宮崎駿さんの作品は昔は好きだったのですが、最近はメッセージ性を前面に出しすぎてるせいか、あまり楽しめず、ここ最近の何作かは観てないです。

先週末、「千と千尋の神隠し」が地上波放送されてましたね。金ローでやるたびにネットが大騒ぎになりますから、改めてスゴイ作品だなと思います。

ただ僕の中で、宮崎作品の終わりはこの作品なんだと思ってて。

ハクを助けるために行動する千を見て、釜爺が、「愛じゃよ」って言った瞬間に醒めてしまったんですよね。

「愛じゃよ」をあえて言わないで、「愛じゃよ」を伝えるのが、映画屋さんの仕事なんじゃないの?それを言っちゃあおしめぇよ。そこに愛はあるのかい。なんて感じてしまったんですよね。

確かに面白い映画だけど、メッセージを伝えることに必死で、エンタメとして成立はしてないのでは?なんて感じるわけです。

ちなみに一番好きなジブリ作品は「紅の豚」です。あんなふうなカッコいい豚になりたいな。なんて思ってたらタダの豚になってました‥


さて、タイトルのカオナシ。脇役の中でもかなり強烈なインパクトでしたよね。

カオナシには昔から親近感があって、かなり自分に似てるなと。

自分にはなんにも無いのに、人からもらったもので他の人の気を引き、いざなんにも無くなってしまうとまともなコミュニケーションすらとれなくなる。俺、一緒じゃん。

さすがにあそこまで暴れ回りませんけど、千の気を引くためにやってることとか、普段の自分と同じなんですよね。

これも、以前に書いたことがあるように、なんにも「持ってない」からなんだと思います。

カオナシみたいに何かを飲み込んでそれになりきることは無理でも、何か、または誰かを模倣してそれっぽく振る舞うことはできます。砂金は出してあげれないけど、ご飯ぐらいは連れていけます。

結局、自分が無いので、なんかしらの他のコンテンツに頼らないと人間関係って構築できなくて。

でも、JWだった時もそうだったなー、なんて思い返すんです。自分が開拓者でも奉仕のしもべでも無くなった時に、会衆の人の目を見て会話できなくなったり。結局、肩書き頼りのコミュニケーションしかできなかったんですよね。


なんの肩書も無い自分に、多分、人の真価が問われるはずです。カオナシも、最後は地道に仕事をするところから自分を見つめ直してました。

カオナシ脱却。人生の目標にします。