ANDの才能
先日、嫌な話を聞いた。
うろ覚えで、細かいニュアンスは違うかもしれないけど、
ある学校で、先生が生徒に
「生活のために働くことと、世の中のために働くことのどちらを選ぶか」
というようなことをテーマで作文をさせたということ。
かわいそうに、多くの子供たちは、
「生きていくためには、お金が必要」という選択を強いられ、そういう作文を発表したという話だ。
この先生にとって、生きていくために働くことと世の中にために何かすることは、両立しないものになっているようだ。
もしかしたら、普通の生活をすることと幸せになることも両立しないのかもしれない。
思えば、子供の頃、お金持ちというのは、ひげをはやして、葉巻をくゆらせ、おなかもでっぷりしている人だと想像していた。
そして、だいたい、ずる賢く、ケチで、強欲で、いじわるで、無慈悲で、孤独だと思いこんでいた気がする。
一方で、心優しく、まじめに働き、正直な人は、皆、貧しく、いつも金持ちから搾取されている印象があった。
ディケンズの小説「クリスマス・キャロル」や、映画「メリー・ポピンズ」に出てくるお金持ちは、どちらもそういう典型的な悪い金持ち
が改心して、いい人になりました、というお話だ。
水滸伝や八犬伝にも、金持ちでひどいことをする悪人が出てきて、これを正義の義士がやっつける話だ。
そんな話ばかり、子供の頃に見聞きしてきたら、そういうイメージが出来あがるのも不思議ではない。
もちろん、そういう人もいるだろう。
でも、世の中には、裕福でも心豊かないい人も、貧しくて心もねじけて、いじわるな悪い人もいるはずだ。
世の中には、他にも、二者択一で物事を考えさせることが多い。
正しいか、正しくないか。
優しいか、優しくないか。
上か、下か。
白か、黒か。
勝ちか、負けか。
敵か、味方か。
子供に、決めつけの二者択一を迫るのは、教える方が、そのような人生観を信じているか、あるいは、そちらの方が子供を管理しやすいからなのだろうか。
勉強かスポーツか。
理系か文系か。
進学か就職か。
成功か失敗か。
まじめか不良か。
一方で、嬉しいことに、こんな先生のもとでは、育たないだろう、新しいスーパーヒーローも生まれてきている。
例えば、大谷翔平も(ピッチャーとバッター)、福岡堅樹(ラグビーと医学の道)。
二人とも、ものすごい量のトレーニングや努力をしていることで知られているが、それでも、望めば両方の道が開けることを示してくれたことは、素晴らしいし、ありがたいことだ。
今や古典といえる経営の本で「ビジョナリーカンパニー」(ジェ―ムス・C・コリンズ/ジェリー・I・ポラス)日経BP出版センター という名著があるが、その本に「ANDの才能」という挿話がある。()内は、僕が加筆した。
「ビジョナリー・カンパニー(いい会社)は、「ORの抑圧」に屈することはない。」
「ORの抑圧」に屈していると、ものごとはAかBnoどちらかでなければならず、AtoBの両方というわけではいかないと考える。
たとえば、こう考える。
「変化か、安定かのどちらかだ」
「慎重か、大胆のどちらかだ」
(中略)
「創造的な自主性か、徹底した管理のどちらかだ」
(中略)
「『ANDの才能』とは、さまざまな側面の両極にあるものを同時に追求する能力である」
(中略)
F・スコット・フィッツジェラルドによれば、「一流の知性といえるかどうかは、二つの相反する考え方を同時に受け入れながら、それぞれの機能を発揮させる能力があるかどうかで判断される」。
そう、2つのことは、その気にさえなれば、両立できるのだ。
誰もが、心掛け次第で、自分の「ANDの才能」を花咲かせ、豊かな暮らしをしながら、心も豊かに、人にも優しく、友人も多く、幸せに暮らすことができるのだ。
簡単ではないだろうが、
おそらく、大谷翔平の偉業ほど難しくはないだろう。