今の高校生でこの、
“風が吹けば桶屋が儲かる”
を聞いたことがある生徒さんは全くいませんでした!
「全くいない」というのは、実は授業中に知っているかを聞いたからです。
・ 風が吹くと砂ぼこりがたつ
・ 砂ぼこりがたつと砂が目に入る
・ 砂が目に入ると盲人が増える
・ 盲人は“あんま師”か“三味線師”になるので、三味線師が増える
・ 三味線師が増えるから三味線の需要が増す
・ 三味線の需要が増せば胴を張る猫の皮の需要が増える
・ 胴をはる猫の皮が必要になれば、猫は沢山捕まえられる
・ 猫が沢山捕まると、町から猫が減る
・ 町から猫が沢山減れば、町には鼠が増える
・ 鼠が増えれば家の中にも鼠が増える
・ 家に鼠が増えれば、鼠は桶をかじる
・ 鼠が桶をかじってしまうから新しい桶が必要になる
・ 新しい桶が必要になるから桶屋が儲かる
と言った具合ですね。
で、何でこの『風が吹けば桶屋が儲かる』か、ですが、
「二次不等式における絶対不等式」
ですよ!
が、全てのxで成立する条件で、
の判別式Dが、
D<0
となるのが、
「大小がチグハグ」
と言って、なかなか納得しません。
2次式の大小と、判別式の大小が連動しないと気持ちが落ち着かない、という心情のようです。
そこで今回の『風が吹けば桶屋が儲かる』になる訳です。
と、言うのも、
・ 与えられた2次式f(x)の値が全てのxで正になる、とは、
y=f(x)とおき、この関数のグラフである放物線が、全てのxでyの正の領域になければならない
・ この関数の放物線が全てのxでyの正の領域にある為には、
放物線が下に凸であり、かつ放物線と、y=0であるx軸とに共有点が存在してはならない
・ 放物線と、y=0であるx軸とに共有点が存在してはならないとは、
2次方程式 f(x)=0には実数解が存在してはならない、ということである
・ 2次方程式 f(x)=0には実数解が存在してはならない、ということは、
2次方程式 f(x)=0の判別式Dに対して、D<0でなければならない
・ 従って、
『2次不等式 f(x)>0が全てのxで成立する(コレが「風が吹けば」)為の条件には、
2次方程式 f(x)=0の判別式Dが、D<0である(コレが、「桶屋が儲かる」)』
という、正に『風が吹けば桶屋が儲かる』という構造になっている訳です。
数学を学ぶ高校生には、“未だに”
数学の「数学自体の構造」を見据えようとはせずに、
自分の勝手な感性のみに頼った捉え方
をしてしまっている、
という現状があります。
目先だけの現象での判断ですね。
「風が吹いた」ということから、
「桶屋が儲かる」ということに至る、
その過程にあるべき「根拠」を
全く見ようとしない。
まあ、
もっとも世の中の、
既に高校を卒業し、
従って、既に高校数学を学び、
本来なら「数学自体の構造」も学習している筈の大人たち自体が、
実は「数学の構造を学ぶ」(今回の『風が吹けば桶屋が儲かる』に対応する、数学における論理的連鎖の構造)という基本をやらず、
学校のテストでの点数を取るためだけの「間に合わせ」の暗記作業で潜り抜けてますから、
親から子に対しての、何世代にも亘る
「数学学習の誤り」
が引き継がれていのではないかとも思えます。
では何故、こんな不適切な学習
つまり、「構造を確実に学ぶ」
という学習をしないで
目先や表面的な暗記に頼った学習をしているか、
ですが、
理由は簡単で、
面倒臭い
からです。
面倒、というより
脳内での思考が耐えられない
と、
ご本人は決めてしまっている
からです。
そもそも、人間は生まれたままでは、
この様な
「脳内の忍耐力・分析力」
は、萌芽の段階の様に思えます。
だから、この「思考力」は
積み重ねによるスキル
と、
日々、コツコツと積み重ねるという覚悟
の、まるで車の両輪に値する
「2つの個性」
で成り立ちます。
ところが、一方のこの
「覚悟」
の方がシッカリ育っていない!
己の人間性の成長が疎かになっていて、
いつまでも、
「自分には無理」
という言い訳を、
他人にも、自分にも言い続け、
「自分はできる筈はない」
と決めている訳です。
だって、
出来ないと決めてしまっていた方が、やらないで済むから楽に決まってます!
しかも、何世代にも亘り
「数学は難しい」
が世間の中で言われ続け、
更には、
「習った数学は、日常生活では使わないもの」
という現実もあり(これ、本当だと思う!)、
「こんな、将来には役に立たない数学は、難しいから出来ないのも仕方ない」
という風潮さえ感じられます。
結果、
数学の、
「数学的構造の確実な学習姿勢の定着」
即ち、
「数学問題の解答における実際のテクニック」
は無意味と思われても仕方ないにせよ、
「この数学問題に潜む、構造・仕組み・解決可能な材料の探り出し、という分析力に加え、更には、最後まで考え抜く、という忍耐力」
の方まで捨て去られてしまってます。
どうするのでしょうか、
殆ど生まれたままのレベルでしかない「思考力、分析力」で、
更に、「人間性」としての「覚悟」や「忍耐力」も、出来ないものと自分で決めて、これらの力が、育つチャンスを棒に振ってしまう。
こんな高校生が大人になって、
日常生活で何かトラブルがあった時、
そのトラブルが何物なのかもシッカリ吟味も出来ず、
まして、正しい対処法も知らず、
目先の、個人的な感覚による対応をしてしまう様なことが、
日本国中で起こるのは⁉︎
この10-20年、
学校では生徒に何を教えるべきかを国家が指示しているところは、
「合理性」
です。
勿論、合理性は必要です。絶対に!
ただ、だからと言って、
古事や諺
古人の智恵ある言葉
かつて寺子屋で習っていた『論語』
『菜根譚』などの仏書
更には「偉人伝」という“人の生き様のサンプル”
この様な、『精神に響く訓え』
即ち
「人間性」
が無くなってしまっては
国民性として大問題です!
何やら、
表面ズラを整えれば、それで良し、
という「雰囲気」を感じて止むません。
粘り強く
徹底的に構造を見抜き、
数学も
人生も
目の前の現象に右往左往するのでなく、
正しく見抜けるだけの「素地」を学ぶ
そんな時間を確保したいものですね。


