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『歴史再生:目次』
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金原政敏・歴史研究家
小嶋秋彦:歴史学講座「創世」主宰
歴史学講座「創世」一般
<切明(きりあけ)神事>
切明神事(8月15日):須佐神社
※出典:須佐神社
https://www.susa-jinja.jp/event/27/31
島根県佐田町宮内(旧須佐)
宮司 須佐氏
須佐族:足名椎の後裔
素盞鳴尊を主祭神として、
稲田姫と、その父母神である
足名椎命・手名椎命を合祀する。
山に囲まれた小盆地にる古社で
『出雲風土記』による素盞鳴尊が
”この国は小さきになれども国処なり”
といって鎮まった地と伝えられる。
「延喜式」神名帳にも記載の古社で、
中世以降は武家の崇敬が厚かったという。
現在の大社造の本殿は、
天文23年(1554)の修築と伝え、
その後も数度改修を受けているが、
県の文化財に指定されている。
社宝の兵庫鎖太刀は、
戦国期の武将尼子晴久の奉納と伝え、
国の重要文化財に指定されている。
須佐神社は毎年8月15日に催される
念仏踊りで知られている。
笛役1人、鉦役3人、太鼓役1人、鼓役2人
の計7人が花笠を被り、
素足で輪をつくって踊る。
征韓の帰途この地に立ち寄った神功皇后と
その一行を迎えたのが起こりともいうが、
はっきりしない。
県下に残る唯一の念仏踊りで、
県指定の無形民俗文化財。
なお宮司の須佐家は、
素盞鳴尊の子八島手命を祖とし、
当代で77代を数えるいう旧家である。
〇旱魃、霜雨等の場合には臨時に行なう。
降雨、止雨のための祈願の祭事。
擬音は雷音を表わしているのではないか?
そしてそれは銅鐸を撥って起す音であろう。
主祭神:須佐之男命
併祀:櫛名田比売・足名椎・手名椎の3神
(名田:名椎族の神事)
切=錐:銅鐸
地中に埋祀されていた鐸を
地中より取り出して(明けて)、
降雨や止雨の、また、
例祭では農作の豊穣を祈願した神事
”切”はつまり雷神としての久那斗神、
須佐族
(荒神・Zeus ないし Poseidon を祀る Iri族)
侵入後は須佐之男命ということになろう。
須佐族:足名椎
『記』稲田宮主須賀之八耳(やつみみ)神
『紀』稲田宮簀狭之八箇耳/稲田主
〇砧・杵き ぬた=稲佐/稲種(きぬた)
◎銅鐸(きぬた)は”稲種”であるから
豊穣の祭りにおいては
地中に埋祀しなければならない。
『出雲風土記』飯石郡多禰郷:
大穴持命・須久奈比古
『播磨風土記』揖保郡稲績山、稲種
<切明神事>
https://www.youtube.com/watch?v=uLrvvzWpIRs
「はいなんもひーいてんえーをい」
「でんでごでんからかなアまみどー」
「でんとうでんでこでんどんでいえー
やしっからからかっとんでーえー
やしっからとんでー」
「からからからからからからからから
かっとんでーえーやしっからとんでー
やつッとんーてんどーでんでごてんどー
なアーまアーみどーなアーまアーしっから」
「切明」という言葉の語源は
はっきりしませんが、
村を草創(始めること)したことを
「草分け」といい草分けをした旧家を
「草分け百姓、切明百姓」、
または、
「草切」などと呼んでいる例から考えると、
この「切明」も村の形成に関わりのある
言葉であると思われます。
この神事の中心は、
笛一人、太鼓一人、鼓二人、鉦三人合わせて7人です、
笛の人は列の外側で伴奏し、
笛を除く六人は円陣を組みながら
太鼓や鼓、鉦を打ち鳴らしながら
歌詞を合唱し、
大花の中を静かに廻ります。
かぶっているものは飾りをつけた菅笠、
衣装は木綿を紺色に染めた服で、
七人とも袴を着けない着流しで、
着物の両脇を少し持ち上げた格好で
踊ります。
履物は何も履かず七人ともはだしです。
