の見解を批判しておられる。

 氏によれば「セレスの地方」たる 
 Serica について最も詳細に記している
 プトレマイオスに於いて、
 その指すところは大体葱嶺(パミール)より東、
 シナ西北部に及び
 北は天山蒙古地方から
 シナ、トルキスタン、チベットを含み
 ヒマラヤ山脈に及んだ
 (十七編四六四頁、同巻十号附図参照)
 Seres,Serica の名がシナの西辺で
 絹の売買を仲介せる
 アルタイ語族の人々の
 絹を呼んだ語に由来することは

 今日定説である。 

 絹は蒙古語で Sirge と呼ばれる。

 此処に見える「セーレスの毛皮」については
 Plinius N.H.XXXIV 41 § 145 で
 「あらゆる種類の鉄の中
  セーレスのそれが最も優秀であり、
  彼らはこれをその衣服に(絹布)と
  毛皮とともに送る」と延べ、
 またPlinius N.H.XXXVII 78 § 204 では
 「あらゆる皮のうち最も高価なのは
  セーレスの染めたものである」と
 記していることを想い合わすべく、
 Vincent や Muller のように
 本書の記事を疑うべきではなかろう。

 中央アジア方面の毛皮が

 カブールを経て齎されたものらしい
 (cf.Warmington p.157-158)。

 但しプリーニウスに於ける

 「セーレスの鉄」は
 

 Schoff p.209 により
 実は南インドの Chera 国の

 鉄の意味ではないかとの
 疑いが提出されている。

 蓋し ch の音と s の音が 

 Ceylon の言葉では
 入れ替わっている場合があり、
 本書(六)にもインドの鉄のことが

 見えるからである。

 「エリュトゥラー海案内記」221・222頁・注釈
 「生糸」
 ローマ帝政期を通じてローマ人に甚だ珍重せられ、
 時には同じ重みの金と値を均しゅうすると言われた
 (Script Hist. Aug. Aurelianus 45)
 シナの絹が古代東西貿易の
 最重要商品だったことは言うまでもない。

 このことは序説四四頁に引いた
 後漢書の記事でも明らかである。

 絹は絹布の他にも生糸の形で送られたが、
 真綿の形でも送られたことは
 (六四)の記事が示している。

 ところで山繭(天蚕)から絹布を織ることは
 地中海方面でも行われていたが
 (Plinius N.H.XI 25 § 75 sq.)、
 シナの養蚕業のことは古代の地中海方面には
 殆ど知られていなかったらしい。

 Stabo.XV.c.694 所引 Nearchos によると
 絹は亜麻の表皮を梳って出来ると考えたらしい。

 Vergilius Ceorg. II 121 には
 「Seres が繊細な羊皮を樹の葉から梳る」
 旨誌されており、
 綿のように生糸も直接に樹から採られ
 植物性の繊維であるとの
 考えが支配的だったようである。

 Plinius N.H.VI 20 § 54 も Seres を
 「森の羊毛で有名な」と形容しており
  (cf.XII 21 § 38)、
 四世紀の 
 Ammianus Marcellinus XXXIII 6 § 67 sq.
  に於いても
 Seres の国土が理想国風に描かれ、
 その輝かしい森林から羊毛のごときものを産し、
 それを梳って絹織物が出来る旨伝えている。

 ただ二世紀の
 パウサニアースは Seres の土地には関しては
 「エリュトゥラー海の
  最奥部に横たわる Serica の島」
 程度のことしか知らなかったが、
 絹については俗説を訂正して
 次のように記している(VI 26 § 7-9)

 「セーレスが衣を造る糸は

  樹皮から出来るのではなく
  次のような別の方法で造られる。
  彼らの土地にはヘルレーネスが 
  ser と呼ぶ虫があり、
  セーレス自身はこれを ser と呼ばず
  別の名で呼んでいる。
  その大きさは甲虫の最も大きなものの二倍で、
  その他の点では
  樹下に巣を織りなす蜘蛛に似ており、
  実際足の数も蜘蛛と同様に八つである。

