水邑尹と年表 | また、晴れた日に君と。

また、晴れた日に君と。

△龍と狼とのスピリチュアル探求の暮らし△

私が今でも生き残っている事は、とっても小さいけれど割と奇跡なんじゃないかなと思って居ます。

 

少しツライ事が書いてあるかもしれないけれど、決してネガティブな意味で晒してみたわけではありません。

 

全てが華麗なる私の戦績です。

 

負けや引き分けの時もあったかもしれませんが、生きてる事が結果であり、

 

神が生きている間に、「君はここまでよくやったよ、もう終わり」というゴールを1度、設けてくれたと思って居ます。

 

 

ですから、死を迎えずして、ちょっとした達成感を持って生きているのです。

 

 

0歳以前と0歳~

  • 生まれる前、誰かに「どうしても行かせて欲しい」「絶対に普通の女性として幸せになって見せるから」と懇願して、その後飛び出すように、暗い中を斜めに下りながら凄いスピードで通ってきたのを覚えています。
  • その様子は、少なくとも私がその時に生まれる事を許可されていないという感じだった。
  • のちに知人の段取りで初めて霊視を受けた時に「神(?)がやれるもんならやってみなさいという感じで、問題ある男性をぶつけてきている」と言われ、実際そうだった。
  • 茶処にて、学生結婚した父と母の下に生まれる。
  • 一応の母性は持っていたようだが、母親も人間として未熟なタイプだった為、嫁入りした形で祖父母や、周囲を囲む親せきと、私を抱いたまま時折衝突し、それがとても嫌だった(記憶)
  • 5か月頃、立とうとして立つ(早く立ち過ぎた事が原因で足の関節の向きがおかしくなり、少し歩きづらい)
  • よたよた歩きが面倒だったようで歩行器に入れられる。当時「なんだこの面妖なものは」と思った。
  • この時期の父親の記憶は全くない。
  • 働いていた祖母がお土産によく「ライスチョコ」や「グリコのスポロン」をくれ、味噌っ歯街道まっしぐらだった。まだ可愛がられていた。
1歳~幼児期
  • 父親の多方面への意識の低さ、母親と親族の視野の狭さや、幼さ、拙さにより、問題が起きても片づける事が出来ず、衝突が増える。
  • 2歳で離婚する事になった。
  • その話し合いの席には、両家の祖父母もそろい踏み、ピリピリした感情のぶつけ合いになる。(なんとか収めたく、嫌だったのでソファの上で子供らしく跳ねてみたりしたが、どうにかなる事はなかった)(10年程のちに母方の祖父母と再会した時に、実は包丁を持って行ったと言われ胃が痛くなる)
  • クリスマスのお菓子の長靴を、赤でなく緑を選んだら「変わった子だね」と言われ、普通を選ぼうとするようになる。
  • どんどん人間が嫌いになる。
  • 子供がおどけた所でもうどううにもならないと解る。
  • 心を許した家の前に住むお婆さんが亡くなり葬式に出たら、大人にぶつかられ古井戸の上に倒れたが、木の枝があり落ちなかった。
  • 優しかったお婆さんが死ぬ事を知って、泣きながら死んじゃうって言ったら祖母にとっちめられた。(後になり、長谷川さんちの爺ちゃんや、政治家中川一郎さんの死因を言ったら、祖母に気持ち悪がられるようになった。少し大きくなると人が死ぬ事は解らなくなったと思う)
  • 蝶より少し小さい位の金色のものが畑で見えていた。
  • 私は父方に引き取られ、母親は居なくなり、他の者は働いていたため、片目が見えない父方の祖父が面倒を見るようになった。
  • 爺ちゃんは当時まだ理解されていなかったパーキンソンになり、アル中だなどと色々な人に言われ(時代性が絡む人間性の低さ)、傷付きながらも、専門医がいた長野県まで受診に行き、近くの湯治場で1週間程湯治し変えるという生活を繰り返していた。水邑は赤ん坊ながらに同行し、確かに居場所はあったし愛情を示されてはいた。
  • 1度目は確か幼稚園に上がる前、母親に連れ去りにあう。
    (興信所や今や言えない方法で、場所を特定し祖母と親戚数人で突入してきた。)名古屋か世田谷。
  • 連れ去られ先は小さなアパートで、風呂はなく、よく流しのシンクの中で洗われた。母親と居られるのが嬉しかったが、後から聞くと、乗り込んできたうるさがたの親戚たちが、やせ細り汚くなった私を見てみんな泣いたそう。
