NO.278 トランプ時代の世の中で

トランプ劇場が毎日開催され、今日も観客である私たちは、驚き、戸惑い、考えさせられている。

アメリカでは、歓喜している人もいる一方で、嘆き、悲しみ、憤っている人もたくさんいるだろう。日本では、

「さーて、今日はどんなことをしでかしたかな?」

とスマホやテレビのニュースを見るひとも多いだろうが、

とにかく

「世界は今後、どうなるんだろう・・・」

と、不安な気持ちが膨らんでくる。

まあ、とにかく「すごい」ことには、間違いない。

 

 そんななか、予想通り、

トランプ政権は、国連総会で

「アメリカはSDGsを拒否」するだけでなく、「非難する」といい切った。

それはそうだろう。

トランプ政権が目指しているものは、見事なまでに、SDGsの真逆だからだ。

 

貧困や飢餓をなくそう → 俺たちを頼るな!アメリカがgreatになればそれでいい。

エネルギーをみんなに、そしてクリーンに → DIG! DIG! DIG!

人や国の不平等をなくそう → 真っ当なアメリカ白人が損をしている!

パートナーシップで目標を達成しよう → 取り引きでアメリカを偉大にするという目標を達成しよう!

 

ある意味、すごく分かりやすい。

アメリカは、第一次世界大戦後も、同じように自分たちの世界に閉じこもり、周りに壁をつくって、栄光の1920年代を楽しんだ後、大恐慌を招き、それがブロック経済につながり、世界の不幸につながっていった。歴史は繰り返すというのか、歴史から学んでいないというのか、よくわからないが、いい予感はしない。

 

 ヨーロッパの伝統的な価値感のなかに、ノブレス・オブリージュという、財産や権力を持つもの(昔だったら王族・貴族)は、相応の社会的責任を持つ、という素晴らしいものがあったはずだが、トランプ氏とその側近には、この観念の代わりに「損得勘定」の価値観を信奉されているようだ。残念なことだ。

 

 こんな中、アメリカの一部では、国を頼らず、SDGsの理念を捨てずに、

困っている人を支え、環境のために、今まで以上の寄付が集まっているとのこと。また、民主党は、反転のタイミングを見計らっているとのこと(そのうち、仲間割れか、ボロを出す時を)。いろいろな意味で、「すごい」国だと思う。

 

 さて。
 ここで大切なのは、この状況下で、「私たち」が、どう考え、どう行動するか、ではなかろうか。

トランプ氏がSDGsを捨てるから、困っている人に手を差し伸べるのをやめ、未来によりよい地球を残すのを諦め、そのために、それぞれが自分の責任を果たすことを投げ出すのは、きっと「楽」で、「得する」ことであろう(SDGsは、損得でいえば、短期的には、大方、損)。

どちらが、私たち一人ひとりにとって、しあわせで、いい人生なのか、それを、あのおじいさんに、突き付けられているのだ。

 

 日本でも、今、自分の「得」のために、人を騙したり、苦しめたり、嘘をついたりする、嘆かわしい犯罪のニュースが連日報道する一方で、よりよい世の中をつくりたい、困っている人の助けになりたいと思って、汗をかき、声をかけ、お金を出すような「徳」のある人も増えてきている。(きっと、どこの国でも、両方いる。どこの国でも・・・)

 

自分はどちらになりたいのか、なるのか。

トランプやアメリカの行方はわからないが、少なくても自分の周りから、少しずつでも世の中は変えられると、僕は信じている。

 

 

 

VOL.277 アイディア出す方法

アイディアがどんどん出てきて、仕事やいろいろな課題がするすると解決したら、さぞ気持ちよかろう、と、特に物事に行き詰まると思う。

 

アイディアマンで有名だった本田宗一郎さんは、

「発明は全て苦し紛れの知恵だ。アイディアは苦しんだ人のみに与えられる特典である」

という言葉を残しているが、たしかに、ごろごろ寝転がってアイディアが天から降ってくることは稀だろう。

 

まずは、アイディアが出てくるためには、その土壌を耕さなくてはならない。

土壌とは、本を読んだり、人から教わったりして身に着けた、いつ役に立つかわからない体験、雑学、記憶の積み重ねのこと。大学のときに、いい加減に受けていた一般教養(リベラルアーツ)なるものを古代ギリシャ人が重んじていたのも、それがその先のアイディア出しの役に立つとしていたからだろう。ちなみに、古代のリベラルアーツ(自由人になるための教養)は、以下の七科目といわれる。

文法、修辞学、弁証法。 この三つは本や人のいうことを理解し、考えをまとめ、相手に伝えるための力を養う。今でいうならコミュニケーション力というところだろうか。

算術、幾何学、天文学。 この三つは、宇宙のルールや、物事の理を知ること、

音楽。 これは感性ということでしょうね。芸術全般も有効のはず。

現代では、美術や文学など、もう少し幅が広がるが、結局、すぐには役に立ちそうにない雑学(いろいろな知識。いいかげんな情報ではない)が、アイディアには、大切だということだろう。

