VOL.234 メガネ

 

小学生の五、六年生のころは、寝転んでマンガばかり読んでいて、母から

「眼が悪くなるよ」

と叱られたものだったが、その予言が当たったのか、あまりに何度もいわれたので潜在意識に刷り込まれたのか、はたまた遺伝のなせる業かはわからぬが、とにかく中二の時からメガネのお世話になることとなった。

 

 メガネをかけると、不便なことが多い。

体育の時間など、何をしても、メガネを気にしないといけない。

すなわち跳び箱、マット運動、鉄棒と何をやっても、メガネが外れる心配をし、

走るとメガネの鼻のあたりに汗がたまり、かゆくなったりする。

サッカーではヘディングの障害となり、プールでは、先生の顔も時計も見えない。

 学校の視力検査では、あの大きな字すら見えなくて肩身の狭い思いをしなければならない。(とはいえ、どうしても「それでは前へ進んで。ここからなら見えますか?」といわれたくなくて、視力0.1の最上段の三文字だけは暗記したものだった)

 冬は、ラーメンを食べるときも、電車に乗る時もメガネが曇って何も見えなくなる。

温泉に入るときは足元が見えなくてへっぴり腰になってしまう。

 眼のいい人はかけなくて済むメガネ代という余計な費用もかかる。

 キスをするときも邪魔になるのだが、かといってメガネを外すと下心が先にばれてしまう。

 

 今でこそ軽いメガネもたくさんあるが、当時はどのメガネも重たくて、気のせいか肩が凝った。

 今でこそ安いメガネもたくさんあるが、当時は結構な値段がしたものだ。

 今でこそ薄いレンズもたくさんあるが、当時は牛乳瓶の底といわれるぐるぐるメガネ(ちびまる子ちゃんに出てくる丸尾くんのイメージ)でかっこ悪かった。「伊達メガネ」などと、おしゃれでメガネをかけるようになったのはいつからだろうか。

 

 はてさて、かようにメガネには苦労させられてきたのである。

 

 が、そうはいってもメガネをかけ始めて早四十年。メガネ君とも長いつきあいである。眼が悪いことにもメガネにもそれなりの愛着とノウハウが積もってきている。

 

 例えば、この花粉の季節、気が付くとメガネにたくさんの花粉がつく。つまり、メガネをかけていなかれば、これが眼のなかに入っていたかもしれないのだ。同じように自転車やバイクを漕いでいて、眼のなかに虫が入ることがあるが、これもメガネで防げるのだ。 

 

 例えば、仕事中、交渉相手が難問をふっかけてきたとする。ちょっと考える時間がほしい。昔だったらマッチを擦って煙草に火を点け大きく吸っては煙を吐き出すところ。メガネをかけていたら、メガネを外して、フレームを口にくわえて目を細めれば「ただいま考え中」が演出できるのである。(しかもうまくいうとケビンコスナー並みにかっこいいかもしれない)

 

 当然、おしゃれもできる。眼がよくってもメガネはできるが、それはいかにも「あ、おしゃれ」になる。眼が悪い人は、これが自然とできるのだ。オンとオフの切り替え、服装とのコーディネートに加えて、ちょっとしたコスプレ気分にもなったりする。

 

 写真や映画の撮影で、わざとピントを外してぼやっと見せる手法をボケというが(英語でもBokehという)、例えば、夜のネオンなどはボケで撮影すると綺麗なものである。このフォーカスを外した画像を、眼の悪い人は、なんとメガネを外すだけで楽しめるのだ。ちょっとした深夜の飲み屋街も百万ドルの夜景に、深夜フライトで機内が真っ暗のときには、LEDの画面やところどころの照明がぼやっとして、それはそれはきれいなものである。

 

 昨今、ついに老眼も加わって、メガネ事情はますますエキサイティングになってきている。これからも人生パートバーの一つとして、楽しくつきあいたい。