踊りは、
早い動きも、派手な技もありません。
また、
歌詞は単調ですが、
非常に難しい言葉を何度も繰り返し、
太鼓や鼓などの伴奏も、
聴く人を魅了するようなものではありません。
蝉がしきり鳴き立て、
老木が密生する須佐神社の境内には、
二本の神事花(宮花)と
それを見守るたくさんの人々の
色とりどりの服装が、
ひときわ目立っています。
これが須佐神社に伝えられる
「切明神事」の印象です。
この行事は、奈良時代以来、
中世、そして近世にかけて
千年以上も綿々と続けられており、
今後、須佐地域独自の信仰・風俗が
仏教や神道と密接に関わりながら
受け継がれてきた祭りであることが
明らかにされれば、
新たな視点で見直しができるものと思います。
この祭りの始まりについては分かりませんが、
須佐神社の資料によると、
神功皇后は、以前、
須佐之男命が韓国に渡られた功績により、
この踊りを須佐大宮へ伝えられ、
皇后が戦いに勝利して
韓国から帰国される時、
須佐大宮ではこの踊りを踊ってお迎えした。
(『須佐神社由緒考証』による)
と書かれています。
また、
中世から始まった念仏踊りと、
神社に伝わる田植神事の田楽が
一緒になったとも言われています。
『島根県史要』
という書物に書かれている内容は
次の通りです。
(1) この神事で歌われる
「なむあみだぶや」
という歌詞は、
仏教(浄土宗・浄土真宗)の
「南無阿弥陀仏」を歌いやすくしたものです。
『実高記』という史料には
奈良時代の宝亀年間(770~780年)に
「切明神事を再び奉る」
と書かれています。
これは、雨が全く降らず、
京都の宇治川の水はなくなり、
船の行き来もできなくなっため、
年号を「天応」と改め、
大宮大念仏を行ったのだとされています。
このことから考えると、
この神事は雨乞いのための祈りであり、
農業の田植神事と関係があったことを示す
と言えるようです。
(2) 平安時代に田植えの後の楽しみとして
踊っていた「田楽」は
貴族の間で流行するようになり、
鎌倉時代から室町時代にかけて
盛んになりました。
しかし、
須佐神社に残る「大須田、小須田」という
古くからの地名が証明するように、
田植えの際の神事であったというのが、
須佐神社にとっては
最もふさわしい由来だと考えられます。
(3) 天暦年間(947~957年)の終わり頃、
強盗が京都のあちこち荒らし、
多くの人々を苦しめましたが、
後醍醐天皇の第8皇子であった
空也上人の教えに従って
多くの強盗は悪行をやめ、
まともな生活に戻りました。
戦国時代になり、
下剋上が激しい世の中になると、
人々は心の安らぎを求めて
僧侶の服を来て鉦を叩き、
念仏に節をつけて踊り歩く
「念仏踊り」が各地に流行しました。
安土桃山時代に現れた阿国が、
江戸時代になって
京都の四条河原で
歌舞伎芝居をしましたが、
これも念仏踊りの変形でした。
鎮花祭は、
稲の花が咲き出す前に、
春の草花の生育を安らかに祝う祭りです。
春の花が早く散る年は、
稲の生育が悪く、
実りが良くない前兆であり、
それは虫の害によるため、
人間にも悪い病気が
流行することを示しています。
稲の不作や病気の流行を恐れ、
また、
稲や草花の成長を祝ったのものが、
次第に死んだ人の霊やたたりを招く
死人の魂を追い散らすことによって、
縁起の悪い出来事を
取り除くことができるという
信仰を生んだのです。
日御碕の「みんどう」の神事は、
※出典:近畿・大社会
神話の出雲国・大社町
http://kinkitaisyakai.net/fukei/maturi/mindo.html
その根源が須佐神社の鎮花祭ありながら
花を使用していません。
その理由は
漁業を中心として生活している
日御碕の人々にとって、
花は必要がないからです。
その代わり、
玉の飾りをつけた立派な鉾を
形どったものから
垂らされたの布で体を撫でる事によって、