 

それから欠かせないのが、自分の体験。いくら考え方や知識が増えても、それが体験と結びつかないと知恵にはならない。

どんな小さい仕事でも、下らない、と思っても、全力で丁寧に取り組むことで、知識は知恵に変化していく。

 

そして、こうした土壌からのアイディアがどこで、沸いてくるかというと、古代中国の方は、三上だといった。

馬上、枕上、厠上。

この三つに共通しているのは、どれもすぐにメモができないこと。

そして、あとで思い出そうとしても、あれ、なんだっけな、と、チャンスの神様みたいに去ってしまっている。

だから、車を運転しているときでも、

いくら春眠、暁を覚えなくて、布団の中が気持ちよくても、

排泄の途中でお腹が痛くても、

思いついたら、車を止め、布団から抜け出し、トイレにはメモの用意をしておき、メモを取るかボイスを吹き込むこと。

お風呂に入っているときは鏡に指で書いてもいい。(僕は、映画館で上映中に何か思いつくことが多く、暗闇のなかで、映画のチケットの裏にそれを書き込むのだが、映画が終わった後、なんて書いてあるのか読めないことが多くて困っている。枕もとに置いているメモも同じくで、これが読解できないのも、非常に悔しい)
思いついたものが、いいアイディアかどうかはやってみないとわからないけど、逃げた魚は大きく思うものだ。

そのぐらいの努力をしないでどうする!

 

また、アルキメデスやニュートンや本田宗一郎のような博識者なら、一人でアイディアが出てくる土壌ができるかもしれないが、凡人の私たちには、そうもいかないもの。そういうときのために、素晴らしいことわざがある。

三人寄れば文殊の知恵。

(ちなみに文殊菩薩様は、獅子に乗っておられるが、これを見てもやはりアイディアは三上で出るものらしい)

 

一人では、思いつかなくても三人の経験、知恵があれば、アイディアが降ってくることがある。この三人というのが、言い得て妙だ。二人だと足りなく、四人だとまとまりにくい。

 

しかし、アイディアを出すのに、何より大事なのは、お題を出すことである。

どういうアイディアが欲しいかが、わからなくて、ただなんとなく今の悩みから解放してほしいと願ってもアイディアは生まれない。

どうやって物の体積を図ればいいのか(アルキメデス)、

どうして地球上のものは地上にとどまっているのか(ニュートン)

どうやったら、もっと安全で馬力のあるエンジンが作れるのか(本田宗一郎)

コンピューターや携帯電話はもっと便利に、美しくできないだろうか(スティーブ・ジョブス)

まずは、求めているもの、お題、問、質問を明確にさせること。それができたら、それを土壌を柔らかくした脳にインプットし、時々、周りの人にも問いかけておくと、天からアイディアが降ってくる。

あとは降ってきたアイディアを逃さずに受けとめることだ。

・・・最後に、少し面白いことを書いて締めようと思ったが、どうもいいアイディアが出なかった。これをお読みのあなたなら、

どんな文を最後に加えますか? 

 

VOL.276 新年散策

 

我が家には、犬がいるので、お正月でも、どんなに寒くても、毎朝、散歩に出掛ける。

散歩は、運動になるという人も多いけど、犬は、あっちの電柱こっちの電柱と嗅ぎまわり、

ときどきシャーと用を足し、さらに時々大きい用を足し、こちらは立ち止まっているばかりで、

あまり運動になっている気がしない。

まあ、ビニールの袋越しではあれど、ウンを掴んでいるな、と、前向きに受け止めてはいるが。

 

新年は、人気もなく、静かな散歩が気持ちがいい。

特に、最近は、元旦はお店を休むところも多く、なんだか昭和の懐かしい正月を思い出す。

正月ぐらい、皆、休んでいいよね、と思う。

いつのまにか24時間、365日、お店を開くのがビジネス!みたいな風潮が広がった時期があったけど、

ヨーロッパなどは、今でも店休が多い。夜中営業なんてもっての他だ。

大体、正月でも、夜中でも、自分が働きたくないときに、人を使って営業するなんて、どうかと思う。

だから、僕は、深夜のレストラン、コンビニは行かない。

今からは、日本も人出不足で、徐々に、休む時は休む、というふうになっていったらいいな、と願っている。

 