  セーレスは
  寒暑の気候に適した家を造ってこの動物を養う。
  この動物の造るものは繊細な糸で、
  その足に巻きついている。

  彼らはこの虫に稯を食わせて

  四年に亘り飼育し、五年目になると
  最早その生存出来ぬのを知っているので
  緑色の蘆を与える。

  これはこの虫の最も好む食物なので
  蘆に満腹して虫は破裂し、
  死んだ虫の体内に
  沢山の糸が見出されるのである」と。

 養蚕業に関する正確な知識が
 地中海方面に伝わらなかったのは
 絹貿易路の仲介商人が己の利益のために
 殊更にこれを秘密にしたことが与っているであろう。

 六世紀に至り東ローマのユスティニアーヌス帝の時、
 遂に蚕卵がコンスタンティノーブルに齎されて
 養蚕業の起こったことは普く人の知るところである。

 「黒色インディゴ」
 熱帯、亜熱帯地方に産する
  Leguminosae 風の Indigofera 
 から出来た染料。

 その植物は三百種を含み、
 インドのみでも四十種を産する。

 Plinius N.H.XXXV 25 § 43 以下に詳しい。

 「インドの産で外見は黒色であるが水に溶くと
  紫色と青色の不思議な混合色を呈する……
  その値は一ポンドに十デーナーリウス。
  薬用として瘧(おこり)と発作を鎮め、
  潰瘍を乾かす」と見える。

 今日の生産については Watt p. 660 以下に
 極めて詳細な説明がある。

 「インドの季節風」
 (五七)詳し。

 「エリュトゥラー海案内記」142・143頁
 「第六十四節」
  この地方の後ろに既に全く北に当たって
  ある場処へと外海が尽きると、
  其処には
  ティーナイと呼ばれる内陸の大きな都があり、
  此処からセーレスの羊毛と糸と織物が
  バリュガサへとバクトゥラを通じて陸路で運ばれ、
  またリミュリケーへとガンゲース河を通じて運ばれる。
  このティスの地方へは
  容易には到達することが出来ない。
  というのは此処からは
  稀に僅かの人たちが来るに過ぎないから。
  其処は小熊星の直下に位し、
  ポントスとカスピアー海との
  最も遠隔の部分に境を接するといわれる。
  カスピアー海の傍らにはマイオーティス湖が横たわり
  大洋(オーケアノス)に注いでいる。

 「第六十五節」
  毎年ティスの境には体が矮小で顔幅が恐ろしく広く、
  ……の一種族がやって来る。
  (噂によると)彼らはベーサタイと呼ばれ、
  未開人に殆ど同じだそうである。
  彼らは女や子供を伴い、
  大きな荷物即ち葡萄の若葉を容れた
  籠に似たものを運んでやって来て、
  それから
  彼らとティスの人々との境界の或る処に留まり、
  籠を敷き延べてその上で

  数日間お祭り騒ぎをした後
  もっと奥地の自分の故郷へと出発する。
  人々はそれを見張っていて
  この時其処にやって来て彼らの下敷きを集め、
  ペトゥロイと呼ばれる蘆の葉肋を引き抜き
  (ベーサタイの持ってきた)葉を薄く重ねて丸くして
  蘆の葉肋で指し通す。

  これに三種があり、
  大型の葉からは大丸(おおまる)
  マラバトゥロンと呼ばれるものが、
  これより劣った葉からは中丸(ちゅうまる)が、
  更に小さな葉からは小丸(しょうまる)が出来る。
  そこで三種のマラバトゥロンが出来、
  そしてこれを造る人達によってインドに運ばれる。

 「第六十六節」
  これらの場処の後の地方は或いは

  激しい暴風や非常の寒気のために近づき難く
  或いはまた
  神々の神秘な力のゆえに踏査不可能である。

 「エリュトゥラー海案内記」
 223・274・275頁・注釈
 「第四十節」
 「エイリノン」
  Eirinon 今日の Cutch 島の北及び
  東側の広大な荒地(Rann of Cutch)。
  乾燥季には海水面より、一、二尺上であるが、
  雨季には三尺位の水溜りとなる。
  Eirinon の名は Rann,Rinn とともに梵語で
  「潟」を意味する irina から来ている。
  …略…

 「第六十三節」
  …略…

 

