数学教室和(なごみ)講師の松中です。

 

私は今年に入って断捨離に目覚めました。断捨離の一環で過去のメールを整理していたところ、メールの添付ファイルから10年前に私が書いた手記を発見しました。私は現在34歳で、10年前といったら新卒1年目であり、初めての東京にワクワクしながら明るい気持ちで新生活を始めた年のはずです。しかしその手記のタイトルは「KYって呼ばないで」という何とも物悲しいものでした。

読んでみるとその内容は私の数学愛数学の公理を絡めながら、「KYと呼ばないで」と必死に主張をしているものでした。今回はその手記の全文をそのまま紹介します。多少過激な表現もありますが、10年前の手記であることを前提にお読みください。10年前の私と同じように、誰かに何かを決めつけれられ悩んでいる方の助けになることを願って。

10年前の手記「KYって呼ばないで」

1.数学が好きな理由

私が数学が好きな理由は、一位から順位を発表すると次のようになります。

第1位「美しい」

数学は本当に美しい。ただそれは感性の問題で説明が難しいので今回は説明しません。

第2位「物理や化学とタッグを組んで、身の回りの現象を解き明かすことができる」

相対性理論や、ベイポクロミズムなど。

逆に言えば、相対性理論なんて数学がないと絶対に理解できない。

巷では誰でもわかる相対性理論のような本が時々出ていますが、あれは嘘だと思います。それなりに難しい数学(微分幾何学)の知識がないと理解することはできません。

第3位「正しいのか、正しくないのかがはっきりと決まる。」

数学はみなさんご存知のように、あるセンテンスが正しいのか正しくないのかがはっきりと決まります。

同じ数学をしている人の間で、人によって正しさが違うとということがありません。今日はこのことについて話したいと思います。

第4位「裏切らない」

第5位「一人でもできる」

第6位「お金がかからない」

2.現実と数学の違い

突然ですがこの熊ちゃんをどう思いますか?

意外かもしれませんが、この熊ちゃんを可愛くないと思う人もいるんです。でもそれは多様性として認めましょうよってのが言いたいことです。

それは、人によって判断基準が違うからです。

ここが現実社会の難しいところであり、数学と違って私が現実社会をあまり美しいと思わないところです。

一方数学ではなぜ正しい、正しくないのかが一意に決まるかと言いますと、数学には「公理」と呼ばれる出発点があるからです。

「公理」とは正しいと証明せずに、正しいものとして使いましょうという数学をする人の間の約束です。

3.数学の公理

誰もが正しいと認める「公理」があり、そこに言葉が「定義」され、「定理」が証明されていきます。

余談ですが、微分積分学で最初に出てくる公理は「一本のこの世のものとは思えないほど綺麗な直線のロープをこの世のものとは思えないほど綺麗なはさみでふたつの部分に切りわけると
片方には端っこがあり、片方には端っこがない」というものです。

両方端っこがあったり、両方端っこがないということは起こらないというものです。

これで数学の話は終わりです。

次になぜKYと呼ばれたくないのかを公理に関連づけて話します。

4.現実には公理がない

現実には残念ながら誰もに共通な公理がありません

昔テレビでこんなことがあったようです。

【子供テレビ相談室】
○○大学教授
△△政治家
○○ジャーナリスト

子供「なぜ人を殺してはいけないのですか?

偉そうな有識者達はこの質問に答えることができず、テレビは混乱状態のまま終わってしまいました。

「人を殺してはいけない」というのは彼らの公理だから、彼らには説明ができない。この公理を共有しないこの子供に対して、彼らが長年築き上げてきた理論は意味を成さない。

一度公理を否定されてしまうと、彼らの長い間の勉強生活は無になってしまう。

5.現実の公理とは

このような例から分かるように、現実には誰もが認める公理はありません。人それぞれ判断の基準となる公理を持っています。

それどころか、現実の公理は時と共に変わっていく。

私達は生まれてきたときは、きっと「生きたい」、「お母さんどこ?」のような公理を持って生まれてきたはずです。

そして、成長するにつれ、周りから新しい言葉を、世界観を「定義」されていき公理に「」、「友情」、「」のような証明が難しいものが加わっていきます。

この説明できない「公理」と、学んだ知識である「定義」から長い年月をかけて「定理」を証明しているんです。

この一連の成果物が人間の「考え方」です。

6.誰かが私のことを「KY」だと言う。

そのKYはギャグがつまらなく、場の空気を冷ましてしまったと、発言者が感じたから。

しかし私は、その場にいる元気がなく落ち込んでいる友達にだけ分かる過去のネタを用いて、その友達を元気付けたい思いで言った発言(かもしれない)。
その友達が元気付いたのであれば、私の中でそれは良いこと。

しかし誰かが
「つまらない」
「友達がいないんだろうな」
「バカなんだな」
と発言すると、あたかもそれが絶対的に正しい真実かのように、周りにいる人たちの考え方に間違った「マツナカの定理」が加わってしまう。

この世の中は「言ったもん勝ち

7.まとめ

・数学は美しい。

・考え方は人それぞれ違うのだから、討論などの場でない限り断定的な発言は良くない。

・自分の考え方を言うときは、どうしてそう思うのかをできるだけ明確に伝える。

「私の価値観は○○で、私の中では空気という言葉、読むという行為、今の周りの雰囲気は△△と定義されています。よって『マツナカが空気が読めない』と証明されました。」

それに納得したら私も「マツナカは空気が読めない」という定理を加えるでしょう。

以上

まとめ

いかがでしたでしょうか?この手記は誰に向けて書いたものなのか、実際にその人に伝えることができたのか、今となっては全く思い出せません。しかし数学が好きだという気持ちは今も変わらず私の中の公理として生き続けています。10年前の自分を少し誇らしく思ったエピソードでした。

 

<文/松中>

 

数学教室和(なごみ)」では算数からリーマン予想まで、あなたの数学学習を全力サポートします。お問い合わせはこちらから。お問い合わせページへ