🖋 芥川龍之介と三島由紀夫の対話
――『三四郎』予告文をめぐって
芥川龍之介(静かに微笑しながら) 「『迷羊』――漱石先生は、あの一語にすべてを託したようですね。文明の光に照らされながら、なおも彷徨う青年の姿。まるで、我々の文学そのもののようだ。」
三島由紀夫(鋭く身を乗り出して) 「だが、先生。あの“迷羊”は、ただの象徴ではない。あれは、近代という檻の中で飼い慣らされた“美”の敗北だ。三四郎は、結局、何も選ばない。彼は“行動”しない。」
芥川(目を細めて) 「選ばないこともまた、選択ではありませんか? “行動”の不在にこそ、近代の病理が滲む。私は、そこに文学の余白を見出すのです。」
三島(やや嘲るように) 「余白? それは“死”の予感に過ぎない。私は、むしろ“予告”という形式に注目したい。あの短い文に、漱石は“制度”を予告している。すなわち、近代日本の“青年製造装置”としての大学、東京、そして恋愛。」
芥川 「つまり、あなたは“制度の影”を読むのですね。」
三島 「そう。“制度の影”に抗うには、“美”と“死”の演劇が必要だ。三四郎がもし、あの予告文の通りに“迷羊”で終わるなら、私はその物語を“逆照構造”で書き換えたい。」
芥川(静かに頷き) 「それは、あなたの“跳躍型民主制”の文学的実践かもしれませんね。だが私は、あの予告文の“静けさ”にこそ、漱石の倫理を感じるのです。制度に抗わず、ただ“見る”ことの倫理。」
三島 「見るだけでは、世界は変わらない。」
芥川 「けれど、見なければ、世界は始まらない。」