 「真珠」
  ガンジス河産の真珠は形が小さく、
  不整形でかつ赤味を帯び優秀ではない。

 「ガンゲース織」
  ベンガル産の木綿織で、
  インドでは西北部でも優秀な木綿が出来たが、
  作者の説くように
  この地方のが古来特に優秀であった。
  今日ではその中心は
  ブラマプトラ河の河口近くの Dacca で、
  Watt p. 617 によれば
  この地方で手工業的に

  紡がれた綿糸は優秀であり、
  最新の紡績機械を使用する欧米人も
  これから学ぶべきものがあると言う。

 「金坑」
  この地方には顕著な金山はない。
  出来るのは砂金で 
  Calcutta:現在コルカタ)の西に当たる
  Chota Nagpur の高原の西部を流れて
  ガンジス河に合する
  今日の Son 河やその他、
  この高原を流れる諸河は古来砂金を産した。
  その他チベットやビルマ境の 
  Assam からも砂金が出た。
  この砂金について Herodotus III 102 sq. 
  をはじめ多くの古典に伝えられた
  蟻を利用しての砂金採集の説話が生まれたらしい。
  但し
  MaCrindle, Ancient India as described 
  by Megasthenes and Arrian. 
  Reprint 1926 p. 95 note
  参照。

 今日インドには
 諸処に金を産するが産出量は僅少であるり、
 上述の Chota Nagpur 地方も
 地質調査の結果有望でないとされている。
 (Watt p. 565 sq.)。

 「カルティス」
  この名の起源については
  色々の推定が行われているが、
  いまだ充分首背せしめるものはないようである。
  音声の上からは梵語 Kalita 
  (「算えられた」の義)が最も近いようである。

 「クリューセー」
  Chryse 「黄金(島)」の義であるが、
  これは作者の誤解で、
  当然島ではなく半島とあるべきところである。
  即ち今日のマレイ半島であるが、
  Plinius N.H.VI 20 § 55 では
  Seres に関する漠たる記述の中に
  彼らの土地に Chryse と呼ばれる
  半島のあることを誌している。
 Cf. VI 23 § 80。
  二世紀のプトレマイオスになると
  この半島に関しては
  更に明確な記述が見出される。

  即ち VII 2, 25 の黄金半島の条に
  Balonka, Kokkonagara, Tharrha, Palanda の
  四市を置いている。
  なお I 13-14 参照。
  彼の利用した Tyrus の Marinus 書には
  マレイ半島の彼方まで航海した
  Alexandros という水夫の報告が
  採用されていたのである
  (Ptolem. 114)。
 詳しくは Warmington p. 126-127 参照。

 黄金半島と呼ばれたのは Schoff によれば
 単に東の果てに商人らの理想国を
 置いたというものではなくて、
 現に Pahang 州に古代大金坑の跡が
 発見されているところから推すと
 事実この頃から盛んに金を出したためであるという。

 「第六十四節」
 「ティーナイ」Thinai 
  Frisk は写本のまま Thina としているが 
  Ptolem. VII 3,6 には
  Sinai (民族名) の
  「首都 Sinai 或いは Thinai 銅の城壁も、
   その他特記すべきもの…略…」


 

M.K記(責)

http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049209.html

連絡先:090-2485-7908

 

 

 

 

 

『ひねもす至福の時』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049175.html

『My ブログ』 http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049213.html

『生涯学習(History)』http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049218.html

『歴史再生:目次』

https://ameblo.jp/matmkanehara/entry-12476266116.html

「神聖の系譜」出版協賛のお願い

https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-14-4

 

サッカー☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪サッカー

 

小嶋秋彦

「歴史学講座『創世』」

 

≪アズミ族の正体:インド神話伝説≫

 


 「インド神話伝説」:ヤージャYaja~ヤドゥyadu
 出典:「インド神話伝説事典」:322・323頁
   :菅沼 晃
   :東京堂出版

 ヤージャ Yaja  高潔さで知られるバラモン。
  パンチャーラのドルパダ王の懇願によって、
  雌牛一○○○万頭を供え、
  祭祀を行なった結果、
  その祭火の中から
  ドリシュタディユムナとドラウパディーが
  生れ出たといわれる。