  • 2度目の連れ去り、名古屋か世田谷、やっぱり捕まったが、母親はホステスか何かをしていたようで、夜となりの家に預けられた。その時に、どうしていいか解らず固まっていると、隣の家の母親に「可愛くないね!」と言われ、余計に動けなくなった。これは見事なトラウマになった。
  • 2度目も、明かせない手法でたどり着いた父方の家族に助け出される。夜中に親が帰ってくる事だけが支えだったし、今思えば助けられてよかったのだと思う。死んでたかもしれない。
  • この辺で祖父の私への管理が厳しくなったと思う。叱られて、田んぼ2枚分離れた所にリュック持って家出したら、マッハで迎えに来た。
  • 父親が誰かは知ってたが記憶はほとんどない。
4歳~
  • 3度目の連れ去り。今度は近かった。おそらく所沢だったと思う。その時は、なんと父親も来ていたから、もしかしたら復縁するつもりもあったのかもしれない。でも、両家にバレて連れ戻され。最後の逃避行が終わり、その後母親からコンタクトは無かった。
  • 頼みの綱だった爺ちゃんは寝込む事が増えた。1月のうち、半分は起きて半分は寝込むような状態、おやつなんてなかったし、腹ペコの時間が増えた。
  • それでも小3位までは食事も毎日あったとおもう。
  • よく親戚のおばさんが「尹とちゃんなんかあげちゃって、新しく結婚したらいい」と言われて、見下された気持ちになった。団塊以前の世代の嫌いな所はこういう所。
  • 違うテレビが見たいと言ったら、父親に床についていた手を踏まれ、指が曲がったり、投げつけられたランドセルで顔を怪我。
  • 幼児性もちゃんとあったが、気付いた時から頭が大人な分、環境になじめずどんどん人が嫌いになった。
  • それでも社会的に関わらないとならない園児仲間や、地域の人には接していたが、無理して作った自分だった。
  • その頃心を許せた幼稚園からの友達と、まだ仲良くしている。
  • 小3で一度目の殴打系の暴漢に遭った。同級生の●チガイだった。上履きが入った上履き入れで数十分にわたって殴られて、一度目のむち打ちになり、身体の機能の低下と目が見えづらくなった。
10歳~
  • 親族から性的被害を受ける(行為まではいかない未遂の部類)。祖母に言うと、その日からなんだか態度が変わった。父親は何もしてくれなかった。
  • 祖母が明らかに私だけに粗末な食事をとらせたりするようになる。なぜ祖母が私にそうなったのかは、書けないけれど察して下さい。
  • 当初はからかわれていたお酒を、祖父が本当に浴びるように飲むようになっていて、家庭が崩壊し始めていた。いつも怒声と酒の匂い。半月経つと何事もなかったような日々に戻る。
  • 家族に言われて、学校から帰ったら二階の部屋に鍵をかけて過ごしていた。遊びにもいけないし、外を見て毎日空想したりしていた。
  • 二階に追いやられて汚いから、だんだんあまり仲良くない同級生に嫌われる。落ちた柿のような酒の匂いもしていたと思う。
  • 小学生にとって汚いはいじめの始まり。一部から悪口を言われる。大人になって事情を知った人たちから謝られたが、あまり許してないし、他人でストレスを解消しようとするのは最低の行為だと思って居る。だが、どうでもいい人達だから、どうでもいい。
  • 我慢できなくてトイレにいったら、おじいちゃんが風呂場で水のシャワーを掛けられ父親に怒鳴られていた。祖母はしてやったりという顔をしていて嫌だった。
  • 爺ちゃんがとうとう縄で縛られて病院に連れて行かれた。アルコールの中毒として入院させられたが、ベッドに縛られても大きな声を出し帰りたいというので、追い帰された。そんなところに居るより、家に帰れてよかった。どんな爺ちゃんでも、2歳から育てくれ、ごはんを作ってくれた爺ちゃんが紐で縛られていたのは悲しくて見ていられなかった。
  • 苛立ちからか、祖母からわざわざ特に痛いであろう素足の腿をむき出しにされ、平手で何度もたたかれたりする事が増えた。
  • 10歳くらいには既に、野菜や冷蔵庫にあったものや、貰い物の乾麺を茹でたりして食べて過ごした。
  • 夕飯が黄色いごはんやトマト2個などになってきたので、勝手に畑から野菜を取ったりして食べるようになった。少数いた鶏小屋で、穴が開いてしまった卵を鶏から頂いて食べさせてもらった。父親は刺身を食べたりしていた。祖母が何を食べていたかはもうあまり覚えていない。忘れたかったと思う。
