岩岡徹×Umbrella(終)


「私たち…もう別れよう」

彼女の言葉がリフレインする。

転勤。別れ。想像もしていなかった言葉に頭が追いつかなくなっている。


「…どうして?」


やっとのことで口を開くと、自分の口からは情けないほど小さな声しか出なかった。そんな僕とは対照的に、彼女の声はスピーカー越しでもはっきりと聞こえてくる。


「いつ帰ってこれるか分からないから…その間ずっと待ってて、なんて言えないから…。徹は徹の、私は私の道をお互いに歩いて行くのがいいと思って」


彼女の話し方からは、時間をかけて考えた末にこの答えを導き出したことが伝わってくる。僕がいくらでも待つよと口で言うのは簡単だけど、自分たちの年齢や将来のことを考えると本当にそれを言ってしまっていいのだろうかと、心が勝手にストッパーをかけてしまう。

それにもし、彼女が向こうで良い人を見つけたら?たまに電話で話すことしかできない僕よりも、そばで支えてくれる人の方が彼女を幸せにできるに違いない。


大切な人のために、僕が出すべき答えは…


「…うん。わかった。別れよう。でも、出発するときは見送りに行かせて?」


僕は一番言いたくない、でも彼女の笑顔を守るためには一番言うべき言葉を選んだ。自分の口が、自分の意思に抵抗するように不自然に動く。


「うん。ごめんね、ありがと」

彼女はほっとしたような声を出した。僕に話をしてくれるまでに、彼女は一体どれほど悩み、考えたのだろう。それを思うとこっちまで苦しくなってしまう。


彼女は最後まで、いつもの優しい声のままだった。空港での待ち合わせ時間を決めてから電話を切る。いつのまにか雨は激しくなっていたようだ。僕は傘を持ち直すと、家への道を歩き始めた。




彼女が日本を発つ日は、生憎の曇り空だった。少し早めに空港の待ち合わせ場所に行くと、そこには既に彼女の姿があった。


「わざわざありがとね」


僕の姿を見つけると、彼女は大きなトランクを持って僕のもとへ駆け寄ってきてくれた。出発まで時間があったので、2人でたわいもない話をしながら過ごした。あの日電話でした会話は嘘だったのではないかと思ってしまうくらいに、いつもと変わらない楽しい時間だった。


小一時間も話しただろうか。

「そろそろ行かなきゃ」

不意に時計を見た彼女はそう言って、椅子からふわりと立ち上がった。僕も自分の荷物を持って腰を上げる。彼女は身なりを整えると、僕の方に向き直った。僕と彼女の目と目が合う。彼女のピンク色のくちびるが、開いた。


「じゃあ、行ってくるね。今までありがとう」


彼女は笑顔だった。彼女の心は決まっている。それを知った今、僕の言うべきことはただ一つ。


「元気で。……ばいばい」


僕は精一杯の笑顔をつくり、彼女に向かって手を振った。心の底から湧き上がってくるものを必死に抑える。彼女も小さく手を振り返すと、それ以上は何も言わずにくるりと背を向けて歩いて行った。僕も彼女も、本当に言いたいことを我慢している。言葉に出したら変わるのかもしれない。変えられるのかもしれない。それでもやっぱり言えなくて、もう振り返ることのないその後ろ姿を、僕は見送ることしかできなかった。



空港の外へ出ると、雨が降っていた。あの日と同じように、傘を差して一人で歩く。降り注ぐ冷たい雨が、傘を突き抜けて心にまで染みてくるようだった。



                                 〜End〜