 ヤジュニャ Yajna  「犠牡」「祭祀」の意で、
  プラーナでは人格化されてルチの子、
  ダクシナー(「供物」の意)の夫とされる。

  彼は鹿の頭をもっていて、
  ダクンヤの祭祀のときに
  ヴィーラバドラによって殺された。

  『ハリ-ヴアンシャ』によれば、
  彼はブラフマー神によって天空に昇り、
 ムリガンラス(鹿の頭)と呼ばれる星座となったという。

 

 ヤージュニャヴァルキヤ Yajinavalkya
  ウパニシヤッドの哲学者として知られる聖仙で、
  『ヤジュルヴェーダ』、
  『 シャタパタ・ブラーフマナ]、
  『 ブリハドアーラニヤカ]、
  『ヤージュニャヴァルキヤ法典』 の伝説上の著者。
  『シャタパタ・ブラーフマナ]によれば、
  彼はヴィデーハ王ジャナカの宮廷で
  しばしば催された
  哲学上の討論会で多くの論敵を破った。

  ヴィダグダ・シャーカリヤという名のバラモンが
  とくに彼の論敵として有力であったが、
  ヤージュニャヴァルキヤは
  ついに彼を論破して呪いをかけ、
  その結果、
  ヴィダグダ・シャーカリヤの首は落とされ、
  その骨は盗人に持ち去られたという。

  彼には
  マイトレーイーと力ーティヤーヤニーという
  二人の妻があり、
  ブラフマ・ヴァーディニー
  (哲学を論ずる女性)といわれる
  マイトレーイーにアートマンの
  教えを説いた話が知られている
  (『 ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド』 一・四)。

 ヤジュニャセー Yajnasena
  パンチャーラの王ドルパダの別名。
 ヤショーダー Yasoda
  牧人ナンダの妻て、クリシュナの養い親。→クリシュナ
 ヤースカ Yaska 
  ヴェーダの難解な言葉についての
  註釈書「ニルクタ]の著者。
 ヤーダヴァ Yadava
  「ヤドゥの子孫」の意で、
  ヤドゥを祖とする部族名、その王朝、王国名。
  クリシユナはこの部族の出身である。

  ヤドゥの系譜はアトリから始まり、
  チャンドラ、ブダ、プルーラヴァス、アーユス、
  ナフシヤと続き、
  ナフシャにはアーヤティとヤヤーティという
  二人息子があった。

  ヤヤーティには
  二人の妻サルミシュターとデーヴァヤーニーがあり、
  シャルミンユターとのあいだに
  ドルヒユ、アヌドルヒユ、プールという
  三人の男子をもうけた。

  このうち、
  プールからプール・ヴァンシャ(プールの系統)が
  始まる。

  ヤヤーティはデーヴァヤーニーとのあいだにも
  二人の息子ヤドゥとトゥルヴアンユをもうけ、
  このうちの
  ヤドゥからヤドゥ・ヴァンシャ(ヤドゥの系統)
  すなわち、ヤーダヴァ(ヤドゥの子孫)が始まる。

  ヤドゥには四人の息子
  サハスラジット、クローシュトリ、ナラ、リプがあり、
  サハスラジットの子シャタジットには
  三人の子
  マハーバヤ、ヴェーヌハヤ、へーハヤがあり、
  このうちへーハヤはへーハヤ・
  ヴァンシヤ(へーハヤの系統)となる。

  彼の子ダルマにはクンティ(あるいはクニ)
  という息子があり、
  クンティはサダージット、マーヒシュマット、
  バドラセーナ、ドゥルダマという四人の子を持った。

  このうち、バドラセーナにダナカが生れ、
  ダナカにはクリタヴィーリヤ、
  クリターグニ、クリタヴァルマン、
  クリタウジャスがあり、
  このうち長子のクリタヴィーリヤから
  カールタヴィーリヤールジュナが生れた。

  彼には五人の息子、
  ジャヤドヴァジャ、シューラセーナ、
  ヴリンヤバ、マドゥ、ウールッジタがあり、
  このうちのマドウの子としてヴリシュニが生れ、
  ここよリヤドゥの系統は
  ヴリシュニ・ヴァンシャ(ヴリシュニの系統)となる。

