新自由主義政策が掲げるような市場原理に基づく競争が行われるためには、人は消費者という機関としての役割を果たさなければならない。
 地域的なコミュニティが有機的に機能していた時代は、人がとる消費行動は、単なる消費ではなく、そこには地域のコミュニケーションも含まれていた。
 そういった旧来型の消費から、純粋に経済活動としての消費への移行が急速に進んでいる。市場原理に基づく消費活動には「消費者」と「販売者」との間にコミュニティという概念が介在してはいけないからだ。
 コミュニティが消費活動に与える「負」の側面は、その代表的なものとして「談合」が挙げられるだろう。このような「不正」を排除するために地域の枠を取り払った「一般競争入札」の導入が求められているが、さて、確かにそれが実施されるとコストダウンは図れるかも知れないが、地域産業は外部の大企業によって大打撃を与えられ、地方自治体がかえって疲弊するという構図が生まれはしないだろうか。
 痛し痒しといったところだろう。

 そういえば、安部首相は公教育に市場原理の導入を本気で考えているらしい。バウチャー制度という、イギリスで教育格差を拡大したという弊害が指摘されているような制度を取り入れ、子どもや親が(主に親だろうが)学校を自由に選ぶことができるようにするという。 
 正直なところ、「ふーん」といった感想しかない。
 態度表明するにはちょっと情報が少ないので、別段賛成とも反対とも言えない。
 ただ、大いに懸念は感じている。

 まず、根本的な疑問として、教育が新自由主義的市場原理に馴染むのか、という懸念がある。先に考察したような新自由主義的な市場原理にそのまま教育を投げ込んだ場合、生徒や親は「消費者」という機関になる。平たく言えば学校から見て「客」になるのだ。このことがもたらす状況にはメリットとデメリットが存在するだろう。例を挙げればメリットとしては学校がこれまでよりも外に向けて様々な情報を発信していくだろうし、外部からの要求にも耳を傾ける必要が増すだろう。デメリットは、「教師-生徒」の関係が従来よりもビジネスライクになることが考えられる。(それほどデメリットではないかもしれないが。)
 それから、「消費者」であるということは、何かを購入したりサービスを受けたりするわけだが、そのような消費行動は基本的に受け身だ。しかし、学習とは個人の能動的な作業である。それゆえ、どのような「教材」を購入しても、様々な教育的サービスを提供されても、学習者が「消費者」という立場でいるとすれば、本質的に主体的な学習は望めない。もっとも、主体的に学習することのない「消費者」としての国民を育成することが目的であればそれでもかまないだろう。

 そう考えると、もしも「主体的な」国民を育成しようとするなら、生徒や親に学校を「選ばせない」方がいいかもしれない。校区をがちがちに固定して、高校くらいまでは自分が行く学校が決まっているのだ。ただし、学校運営には自治体の教育委員会や校区の代表者などに大きな権限を与える。ともかく子どもはその学校に行くしかないのだから、親は自分達で学校を良くしていくしかない。積極的に学校運営に関わることで「消費者」ではなくコミュニティの一員としての責任を果たしていく。また、自分達も学校運営にも責任の一端があると思えば、学校に対する理不尽な要求や過度な批判は少なくなるだろう。
 このように親が主体性を持つようになると子どもも変化することが期待される。ともかく「そこ」でなんとかするしかないのだから、友達や先生や学習に対して柔軟に対処していくしかない。また、地域のコミュニティが積極的に学校に関わってくれているなら、子ども達は学校の中においても「地域の一員」としての自覚と行動を自然と身につけていくだろう。

 と、まあ、夢みたいなことを書いてはみたが、よく考えてみると肝心の「地域のコミュニティ」が新自由主義的市場原理によってすっかり個人に分断され、国民はすべからく「消費者」としての役割を果たす機関になってしまっている現状では、親は学校に「消費者」としての要求はするが、運営上の責任を取るという概念など、奇異なものとして受け止められるのが関の山だろう。
 そのような現状での「教育の再生」である。正直なところ、何をどうすればいいのかのアイディアさえ浮かばない。

 少し話がずれたが、最後にもうひとつ懸念を表明しておくと、仮に教育に市場原理が持ち込まれたとしても、田舎の学校では、つまり通学が可能な地域にな学校が1校しかないような所では、選択が起こりようがないことだ。純粋に市場原理という観点からいけば、このような田舎はマーケットから外される。つまり、「見えない」状況に置かれる可能性が大きいことだ。更に困ったことには、現在の市場原理は田舎にも確実に浸透しているため、名目上は市場原理の中に置かれた学校に対して、たとえその1校しか「選択」がないにせよ、親は消費者としての行動を取らざるをえない。田舎の学校は市場原理上の不可視の状態に置かれ、都市と地域の格差はどんどん拡大していく。

 なんだ、結局は教育に市場原理を導入することに反対しているのではないか、という批判が聞こえてきそうだが、確かに、あえて賛成か反対かを選ばなければならないとすれば、「反対」に一票を入れる。ただ、それはどちらかというと地域のコミュニティが教育力を持っていた時代へのノスタルジックな思いからくるものであり、果たしてここまで市場原理が浸透した現代において、時計の針を逆回転させるようなやり方が有効であるのかを疑わしく思う気持ちがどうしても拭い去れないのだ。

 さりとて、前述したとおり、では現在の市場原理に基づいた教育がいかにあるべきか、についてのアイディアがあるわけではない。もっとも、以前に「エリート教育」を行うとすればいかにあるべきか、についての考察は行ったことがある。しかしその時も僕は現代の市場原理主義の要請であると思われる「スペシャリスト教育」については「No」を表明している。

 ともかく、政府の方では特別な委員会を設けて、検討を開始したという。半年ぐらいで中間答申が出されると言うから、それを見て、このなんとも歯切れの悪い考察の続きを行いたいと思う。