あらゆる不幸な出来事から
逃れる事と信じられているのです。
このようなそれぞれの方法は、
各地における生活の知恵から
生まれたものでしょう。
「切明神事」では
「花廻し」が最も重要で、
これが目的です。
あの670個も付いた重い花を出来るだけ
高く揚げようとする姿にも
大きな意味があります。
それは天の神への祈りの表現であり、
古い神道の思想によるものです。
そして、
花の下で踊りを舞う人の動きは、
花をもつ人への励ましであり、
たたりを招くために地上に降り立った
悪霊を追い払うものです。
この時、踊り舞ってる人たちは
神や仏に化しています。
悪霊をその地域から追い払うためには
踊る人と地面との間に遮るものが
あっていけないということで、
踊る人たちが皆はだしで舞い、
地面をしっかりと踏みしめます。
それでは、なぜ、
原始的な農業に関わる儀式が途中から
念仏思想と一緒になりながら、
もとの形を大きく崩さず、
現在まで伝えられてきたでしょうか。
それは、
祭神が「須佐之男命」であることが
大きく関わっています。
出雲地方の人々は、
古代からこの須佐之男命を
自分たちの村の神として
祭ることをとても望んでいました。
須佐神社の「切明神事」は
8月15日に行われます。
それはこの頃から悪い病気が流行したり、
稲の開花時期と病虫害の発生が
重なったりするからです。
そして、
ちょうど台風の季節とも重なります。
さらに、
雨が少ない年であれば
なんとか雨が降って
ほしい時期でもあるのです。
こうしたあらゆる災いが、
すべて神の心の思うままであると考え、
この神事にたくさんの願いを込めて
行ったのではないでしょうか。
このように考えたため、
須佐之男命の気持ちを無視して、
人間の気持ちだけで神事の方法を
変えるわけにはいかなかったのです。
もう一つは、
この神事を昔から今に伝えた人たちは、
主に飼領自治会の人達でした。
先に述べたようにこの地域は、
「まぼろしの諏訪神社」の山の麓です。
飼領自治会の人達の意識の奥には、
須佐神社に最も近い氏子としての誇りと
祭神である須佐之男命への強い信頼があり、
他の人が
どんな言葉を差し挟むことも許さない
強い気持ちがあっためではないでしょうか。
江戸時代から現代に至る途中で、
この神事は中断しました。
中断というより消滅と言った方が
正しいかもしれません。
それまで
神道と仏教は混合されていましたが、
慶応四年(1868)の神仏判然令に続き、
明治初年新政府が
神道を国教にしようとする政策を行ったため
仏教をやめ、
仏像を壊していく運動(廃仏毀釈)
が各地に広がり、
この地域にも及んできました。
須佐地域の寺院も焼き討ちに会い、
仏教に関係するものは神社から
一切取り払われました。
須佐神社:広島県三次市甲奴町小童(ひち)
※出典:甲奴町情報ホームページ
てくてくこうぬ
須佐神社御由緒
https://kounu.jp/guide/data/%E9%A0%88%E4%BD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E8%B3%87%E6%96%99/335-%E9%A0%88%E4%BD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%BE%A1%E7%94%B1%E7%B7%92
子童保(ひちほ)
「ヒチ」
(Heb.)הֶד,HD,hed,
反響、こだま
「コトウ」
(Heb.)כֶהִד,KhHD,kehid,
反響する
古代日本へ渡来した人々の系譜

小嶋秋彦(歴史研究家)原図
https://matmkanehara.blog.ss-blog.jp/2019-03-14-4
M.K記(責)
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