  ヴリシュニには四人の子があったが、
  ヤドゥの系統はそのうちのユダージットへと続き、
  そのンニからサティヤカが生れ、
  サティヤカからサーティヤキが、
  さらにジャヤ、クニ、アナミトラ、プリシュニ、
  チトララタ、ヴィドゥーラタ、
  シューラ、シニ、ボージャ、フリディーカ、シューラと
  続き、
  このシューラとその妻マーリーシャーとのあいだに
  ヴァス、デーヴァバーガ、デーヴァシュラヴァス、
  アーナカ、
  スリンジャヤ、カーカーニーカ、シュヤーマカ、
  ウァツア、
  カヴーカ、ヴァスデーヴァが生れた。

  このヴァスデーヴァとカンサの妹であるその妻
  デーヴァキーとのあいだに生れたのが
  クリシュナてある。

  クリシュナよリプラディユムナ、
  アニルッダ、ヴァジュラと続いて
  ヤーダヴァの系譜は終わる。

  バラタ族の戦争ののち、
  三六年目にヤーダヴァ族は滅亡した。

 ヤートウ Yatu  あるいはヤートゥダーナ。
  悪魔、あるいは邪悪な精霊で、
  犬やハゲ鷹などの姿をとって
  人間にを与えるといわれる。

  ヤートゥはラークシャサ(羅利)と
  別のものであったが、
  叙事詩やプラーナでは両者は
  同一のものとして扱われている。

  『ヴァーユ・プラーナ』では
  一二のヤートゥダーナの名をあげ、
  カシュヤパ仙とスラサーから生れたとされる。

 ヤドゥyadu 
  月種族(チャンドラヴァンシヤ)の王ヤヤティの子で
  ヤーダヴァ王朝の創始者。

 龍宮[リュウグウ]
 ※この伝承には一切「龍(dragon)」は登場しません
 

 ◎「リュウ」
  [シュメル語・阿曇語] lu 豊富にする la 豊富、鱗
  『古事記』魚鱗の如造れる宮室、其の綿津見の宮ぞ、
   其の神の御門に到りましなば~
   海神の女、豊玉毘賣

  『日本書紀』勿に海神の宮に至りたまふ。
   其の宮は雉堞整頓りて、臺宇玲瓏けり。
    門の前に―、
    玲瓏[大日本古典文学大系の注]光輝くさま
    海神の女、豊玉姫
    一書:海神豊玉彦の宮に到ります。

   ※海神・綿津見の宮は
    「魚鱗」の如く光り輝く「la、lu:宮」であった。
    またその神「豊」名も「la、lu」に依拠した字義。

 ◎ドヴァーラカー:Dvaraka  
  [梵和大辞典](多くの)門(を具えた)都市
    [Gujuradの西方に位し、
    海に呑まれたと想像される
    Krsna神の住所の名]

  [Sk.]Dvar 門、戸口、出入口[英語のdoor]

  『古事記』其綿津見の宮ぞ、
    其の神の御門に到りましなば、

  『日本書紀』臺宇玲瓏けり、
    門の前に一つの井有り。

   [インド神話伝説事典]あるいはドヴァーラヴァティー、
   「多くの門を持つ町」の意で、
    ヤーダヴァ族のクリシュナの王国の首都、
   ヤーダヴァ族は
   ジャラーサンダ王と敵対していたので、
   その攻撃からヤーダヴァ族を守るために
   クリシュナのもとに結束し、
   ドヴァーラカーと呼ばれる堅固な都市を築いた。

   ドヴァーラカーにはクリシュナ、バララーマなど
   ヤーダヴァ族の指導者の集まる議会がり、
   宮殿は太陽と月のように輝いていた。

   クリシュナの死後、
   ドヴァーラカーの都は海に沈んでしまったという
   (「ヤハーバーラタ」)。

   現在この都市は
   グジャラートの西の海に沈んでいると推定される。

   ○kusa-sthal、Dvaraka の別称、
    kusu₂[シュメル語]両棲類/sthal 高地、陸地

 

 ◎ヤーダヴァ族→阿曇族
   yadas 大きな水棲動物、海の怪物
   yadu[Veda時代の-種族またはその首長の名]、
   その種族またはその子孫
  yadava叙事詩にはyayatiまたは