  • 五年生になり、非常に苛烈な状態の帯状疱疹で動けなくなった。腕には殆どなかったが、お尻の位地から首位まで広い範囲を一周に近い程のケロイド状態が覆いあまりにも酷かったので、多くはないが死ぬ可能性もあったと言われて怯えた。○衛医大の見解では、暴漢少年の親が認めないおかげでいくつもの病院で検査され、短期間に何度も何度も撮られたレントゲンの放射能が原因とのことだった。子供がこんなに酷い症状が出る事は稀だからと、高熱でグッタリしていたが、両腕を持たれて宇宙人みたいに丸く窓があるステージみたいな部屋で、たくさんの学生に見られながらたくさん写真を撮られた。胸が膨らみ始めて居たのでとてもイヤだった。
  • 四年生か五年生の時に、父親がスーパーで1000円位のぬいぐるみを買ってくれた。嬉しかった。
13歳~
  • 中学に入り、強く口に出せるようになったので、一応は風呂も入れたし、好きな時に歯磨きも出来た。
  • 爺ちゃんが、酒屋のツケなど身の回りのことを片付けて、お正月に窒息死した。元々気管支炎でタンが切りづらかったことが原因だと検視で言われた。笑顔で死ぬ窒息死などない、意図的にそうした自死だと思った。年末に、どうしてうちはみんなでお正月が祝えないのかと私が言った事が原因だったかもしれない。でも数年経ってそんな私に「ありがとよ」と言いに来た(お盆)。(爺ちゃんに対して)間違いは誰にでもあるし、私はこの人にどういう形でも愛情を貰っていたのだと涙が止まらなかった。
  • 元々理屈ポイ人間だから、家族も含め、色々な正しくない事が許せなくなっていく。思想が強くなり、教師も言い負かすようになる。話した事は殆ど無かったが、同級生の腐ったミカンをけしかけて殴らせたうえに警察を呼んだ教師を許せず、何度も抗議し中学生のくせに流れ弾停学になる。
  • 家に帰るが鍵を閉められていたりしたので、だんだん帰りが遅くなる。何をしてたのか覚えていない。どこかで時間をつぶした。一度夜中に帰ると、父親が何しているのかと怒ってきた。祖母がカギを〆て入れなかったと伝えるが、信用されず、祖母が後ろでニヤついていたので、「いい気になっているけれど、もっと年を取った時にすっかりお返しさせてもらうよ」と伝えた。一応それ以降締め出しは無くなった。
  • ずいぶん年上の恋人が出来たら、クラスの人が口をきいてくれなくなった。同じようにまだ生理がないだけでいじめられていた人が、ここから飛び降りて一緒に死のうと言ってきて引いた。
  • 中1でアコギ、中2でエレキをお年玉で買い、音楽に逃げ込むようになる。
  • 停学になったものの、勉強した所が殆ど試験に出た為、新入生代表で賢くはない高校に入れた。その位になると、親も婆さんも対応がなんだか変わってきていて、登校におにぎりを作ってくれたりした。たぶん、私が無茶苦茶危ないやつに思えて来たからだと思う。人はどのような力にでも、力には弱いと思う。思想バリバリのパンクだった。
  • 高校時代に、いわれも無い事で、自分に対して急に態度を豹変させる人が居る事に気が付いた。加えて急に訳が分からないタイミングで泣きながら謝ってこられたりするし、理解不能だった。
  • この位からストーカー的な人が現れ始める。下駄箱に、上履きに○○しました。○○下さいなどの手紙が入り始める。
  • やっと本気で好きな人が出来て、付き合い始めたが、音楽上のお友達だった、2歳年上の友達が性関係を持ってしまい、心が壊れるのではないかと思う程のショックを受けた。(1回目)
  • アルバイト先(ガソリンスタンド)によくくる中学の先輩に車で拉致された。もっと年上の先輩が私と付き合いたい事を公言していた事で、肉体的被害は受けずに済んだ。薬物か何かで気持ちが大きくなったのだろうが、謝罪後解放された。これ以降、髪をショートカットにした。
  • やっていたバンドを対バンで知り合った友達とバンドを組むことにした。メンバーが決まって曲を作ったり練習し始めたりした。その子じゃないとダメだったし、私じゃないとダメだった。一緒に居たらナニカ起きる気がした。待ち合わせに行ったら、違う友達が待っていてくれて、死んだ事を聴かされる。不審な点がたくさんある交通事故で亡くなっていた。心がぽっかりで何もできなかったが、その夜初めての心霊現象に遭った。友達は、一番に私の所に会いに来てくれたんだ。でももう音楽は止めた。
  • 一度心霊現象に遭うと、そういう事が増えると聞いたが、本当だった。
