青少年が関わる凶悪事件に関連して、「今の子供は得体が知れない」といった感想が多く聞かれますが、僕は“今の”子供を、“以前の”子供とは異なる何か得体の知れないものと考える事には違和感を感じます。

 なぜ今の子供が「得体の知れない怪物」であるのかと考えてみますと、そこには「子供を理解することができる」という、根拠の無い期待が裏切られた時に子供達に貼り付けられたレッテルがあるのだと思うのです。
  
 ではなぜ子供達にそういうレッテルを貼ろうとするのか。

 そうしておくと安心できるからです。

 「理解できないもの」という奇妙なレッテルなのですが、ともかく何かのカテゴリーに放り込んで、そのように分類することで、「理解できる」からです。
 そしてもう一つ、このレッテルの効果は、「理解できない」子供を自分の世界に組み込まなくても済むようになることです。
 更に最近は、「発達障害」というよくわからないくくりで、「落ち着きがない」「勉強ができない」「人(大人)の言うことをきかない」という、従来は「子ども」として十分に受け入れられていた状況を、恣意的に除外しようとする状況があるようなのです。ただ、「発達障害」の問題は、ここで単純に弾劾することができるような問題ではありませんので、また別の考察に譲りたいと思います。

 僕は、「子ども」を何らかの「子どもらしさ」の原型にあてはまるように対象化するのではなく、家庭や社会の中で、「子供」は子供ではなく、つまり「理解」や「保護」の対象としてではなく、「家族(社会)の一員」として扱われるようになることが必要だと思っています。
 地域社会は、子供を様々な形で地域の一員として組み込んでいくべきでしょう。子供だけを集めてボランティアや行事を行うのではなく、大人の活動にそのまま組み込んでいく事が大切です。
 必要なのは、「子供対策」ではなく、「社会を子供に開く方策」だと思います。「子供」を、社会の中に受け入れなければならないと思うのです。

 ところで、「子供を社会の中に受け入れなければならない」という主張は、『子供』の発見以前の中世時代に戻ろうとするノスタルジーが暗に含まれているのではないかと感じられる方もいらっしゃるかもしれません。
 確かに、「子供」は近代において「発見」された概念です。 ちょっと脱線しますと、宗教画に描かれる「子供」を、年代順に並べると大変興味深いことに気がつきます。ルネサンス以前の「子供」は、単に「大人」顔を小さくしただけのものでした。「子供」の顔が、「大人」のそれと明らかに異なる特徴を持って描かれるのは、ルネサンス以降です。
 
 子供が「発見」されたことで、子供が社会から脱コンテクスト化されることになります。その象徴的なシステムが「学校」です。(このことについては、以前、『「知」が再コンテクスト化される近未来』という文章を書いて僕の考えを述べています。下記にリンクしますので、もしも興味がおありなら参照ください。)

 近代以降、子供が社会から脱コンテクスト化された「学校」というシステムの中で「学力」を身につけされられるようになるに従い、子供達が「社会力」とでも表現されるような力をつける機会が失われるようになってきたと思われるのです。

 もちろん、僕が主張している「子供を社会に戻せ」というのは、何も近代以前の社会状況を望んでいるのではありません。
 僕は、子供に「社会力」が必要無いのであれば、今のシステムに何の文句もありません。実際、「社会力」が無くとも、子供達は良い「消費者」にはなってくれます。そして良い「消費者」であることは、現代社会では必要にして十分な要請だったのです。(最近の青少年が関係する犯罪についてのコメントで、僕が唯一同意したのは「彼ら(子供達)は暴力を『消費』するだけです。『消費』の欲望にはきりがありません。だから際限なく暴力を続けるのです。人間関係を『創造』しようという意欲が無いのです」というものでした。)

 しかし、これからの近未来を考えたとき、人は、社会にとって単なる「消費者」としての機能だけではなく、社会の「創造性」の一翼を担う事ができるような「社会力」が必要になると思うのです。

 ところで最近、デパートに立ち寄った時に驚いた事なのですが、新入学セールのランドセルを背負った子どものマネキンの顔が、完全なマンガになっていたのです。
 以前は、子どものマネキンの顔は、それでも、ちゃんと現実の子どものように作られていたのです。ところが今はマンガです。目が異様に大きく、鼻はのっぺりとした二次元の印刷された顔が、マネキンに貼り付けられていました。
 
 恐ろしい危惧なのですが、現在の親は、子どもをちゃんと「見ている」のでしょうか。リアルに存在する我が子よりも、「子ども」の原型たる「マンガ」の登場人物を通して見ているのではないかと、あのマネキンを見て空恐ろしくなりました。
 ルネサンス期に「発見」された子どもは、「マンガ」という原型に押し込められようとしています。これでは、現実に存在する子ども達が「得体の知れないもの」であるのは当然なのです。

 文字通り、得体の知れない「子ども」という原型を、子ども達に押しつけるのはそろそろ改めるべきではないでしょうか。