「先生のジレンマ」という『論理的に説明しても相手が納得しない状態』が成立しない条件を考察しました。ということは、逆に「先生のジレンマ」の状態になってしまうのは、前出の条件を否定した状態であるはずです。
すなわち、
 
 1.互いが対等の立場である。(権力構造は無い。)
 2.互いに議論の内容に対しての知識・信念・価値観をもっている。
 3.相手に理解できない、異なる価値観に立脚した言葉や論理構造を用いて議論を進めている。

 上記の条件を並べてみますと、一見して、「議論がかみ合わないのは当然ではないか」と思えてしまいそうです。しかし、ほとんどの「議論」の場では、この3条件が成り立っているのではないでしょうか。

 上記の3条件を、もう少し詳細に検討してみたいと思います。
 実はこの3条件を当事者どうしがちゃんと認識していれば、合意を得られる可能性があります。
 結局の所、多くの「かみ合わない」議論とは、お互いに「自分の方が立場が上」だと思い、「相手も自分と同じ価値観を持っている(持つべき)」だという信念をお互いが持ち、相手の言葉を理解しようと努めません。
 議論とは本来、「互いの立場は対等」であり、「お互いにそれぞれの価値観」を持っています。それゆえ、自分の価値観での言葉は、相手には「理解できない」ものであることもしばしばです。だから、この3条件は、議論の『初期条件』とでも言えるものなのです。議論はここから始まり、それが合意に至るか、至らないかは、議論の流れと、論者の意識(特に後者)によってその方向性が決まります。

 もしも議論が3人以上で行われていれば、かみ合わない議論を決着させる一番手っ取り早い方法は、「多数決」です。そして、それが「民主的」な方法なのだとされています。 実際これが、民主主義が「数の理論」だと言われる所以で、同時に民主主義の弱点でもあります。つまり、民主主義においては、必ずしも論理的により「正しい」議論が採用されるという保証はありません。
 「論理」ではなく「数」が優先される、そういう側面を民主主義は持っています。
 このことは結局、多数決とはマジョリテイがマイノリティに対して行う政治的テロリズムになり得ることを示しています。
 この「多数決」の限界と危険性については、民主主義を提唱したヨーロッパの啓蒙思想家達は早くから気付いていたらしく、例えばルソーなどは、「一般意志」という概念を示して多数決が成立する条件、すなわち民主主義の条件を示しています。(例えば、ルソー『社会契約論』)
 
 念のため申しますが、僕は民主主義を否定しているわけではありません。
それよりむしろ、民主主義のこのような弱点を浮かび上がらせ、それを改善していくことで、僕たちの世界をより「民主的な」方向に向かわせたい、そう願っているのです。