  • それとこの頃、誰かに試されている気がしてたまらない毎日だった。(試しているのは自分なのかなぁ?と思って居たけど、生きがいの創造を読んだ限り、自分で間違いないなと思った)
  • 2度目の暴漢に遭う。隣の駅から、そんなに遅くない時間に歩いていると、自転車で近寄って来た男がとびかかって、殴り掛かって来た。最初は声が出なかったが、薬物をやっているらしく、非力でぜんぜん痛くないと気が付いて、たすけてーと言うと逃げた。その声を聴いて、近くの家の人は気が付いたが、家の雨戸を閉め始めた。人間てそうだよな、知ってると思った。
20歳~
  • 何もやる事が無いので格闘技を始めた。女だから、半年ほど誰も口を聞いてくれなかったが、人の練習を見て覚えた。勝手にできるようになったので、認めて貰えるようになり、ジムの近くに仕事を辞めて引っ越した。
  • ジムの人を好きになった。人生2回目の好きな人だった。関係性は伏せたまま、家を行き来するようになり幸せだったが、相手がまた私の親友(恋人がいた人)と肉体関係を持ってしまう(2回目)
  • 私の親友は、ジムの会長の奥さんと飲み友達だったようで、ジムの会長の奥さんからだいぶ嫌がらせされた。今思えば精神障害になっていたと思う。同じ事ばかり言って止まらなくなり、体も細くなっていた。可愛がってくれた近所の定食屋のお母さんに精神を支えられた。
  • 周りの人の対応に、心は傷付いたままだったが、別の男性と付き合い始めた。いい人だったから幸せだった。お互いスポーツをしていて貧乏だったけれど、5年一緒に住み、相手の大学卒業で別に住むことにした。(1人子供を育てたような気持ちになり、5年目に別れたいと言ったが、死ぬと言うので、そんなに好きになってくれたのなら人生をあげてもいいかとまた付き合うが、8年目、私が交通事故であまり動けなくなっている間に連絡が取れなくなった。)
  • ↑の恋人と付き合い始めて1年目、ストーカーが2人湧いた。1人はアルバイトしていた所の近くに住む人で、もう一人は家の鍵を開けようとしている時に手首をつかんで来たおじさん。
  • もう1人、雨の日になると私のアパートの窓の向かいに傘を差す人がよく立っていたのだけど、あれは生きてない人だったかもしれない。よってカウントせず。
  • ストーカーおじさんが私の留守を見計らって家に入って来て彼氏さんが遭遇、引っ越した。
  • ストーカー対策として、半同棲から完全なる同棲にして貰い、どの窓からでも逃げられるように1階の平屋のド古い家に引っ越した。
  • 斜め後ろのお宅が、やたら関わりを持とうとしてくるなぁと思ったら、ある宗教をやっていて、「集会に参加しないか」と言われた。断ったら嫌がらせがはじまった。
  • 家の壁を周りながら叩いて回る、家のとても小さな窓(古い家だから鍵がない所があった)を外から開ける、車に雪かき帚で傷をつける、カーテンを開けて此方の出入りなどを監視するなどの嫌がらせがあり、知人が来た時カーテンから監視している様子をリアルに見て腰を抜かした。(最終的には、自分の車の後ろに、子猫の遺体を置かれる所までやられた。人間か猫かの違いだけでオ○ムとやってる事は同じだと思った。)
  • 交通事故に2度続けて遭い、1度目は車も私もほぼ無傷(信号無視のシャコタンが四駆車の下に横からスポッと入ってきた)。2度目はスクーター搭乗時だったので、ちょっと飛んだ。死んだと思ったが生きていた。首と背骨に後遺症が残った。
  • 社会人になってから学校に通い直していたが、事故があってから、体のみならず授業が理解できなくなり卒業は出来たが後半殆ど休んでしまった。後で損保に入社して知る事になるが、高次脳障害だった。具体的には演算能力(小銭の計算なども)が完全に幼児レベルの速度になり、数字自体が完全に不得手。人の名前が全く分からなくなった。顔も声も遊んだ内容も覚えているのに、名前が解らないのだ。これは後々、時間と、強制的に使っていく事でマシになっていった。そんな事もあって30手前の頃の記憶は少し薄い。
  • 20代の後半は、女が嫌いで局部を切り落としたいと言っていた男の友達に「君は女みたいにズルくないから好きだよ(褒めたつもり)」と言って貰え?、性別に関係なく仲良くして貰った事で心が救われた事が何度もあった。今でもありがたいと思って居る。
30代
  • 筋肉とは凄いもので、事故の後は何とか動いていたが、筋肉が落ちていく事でどんどん体が弱まって行った。
