九世紀の新羅の人、芭蕉慧清(ばしょう・えしょう)が、あるとき禅僧たちにこんなことを言ったと伝えられていますね。

你有拄杖子、我与你拄杖子。
你無拄杖子、我奪你拄杖子。

なんじに拄杖子(しゅじょうす)有れば、我、なんじに拄杖子を与えん。
なんじに拄杖子無ければ、我、なんじの拄杖子を奪わん。

この「拄杖子」(しゅじょうす)というのは、禅僧が行脚(あんぎゃ)する際に携行する「杖」とのことで、この「拄杖子」を突いて出かけていたといいます。

日常会話風に言えば、
「おまえたちが杖を持っているのなら、おまえたちに杖をくれてやろう。
 おまえたちが杖を持っていないなら、おまえたちから杖を奪い取ってしまうぞ!」

といったところでしょうか。

今では禅僧の方をはじめ、色々な方がこの『無門関』にある「芭蕉拄杖」についてお考えを述べられていますね。

「持っている者には与えられ、
 持たざる者からは奪われる」

なんとも奇妙なお話しです。
解釈も様々ですが、どのお考えも、
「なるほど、流石!」
と思えるものばかりです。

さて、
実は私は私なりの解釈がずっとあります。

この「芭蕉拄杖」を伺ったまさにその時、
「うん、これだな‼️」
と思うところがあったのです。





高校で数学を教え始めて直ぐ、
当時も1クラスに40人ほど、私の数学授業を受ける高校生がいました。

1年生の最初のうちは、まだまだ中学数学の内容ですから、どの生徒もシッカリと授業を聴いてます。

ところが夏休みを挟んだ頃から事情は変わります。

「2次関数の最大・最小」やら、
「三角比」やら、

ただただ、計算をすれば何とかなる、というレベルではなくなってきます。

扱っていることが、キチンとその「数学的意味」を理解していて、その「数学的意味」を道具として扱える様になり、これを、出された問題の解決に活用する。そんな能力が問われ始めます。

この頃になると、高校生の中には各自の“本性”のようなものが顕れて、この、
「意味を理解するまでトコトン学習する」
ということに対して、

・ よし、やってやろう! という根気がある生徒
・ 何だか面倒臭い。これやるの? 無理⁉︎
   と、始めから放棄してしまう生徒

の2パターンに分かれます。

特に2年生になって、「数列」だの「ベクトル」だのとなると、覿面(てきめん)です。

私自身も、数学は苦労してやっと理解した経験があるものですから、目の前の高校生諸君には、そんな私自身の経験なども利用しながら、可能な限りアッサリと理解してもらおうと授業で解説するのですが、

・ これまで、一つひとつを根気良く学習し、毎回の授業内容をその日の内に自分で復習などして理解してきている生徒は、私の解説をシッカリと聴き取り、その時の授業内容もそれなりに「授業時間中に」理解できていますが、

・ すっかり諦め、学習自体を放棄してしまった生徒は、私がどれほど、寧ろそんな「分からなくなってしまって辛い」という“あなたたち”に向けて、解説を試みているのに、このチャンスを自ら「垂れ流し」をしているかの様に、机に伏せってダウンしています。

こんな状況を、高校数学の教員として、1年目から経験している私にとって、その直ぐ数年後に、この『無門関』「芭蕉拄杖」に出会ったら、

“それはそうだ! 当然だ!!
持っている者は、益々与えられ、
持ってない者は、更に奪われるよ‼️ ”

と合点がいきました。

で、35年、
未だに私の目の前で、自分自身に何が降り掛かっているかも理解できない可哀想な生徒さん達は、
相変わらず机に伏せり、
持っていない杖を、自ら奪われ続けています。