  Cediaの王候Vasuの息子または

  haryasvaの息子とされる。

  Krsnaの出たYadava族の先祖

 ◎メルッハ メソポタミアのシュメル時代、
   海外のある地域を呼んだ呼称
  kur-me-lu-ha 魚人のいる国>maruha:ma-lu-ha 
  魚人の土地>marwa (インドの西部)
  国 いる 人 魚   土地 人 魚

 ※「龍宮」は「ドヴァーラカー」を祖像とする。

 「梵和大辞典」
  (yathopayoga~yad-ahas、yada~yad-pum-gava)
  編者: 財団法人 鈴木学術財団
  発行:講談社
   
  yathopayoga ゜tha--up゜
   副詞 ゜_,~m 用途・要求または環境に応じて.
  Yathopalambham ゜tha--up゜
   副詞 まさに…を把握またはに着手するように.
  Yathopdhi ゜tha--up゜ 
   副詞 条件または前提に従って.
  Yathopta ゜tha--up゜
   形容詞 播かれたままの、種子に従って.
  Yathaucityam ゜tha--auc゜
   副詞 適宜の方法によって.
  Yathaucity ゜tha--auc゜
   副詞 「同上」.
  Yad
   副詞 代名詞
    [ya の中、体、業、単、およびその幹゜_]
    … するところのまたはであるもの;
   漢訳:彼、諸有、所有 諸有所有Abh-vy.、
   Ast-pr.やSaddh-p.:~t tac chrruyate 
   昔聞Divy.40. ;~m~m … tam tam

   [仏教梵語ではyam = yad ,tam=tad]
    一切皆、皆悉Ast-pr.168.;
   yani tani 諸、一切 Ast-pr.195. ;
   Yena bhagavams  tenanjalim pranamya  
   「yena 具=yatra」向仏合掌恭敬 
    Muyut. 接続詞 … と、いわく … 
   「言う、考える等の動詞に続いて直接話法を導く.
   ただし通例 iti を伴なわない];
   するように[まれに]、
    … である事実に関しては 相関 tad 、

 

   それについて;そういうわけで、そのために[まれに];
    …するまたはである時(吠);
   もし…ならば(吠)〔 図)
   [ Br.においては 願とともに実現されない条件を表わす];
    …であるから、…の故に、…であるをもって

   [相関 tad 、その故に(通例);…するために[まれに];
    漢訳:若、若事;是何、何物、怎麼;如是;謂 
    Abh-vy.,Bodh-bh.,Mvyut.,Nyay-pr. Yena 具
   漢訳:以那箇,為那箇,為想那箇

 Mvyut.: yena grhnati 執具,所用著法 Madhy-v .465;
   ~c ca na vikal=payati I 
   由此無分別Madhy-bh.yasmat 従:
 漢訳:由;如此;為何,那等Bodh-bh.,Mvyut.yasya 属
 漢訳:敦之;是誰,於誰 Mvyut.. Yesam 属 複
 漢訳:敦們的,為誰們,那幾個的 

