こんばんは。
日能研の歴史スパイラルも佳境に入っていますが、お子様達は定番の後鳥羽上皇と後醍醐天皇の区別がついていますでしょうか。
うちの子は、こないだの全国模試で、後鳥羽上皇と書くべきところを「後白河上皇」と書いていました・・
なぜ(中学受験的に)間違えやすい間違え方ではないのか。
後白河上皇(法皇)はマンガ「日本の歴史」でかなり細かく描写されており、それに引っ張られたのかもしれません。
私自身も頭の中の整理のために書き記しておきます。
白河上皇
藤原氏による摂関政治の後、初めて院政を始めた天皇。
後白河上皇
保元の乱の当事者(当時の後白河天皇vs崇徳上皇)で、勝利者。
平清盛と協力関係を保ち、子(高倉天皇)の妻が平徳子(清盛の娘)。←「平清盛が藤原氏のように娘を天皇に嫁がせて云々」です。
木曽義仲、源義経といろいろあり、最終的に源頼朝の武家政権を容認。←征夷大将軍の就任には反対し続けていたとのこと、日本の歴史に詳しいです。
後鳥羽上皇
源実朝の死後、鎌倉幕府打倒の兵を挙げるも返り討ちに遭い(承久の乱、北条政子の演説)、隠岐に流される。
後醍醐天皇
元々鎌倉幕府打倒のための計画を立てていて発覚したことから隠岐に流されていた(幕府と戦う前に流されていた点に注意)。
隠岐から脱出後、足利尊氏、新田義貞らと協力して鎌倉幕府を倒し、建武の新政を行うも、貴族重用の政治のため武士の反感を買い頓挫。
その後吉野に逃れて南北朝時代となる。
栄冠は君に輝く 2022!