ところで、店休のお店の入り口やシャッターには、たいてい、年末年始の店休のご案内が貼ってある。

一番多いのは、立派なカラー印刷のポスターで、印刷された年始の挨拶とともに

「〇日から、営業いたします」と刷ってあり、〇のところに、お店の人が手書きで仕事はじめの日を書き込むもの。

社交辞令的年賀状と同じで、印刷された文章は、ほとんどの人は読まない。

ああ、〇日からお店開けるのね、ということでは、用は足りている。

 

ときどき、

「大変、ご迷惑をおかけしますが、12月△日から1月□日まで、お休みさせていただきます。

まことに申し訳ございませんが、〇日から営業いたしますので、よろしくお願いします」

みたいな、謙虚なのか、不安なのか、よくわからない貼り紙も見かける。

本当は、お店を開くべきなのかもしれないけど、正月ぐらい休みたいし、バイトも集まらないし、

よそも休んでいるようだから、うちも休ませてもらおう、という空気が漂っており、

なんだか、大変そうだな、と同情を禁じ得ない。

 

一方、

「旧年中も、たくさんのご愛顧をいただき、心より感謝申し上げます。

今年も、〇日から新しいメニュー(または初売り、など)を用意して、皆さまのご来店をお待ちしております」

的な、前向きな貼り紙があると、

おっ、この店は繁盛してそうだな、今度行ってみよう、

という気になる。

そして、

よし、自分も今年は、感謝の気持ちを忘れずに、さらに前向きにがんばろう!

という気持ちで、新年の散策から帰宅する。

 

毎度、ブログをお読みいただき、ありがとうございます。

本年も、不定期ながら、読んで気持ちのいい、元気になるブログをしたためてまいります。

2025年が、皆さまにとって、健康で幸せな、いい一年となりますよう、お祈りしております。

 

 

 

VOL.275 正しい、正しくない

 

大学生の頃、清水義範という作家の「国語入試問題必勝法」という小説を読んで、

これを自分の入試の時に読んでおけば、国語の点数が10点はあがっていて、第一志望の学校に入れたかもしれないと

悔しい思いをした。

それほど、国語の点数が悪かったのだ。特に文学の問題がひどかった。

 

下線部の主人公の気持ちを15文字以内で表せ、や、

その時の情景としてふさわしいものを以下のなかから選べ、

といわれて、思った通りに書いても不正解。何度読んでも選択肢の中には、これは、といったものは無し。

正解を見ても納得ができず、先生からも

「あなたは少し感覚がほかの人と違うみたいですね」と言われて、

「じゃ、どうすればいいんですか?」

と聞いたら、

「漢字や古文漢文、文学史などで点数を稼ぎなさい」と

少し気の毒そうにいわれた。

 

冒頭の小説は、問題文を読まなくても正解はわかる!という革命的な必勝法で、感覚のずれた自分がうんうんうなるより、はるかに高い解答率が期待できそうな逸作。かなり昔の作品だが、もし同じ思いをされたことがある方は、ぜひ一読をお勧めしたい。

 

さて、こんなことを思い出したのも、先日、仲間と、世の中「正しい、正しくない」で、困ったり、争ったりしていることが多すぎる、という話になったからだ。

 

大きな話からすると、未だ世界中で起きている争いも、そうだろう。そもそも宗教に正しい、正しくないなんてありはしない。自分の信じる神様が正しいと思うことは、生きる上で強さややすらぎを与えられる素晴らしいことだが、他の神様が正しくない、他の儀式はおかしい、となったときから、摩擦がはじまってしまう。どちらの神様の始祖も、そんなことを望んではいないはずだ。

 

仕事も、確かにマニュアル通りにやりなさい、というものもあるが、何事にも臨機応変、イレギュラー、トラブルも起こるもの。ましてや、こんな環境が目まぐるしく変わる世の中で、以前つくったルールが「正しい」かどうかも、わからない。やったことがないことは、やってみないとわからない。失敗したとしても、正しくない、とは限らない。

一方で、自分でも正しくないとわかっているのに、小さな欲に振り回されて道を踏み外す人も増えていて、これも気の毒なことである。

 

でも、学校時代、あらゆる科目で、採点され、誰かが決めた「正しいか正しくないか」で、判断され続けてきたら、どこかに正解があるはずだという考えになっても、それは受け手のせいではなかろう。社会人になって、急に自分の頭で考えろ、だの、社会に正解はない、だのいうぐらいなら、学校で、答えは一つとは限らない、ということをもっと教えるべきではないだろうか。

いうまでもなく、教える方の力量、人間力ももっと求めれるだろうが。

 

と、いうことで、まずは、国語の教科は、書いてあることが読めて、伝えたいことが書ければいいので(実は、伝えたいことを話す、相手のいいたいことを聴く、こともすごく大事なので、ここは面接試験で見るべき)、

他の科目の問題が読めて解ければ、十分であって、小説や詩の鑑賞の仕方を一つに決めつけることには、百害あって一利なし!

