一生懸命
レールを敷く。
誰のため。
○○のため
と言いながら、
実は、
自分のために
敷いている。
でも、
そこにのる人は、
そのレールを
走りたくない。
当然だ。
互いは
違うから。
○○は、
自分のレールを
自分で敷いて
走りたいのだ。
勝手にレールを敷いておいて、
上手く走らなければ、
勝手にレールを取り上げて、
別のレールを敷いて
のせようとする。
仮にレールにのせて、
最初は上手く走らせたとしても、
そのレールは○○自身が
が敷いたものではないので、
途中で脱線することが出てくる。
ひょっとしたら、
自分でレールを敷く力を持っておらず、
立ちゆかなくなることもあるかもしれない。
そうすると、
私がレールを敷いているのよ。
なんで脱線するの?
と○○を責める
場合によっては、
他人を責める。
誰がそのレールを敷いたのかを
忘れてしまっている。
結局課題は変わらない。
そこに気づかなければいけない。
多くの場合、
その人自身に解決していない課題がある。
なぜそのレールを敷いているのか。
そこを解決する必要があるのではないか。
いかにレールを自分で引けるようにしていくか。
それを信じて見守ることが、
親や上司、先輩の役割であるような気がしてならない。
「レールを自分で敷く力を身につけていますか?」