  Mvyut.Adha ~たとい…であっても,
   … といえども(RV.) ~ api … といえども.
     ~ idam すなわち;  
   漢訳:曰,所謂;此,如此,既此;所: 
       是何,何物,怎麼
    Das-bh., 
  Mvyut.~u…evam …であるようにそのように(吠).
    ~ uta すなわち(Kar-vy . ) ;
   漢訳:謂,所謂,是謂;是,如是,即是
   Ast-pr.,Bodh-bh., Das-bh.,Mvyut-bh.~ t kim-cit
   漢訳:所有,諸所有,一切
   Bodh-bh .:yani kani-cit 所有 Bodh-bh.263.
    ~t kila すなわち,
    からt khalu なにとぞ(知られたし)
   vac ca 
     しかも,すなわち,たしかに;
     その上.~ ca … ~ca ならびに…もまた(Divy.).
      ~ va(さもなければ[註においてはきわめて普通];
     しかしながら.…~ va … yadi va
     もし…ならば…またもし… ならば.
  Yad-anna 
   形容詞 その食物を食べる.
  Yad-abhava
   男 :~ e 於 それの無い、または欠けた場合には.
  Yad–artha
   形容詞 それを目的とする.~m 副詞 その故に,
   その理由によって;その人のために;
    … なるが故に,… であるをもって[まれに].~ e 
    於 副詞[同上].
  Yad-avastha 
   形容詞 漢訳:如位 Abh-vy.
  Yad-asana 
   形容詞 それを食する.
  Yad-ahas
   副詞 その日に.
  Yada
   接続詞 …であるまたはする時に[相関 tada
    (まれに省略される)または時々 tatas とともに;
   吠 においては ata ,tha , adha , tad とともに;
   繋辞はしばしば省略される,
   過受分の後にあっては特にそうである」;
   漢訳:爾時,是時;若,若時;
    何時Abh-vy.,Bodh.,Mvyut.,
    Sapt-pr. ~ kad cid 
    何時でも,どんな場合にも.~ tad 常に;
   漢訳:故,由…故 Ast-pr ,
     ~ kada ca … するごとに(RV.). 
     ~~… するごとに
    [相関tada 且を重複または単一で用いる].
    ~ eva … tadaiva (da-eva )
     …するや否や直ちに,
    正に… した時その時以来.
    ~ eva khalu……tada prabhrty-eva [同上].
   Yad-atmaka
    形容詞 そのものの性質をもつ.
   Yadi 
   接続詞 [吠はまた yadi(韻律)」
    もし… ならば[吠においては,
    直,接,願,未または
    時としてid , u , uta , cid , ha vai
    等の不変辞を伴なう;
   ただし帰結句には通常不変辞を省略する;
   華においては
   Nanu 以来次の六種の 動詞とともに用いられる:

  1 .現とともに;帰結句には,
    現,願,命,未または人称形の動詞なしに;
  2 .願とともに;帰結句においては,
    願,条件,現,命,未または人称形の動詞なしに;
  3 .未とともにニ帰結句においては
    未,現または人称形の動詞なしに;
  4 .条件とともに;帰結句においては条件;
  5 .一過または三過とともに;帰結句においては
    条件,願とともに;
  6 .人称形の動詞なしに;帰結句においては,
    現,願,未または人称形の動詞なしに.

  すべてこれらの場合における帰結句は
   tarhi , tatah , tad , tada ,
  まれにatra , atha , tatra , tadanim ,
   tatah , param を伴なう];
  もし=… が確かであると同様に
  [断言の場合は命±tatha またはtena ,
   願+ tad を伴なう];
    …かどうか
   [現,願を伴なうまたは人称形の動詞なしに;
    ~… na va …か…またはどうか];
    …であることを(「信じない」,
   「認めない」を意味する動詞の後に);
   もし多分,恐らぐ…ならば
   [願 iti ,現,未とともに」;
  漢訳:若,設,設使;既Abh-vy., Av-s.,
      Mvyut., 梵千.~ ced 
  もしも… ならば.~tavat
   もし… ならば(どうなるであろう)
 [現または命とともに]. ~ api 
   たとい… であるとするも,
   … であるといえども
  「まれにapi ~;
   帰結句には士tathapi (゜thapi )またはtad api].
   ~nama もし実に… ならば(Jat – m).
   ~( va) の… ~va …
    であるのかまたは… であるのか.
   ~ va… ~[同上].~va…va [同上].
   Va~va [同上]. 

  Yad va… va[同上].~…va na va,
   … であるのかあるいは… でないのか.
   ~va[単独に」あるいはもし… ならば,
   あるいはむしろ… ならば,
   [時として]=しかしながら.
  Yadiya 
   形容詞 その人の,それの.
  Yadu
   男[Veda時代の一種族またはその首長の名
   (通例 Turvasa とともに挙げられる:
    turvasa ~u)両;
   複 その種族またはその子孫=Yadava ;
   叙詩には Yayati またはCedi の王侯.
   Vasu の息子または Haryasva の息子とされる;
   Kresna の出た Yadava 族の先祖].
  Yadu–nandana
   男 Yadu 族の長,[Kresuna の称]. 
  Yadu–nandana
   男 Yadu 族の長,[Kresuna の称]. 

 


 

M.K記(責)

http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/archives/52049209.html

連絡先:090-2485-7908