  • 同じ敷地内に住む宗教一家のおかげで、すっかり精神的にも参っていた。例えば真夜中にドアが開いてないかガタガタと入って来ようとする振りまでされていた。
  • ストーカーと思われる人は風呂に入っていると傍に居ると言う事を示すためか、鈴を鳴らしながら家の周りを周ったりしていた。
  • 塀で囲われた同じ敷地内に9軒あった貸家の、他の家がだんだんと引っ越して行く中で、いつから居たのか、毎度置いていかれては、居残っている次の家に餌を貰っていた猫たちが、とうとう私に助けを求めて来た。猫の集会を見せて貰ったり、なかなか神秘的な思いもした。
  • そんな中、猫たちの生んだ子猫が宗教一家に殺されて、私の車の真後ろに遺体として置かれる事態が起きて、精神的に参りきってしまった。
  • 心身共に参ってしまって、実家に手紙を出した所、父親が引っ越しを手伝ってくれ、実家に帰る事になった。色々後悔したりしたのだろう、その頃は本棚に「アダルトチルドレン」と冠する本が並んで居たりしたが、「家族なんだから困った時は言え」と初めて父親らしい事を言ってくれた。
  • 猫たちは、何度も餌をくれた人達が、四角い乗り物にのって自分たちを置いていくという事を知っていたようで、搬入中から、トラックの助手席に乗り込んで来た。友人たちを放置して行く事は出来ないので、元々室内で飼っていた6匹の猫たちと一緒に、実家に連れて行く事にした。
  • 実家に帰ったが日に日に弱って行った。
  • 長らく付き合っていた人とも連絡が付かない。
  • 4日や5日食事すらとらない日が幾度となくあったが、家族は別に何も言わなかった。(父親は働いているからその事態は知らなかったと思う)。祖母は「死んじゃうかと思った」などと言っていた。
  • とにかく枕から頭が上がらないし、いつも船酔いしているような状態だった。苦しければ苦しい程、事故相手を憎んで憎んで憎んで、それまでの人生の負も全てそこにぶつけるように憎んで過ごした。ループする思考を切る切っ掛けすらなかった。
  • そんな過ごし方をして数年、30代も中盤になった頃、明け方急に目が覚めて、よろよろと1Fのトイレに降りた。用を足し、階段がある玄関前に向かうと、急に外に出てみたくなった。ドアを開けると、世界は金色のベールをかぶせた様な色で、綺麗だなぁと空を見ると、空から1枚の白い羽が降って来た。まるで天国が頭上にあるような気持ちになり見上げたが、雲一つない空だった。全くの無風だった事もあり、とても高い所から白い羽が地面まで、素晴らしくゆっくりと下りてきて、状況に圧倒されていると、また少し位置がずれた所に、タイミングをずらして2枚の白い羽も降りて来た。その朝の3枚の白い羽に、私は「許された」ような気持ちになり、何がかは解らないが「全て終わったんだ」と思った。(後で考えると、確か4時頃?見た目的には6時過ぎ位の空だった)
  • 薬局に頭痛と首の痛みを取るための錠剤とエアサロを買いに行った。女性の薬剤師さんが「この薬飲むと少し楽に過ごせると思う。私も使ってる」「あんまりにも辛そうだったからつい声かけた」とある滋養強壮剤(高い)を勧めてくれたが、これでブーストがかかり、もう一度社会復帰する初めの一歩になっていく。(薬は、スノーデン社のプラセントップ錠)
  • なんとなく歩く練習を始める。以前の倍くらいかかったが練習し始めると、どんどんマシになっていった。
  • 相変わらずベッドから頭を上げる事はスムーズにいかないが、週に1~2回位のアルバイトを初め、体力に合わせて日数を増やし、最終的にフルタイム勤務の会社に入社し社会復帰を果たす。
  • そこで働き2年後くらいに、友達が霊能者さんの予約を取ってくれ、数百年ものの大物2体が合体して憑いている事が解り、祓う。
  • 憑いてるのが体質になっていたから、何度かお祓いを繰り返したが、どんどん暮らしも体も良くなっていき、それと共に、神々しい体験なども起き始める。
  • 子宮頚部を切除する手術を行う予定だったが、最終的にカットする位置を決める為の検査で、数値が大幅に下がっている事が解り手術を回避する。待合に戻り祈り手になり「すべての神に感謝します」と言う言葉が自然と出た。病院の駐車場に戻ったら、運転席の横に、あの日のように『少し多めの羽』が置いてあり、「ああそうだった、いつだって護られていたんだ」と思った。
(鳥ちゃんかと思い動揺してHipstaで撮ってしまった)
物語は、つづく