Pompe_students
Pompe_students    Source: commons.wikimedia.org


胡蝶の夢(1983・日)。

司馬遼太郎。


この作品は、先生の膨大な作品群の中でも後期に属するものです。


初期の伝奇的な作品や、

歴史上の武将、将軍、政治家などを

縦横無尽に現代に蘇らせた大河小説の数々。


それらを経て、

主題は徐々に「歴史の中の技術者の役割」に変化し

義経の軍事、大村益次郎の軍事と洋学、

この作品の洋学及び医学と、この系譜は続きます。


その後の作品は更に人間の内なるものに向けられ、

より哲学的になっていきました。



--------------------------------------------------------



時代は幕末から明治、主人公は3人。


幕府の御用医師の松本良順。


良順に仕える悪魔的な語学の天才、島倉伊之助。


順天堂医学塾で天才を謳われた関寛斎。


佐渡に生まれた伊之助は江戸に出、良順に仕える。

彼の抜群の記憶力は皆を驚かせ、

たちどころにオランダ語を解し、良順を助けるが、

人格的に欠けるところが多すぎ、

周囲の人間に嫌悪され、結局は良順の元を去る。



そもそも蘭方医学を修めた良順は、

漢方医学全盛の奥医師にあっては異色であった。


長崎にオランダ人医師ポンペが赴任すると聞くや、

良順は長崎行きを決行。

独力で医学伝習所を開き、伊之助を呼び寄せる。


このニュースは瞬く間に全国に広がり、

全国からポンペの講義に俊才が集まる。

その中に関寛斎がいた。

伊之助はここでも人々にいれられず、

師ポンペにも嫌われ、

またも良順のもとを去らざるを得ない。



ポンペは帰国、良順は江戸に戻り、再び医学伝習所を開く。

寛斎は阿波蜂須賀藩に招聘される。


良順は将軍家茂、慶喜に仕え、新撰組とも関係をもち、

戊辰戦争の際にも軍医として敗走する幕軍とともに転戦。

皮肉にも官軍付きの医官は寛斎。



世間が蘭学者を渇望したこの時期も、

伊之助を思い出す者はなく、故郷にも居場所はない。


幽囚の後結局は官に仕えた良順。


新政府の医官の座を捨てて野に下り、

70才を過ぎて北海道に入植、歳83にして服毒自殺を遂げる寛斎。


--------------------------------------------------------



医師の社会的な位置、当時の社会や政治の状況、

部落民制度、「世間」というもの。

洋学の変遷と医学の推移。


自然科学という、東洋のそれとは

体系・思考方法からして全く違う知識の分野に、


日本人がまず呆然とし、ついで貪るように吸収し、


ついには思想に影響を与え、社会をも変革していく過程には

唸らざるをえません。



しかし、そうした大きな流れを抜きにしても、

この作品は小説の楽しみに溢れています。


才能を持つ故に変転する運命。


為政者に時々の都合で利用されるに過ぎない存在。


明晰な頭脳をもつ人たちの

「自分はいかに生きるべきか」の問いは深まっていくのです。



徳川慶喜に阿片を処方する

良順の

「人間とは生命を維持するに足る存在であるかどうか」。



寛斎が職を辞す際の

「薩摩医者に媚びていけばこの身分を続けられるかもしれないが、

 それには人の頤使に甘んじなければならぬ。」



佐藤舜海の

「私ほど平凡な人間はいない。

 一藩のことも医師にとっては私であるということになる。」


この言葉の数々。私は大好きです。



そしてこの作品を

とりわけ異色の存在にしているのは伊之助でしょう。


蘭・英・仏・独・ギリシャ・ラテン・中国語まで解し、

得難い才能を持ちながらも、世間には受け入れられない。


物語の進行に必須のはずはないのに、

丹念に描かれる伊之助の異常な行動。

本人は何が悪いのかがわからず

「俺は生きていてはいけない存在なのか」とつぶやく。


この気持ちがわからない人はいないのでは、

とめるめるは思うのですが、いかがでしょう。



伊之助の臨終の際、

瞼の裏に乱舞する胡蝶の夢は絢爛たるものであり、


「夢が本当なのか。現実が本当なのか」


という問いは、

人の世にうごめく人間として、

切ない時など、私もふと考えてしまうのです。