 

もっといろいろな価値観を認めて、狭い「正しい、正しくない」だけで、物事を判断する習慣から脱することができたら、日本ももっと元気になると思うだが、いかがだろう?

 

 

 

 

 

 

****  VOL.274  AIと向き合う   ****

                                          2023年11月

 

 先月、アメリカのフェニックスというところに初めて訪れた。アリゾナ州というと、なんだか砂漠のまんなかのようなイメージを持っていたが、よくあることで、行ってみると、広い空港、6車線の高速道路、超高層ではないけど貫禄のある幅広のビル、とてもきれいな立派な病院、大きな公園や木々と、とても住みやすそうな都会だった。

 一方、この街は、今年の夏、19日連続で気温43度を記録したことでも知られ、現地の方に伺うと、いくら湿気がないとはいえ、とても外は歩けなかったとのこと。

(もっとも、日本の湿気のある38度よりはまし、ともおっしゃっていた・・・)

 

 さて、ここからが本題です。

 

 夕方、街中を歩いていると、上にサイレンのようなランプをつけた白い車をよく見かけた。タクシーの台数よりは少ないが、パトカーよりは、はるかに多い。ほかの車のスピード同様に走り、右からも左からも、ほかの車と同様に走る。

何が違うかというと、車のなかに誰も乗っていないことだ。

無人運転車のテストを一般車道で行っているのである。聞くと、もうすでに3年ほど前から始まっているし、アメリカでは、他の数都市で走っているという。もう珍しくない風景なのだ。

 中国では、すでに市内でテスト走行をしていると聞いていたが、あそこはああいう国家だからと思っていた自分の無知無学を深く恥じた。

 

とはいえ、しばらく走っているのを見ていて、あれだったら乗ってみたい、タクシーも最近、どの街でもつかまりにくいけど、あんなタクシーだったら、乗ってみたいとも思った。

 もちろん、安全の確保や、万が一のときの補償や法律問題などの整備はいるのであろうが、

少なくても海外では、無人タクシーが早晩登場するだろう。乗り方は、みな、UBERですでに慣れている。海外で人相の悪い運転手のタクシー(意外といい人だったりすることもあるけど、やはり少し怖い)に乗るよりずっと安心な気がする。

 

 そして、同じようにAIを搭載し、会話し、人間同様に「自律的に」動き、働くロボットも近いうちに現れるのだろう。古代から、いい悪い、好き嫌いは別として、文明は前にしか進まないし、新しい文明を早く身につけた者たちが、力を得ることは歴史が示している。

そして、とても残念なことがら、それは戦争の場で試されることが多い。

 

鉄砲が入ってきたときに、それを研究して、作り、使った人と、そんなものは、と見向きもせずに、弓矢や刀剣に磨きをかけた人がどうなったか、私たちは知っている。

インターネットが広がりはじめたときに、あれは人間を愚かにする!、といって抵抗した人は、もしかしたら正しかったかもしれないが、時代を止めることはできなかった。

 

 そして人工知能が、自分が知らないこと、考えつかないこと。わからないことを教えてくれる時代は、すでに来ているのだ。

 

 先ほど、「自律的に」としたが、先の未来は別として、当面、AI人工知能は、膨大なデータをもとに、発言、行動を決定するようになっているらしい。AIの答えには、正しい、正しくない、善い悪いは無い。

AIは、過去の人たちの発言、行動による多数決なのだ。

 

多くの人が善意で行動すれば、AIも善意の行動を起こすが、多くの人が悪意とはまではいかなくても自我で動けば、AIもそのような行動をすることになる。そこには、良識の判断は存在しない。鉄腕アトム*や人造人間キカイダー**のような良心回路は、まだ開発されていない。

 

<鉄腕アトム*や人造人間キカイダー*  興味のある方は、ぜひ検索。出来たら原作を読んでいただきたいです。今こそ、そして大人が読むマンガかもしれません>

 

AIに限らず、あらゆる文明を率先して開発し、使う人は止まることがない。できたら、自分も便利に使う方になれたらいいが、いつのまにか、自分の人生がコンピュータによって支配されるような目にはあいたくない。

 

それでは、フェニックスで自動運転にびっくりしているような、小市民の自分はどうすればいいのだろうか。

 

まずは、目を背けずに、AIを知ること。

どのような仕組みになっていて、誰がどのように使っていて、どのように使うのか。
 

そして、(大多数の意見にかかわらず)、何が善いことなのか、人を助け、しあわせにするのか、世の中をよくするのかを判断できる知識と心と、それを行う志を持つことだろう。

それを怠る人が増えると、自分では考えずに、身近な不満を誰かのせいにすることが多数決となり、恐ろしい結末を招くリーダーを生む恐れがあることは、第二次世界大戦前のドイツと、そして今の世界を見ての通りだ。