哲学への意志・1 | 『物質社会~哲学への批判~』

『物質社会~哲学への批判~』

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 哲学者である梅原猛は、人はいま哲学や思想がなぜ必要かという問題を「問題」とする。
 
 なぜ、人はいま哲学や思想を必要とするのか。もっとも大きな理由は、現在まで人間の生活を律してきた既成の思想への確信がくずれようとしているからである。というより、私は、現在までのすべての人類の思想体系が急速な歴史の発展についてゆけず、すべての思想が時代遅れのものとなってしまったからではないかと思う。
 現実は既成のあらゆる思想より巨大となり、複雑となり、凶暴となってしまった。いまや、あらゆる思想にとって、現実は一つの混沌である。明日、人類全体が破滅することすらかならずしも起こりえないことではない。 こういう混沌と化した現実を正しく説明し、人類の未来に希望を抱かせる思想を、日本人ばかりが世界の人が熱烈に求めているのだ。(「哲学の復興」)
 
 
 梅原猛の考えでは、思想や哲学はいずれ荒廃や退廃をし、いつ起こるか分からない世界消滅をたずさえて、一瞬にして消えてしまうかのような、“何か”である。したがって、思想や哲学は何らかの活性化を求めて、人びとから求められる“何がしか”に変貌をするよう、強いられる。しかもこの思想や哲学は、現実社会や現実世界と紛れもなく接点を持っており、人びとのみならず、思想や哲学らは、世界から熱狂的に求められるような、“何か”である。
 
 確信が崩れると梅原猛はいう。このような見解は、いつも間違っている。確信が崩れているのではなく、実際には、確信が『強化』されているのだ。古い思想や哲学に人びとががんじがらめとなり、むしろ古い思想や哲学を一斉に、破棄しようとする。これは梅原猛には、崩れると見える。決定的なことは、梅原猛にとっては、「崩れて見える」ということにある。
 
 かつての思想や哲学は有意義であり、そこに戻るように梅原猛は願う。しかし、有意義な思想や哲学には、そもそも確信が崩れるという事態などありはしない。それは、“有意義”なのだから。“有意義”ではないから、確信が崩れる。梅原猛は、「転倒」をしている。この「転倒」自体は、思想とも哲学とも、関係がない。単に、梅原猛の個人的な経験(観念)にすぎない。
 
 そもそも梅原猛がいうような、「こういう混沌と化した現実を正しく説明し、人類の未来に抱かせる思想を、日本人ばかりか世界の人が熱烈に求めているのだ」、という熱烈思想や哲学が“どこに存在する”というのだろう。