(2002年10月に書いたものです)


 NHKの「クローズアップ現代」という番組で、日本の大学生が、中国の機械工場に2週間ほどの研修に行って、自分自身の目標や、働くということの意味を深く考えるようになったというリポートがありました。

 研修に行った大学生が、それぞれ、自分なりになにがしかの得るものがあったのなら、それはそれで有意義な事だと思います。でも、見ていて少し気になったのが、大学生達の反応は、概して「中国の若者達はしっかりしているのに、自分たちはふがいない」という反省の念にかられていたように思えたことです。
 例えば、女子工員に話を聞いていた一人の女子学生は、工員たちが田舎の両親をとても大切に思い、給料の半分を仕送りしていることに愕然とし、自らを省みて「言葉もない」という思いを述べていました。
 
 しかし、彼(彼女)等には、こう考えてほしいと思うのです。「なぜ中国の若者達が『しっかりして』いて、日本の若者(自分)は『ふがいない』のか。」もっとつっこめば、「中国の若者は『しっかり』しなければいけない状況にあり、日本の若者は『ふがいなく』ならざるをえない状況にあるのではないか」という問いを持ってほしいのです。
 そしてできれば、そこで用いられている『しっかり』も、『ふがいない』も、社会的な構造において発生しているという意味では、同等である、ということに気が付いてもらいたいのです。

 中国の女子工員達、ほとんどは中学校を卒業したばかりの人たちだそうですが、彼女等の多くは、田舎から徒歩で、工場のある街までやってくるそうです。それこそ、2000km、北海道から沖縄までの距離を何ヶ月もかけてやってくる事も、めずらしくないと言います。
 彼女たちを歩かせているのは、工場というリアルな目標です。働く場所、賃金、そしてそれに伴う「豊かな」生活です。
 では、日本の若者は「歩いて」いるのか。
 彼らの目標は、すでに「豊かさ」ではない。仕送りなどしなくても、親は十分に生活できる。「豊かさ」の中にいて、どこに向かって「歩く」必要があるのか。(度を超した「豊かさ」があると、人は快楽やフェティズムに向かうという。まあ、あまりそういう文化人類学には詳しくないが、週刊誌の見出しを見ていると、さもありなん、と納得してしまいます。)
 
 日本は、中国の「工場」のようなリアルな目標を、若者に示すことができなくなりました。もっとも、それは日本が「豊かに」なったこととだとも捉えることができます。
 
 「今の若者には『目標』がない」という嘆き節を方々で聞きます。しかし、それは一概に若者のせいとするのはいかがなものでしょうか。逆に、昔の若者に、たとえはっきりした『目標』があったとしても、それは今の中国の「工場」のようなもの、つまり、「豊かになる」という目標が、自分の外にあったからではないでしょうか。
 
 今の若者は、「工場」というリアルな目標を与えられることがなく、大人からは「目標を持て」と責められる。しかし、彼らの「外」には目標を設定すべき根拠が喪失しているのです。このような状況では、彼らは自分自身の「内」に目標の根拠を設定せざるをえなくなりました。
 そのように自分自身の内側にあるような目標は、流動的であったり、一貫性が無かったり、社会的に認められているものとは限らなかったりします。それゆえ、外部からは「ふがいない」と映る事も多いのです。
 
 しかし、日本の若者も、恐らくは、中国の若者達と同じように「歩いている」。
 中国の若者達のように、その方向性はそろっているとは言えないかも知れない。
 けれどそのうち、彼らのランダム・ウォークの中から、新しい方向性が生まれてくると、僕はそう期待します。