彼女が見えなくなった後も、彼は長い間、全く動かなかった。
 頭の中を、様々な思いが交錯し、収拾がつかなかった。
 
 やがて彼は、よたよたと動きだし、彼女を助けたために大きな穴が開いた巣の補修を始めた。特にそうしようと思った訳ではない。壊れた巣を補修するという、蜘蛛としての習性に従っただけのことだった。
 
 全てが終わり、そう、まさに全てが終わり、彼は葉陰に引き返した。
 疲れ切っていた。痛いほどの空腹は、全く治まらない。このまま死んでしまいそうだった。けれど、今、彼は生きることも、死ぬことも考えていなかった。
 彼はそのまま、眠った。



 朝の光を感じ、彼は目覚めた。そして、もそもそと葉陰から這い出し、巣を見た。
 「あ・・・。」
 彼の巣は、朝露を浴び、太陽の光を反射して、糸の一本一本が光り輝いていたのである。
 彼はそれを「美しい」と感じた。



 それから彼は、それまでと変わらぬ生活を続けた。
 相変わらずいつも腹ぺこであった。
 時折巣にかかる羽虫達のおかげで、生きていることができた。

 この頃、彼は考えるようになった。
 
 結局、自分は元の場所に戻っただけの事なんだ。ただそれは決して無意味なことなんかじゃない。彼女に出会わなかったら、喜びの意味も、悲しみの意味も、自分が自分であるという事すら知らずに過ごしていただろう。
 
 あの時、どうして僕は彼女を助けたのか。そうだな、多分、僕はあの時、優しかったんだと思う。本当の優しさは、もしかすると腹ぺこの時に現れるのかもしれないな。
 
 今は、老羽虫たちのあの表情が、なんとなく理解できる。彼らは、自分自身を全うした事を、あの時悟ったんだ。僕も、蜘蛛としての自分を全うしよう。そうすれば、生きることと死ぬことの区別など、なくなるのだから。
 
 今、僕は自分の世界を以前よりもリアルに感じている。それは、自分の巣を作品だと思っていたアンリアルな幻想を包括して、自分の中に取り込んだからなんだ。リアルもアンリアルも、結局の所は、自分自身に帰結するんだ。

  
 彼は、朝露の光が輝く自分の巣を見る事を楽しみにするようになった。彼はその美しさを感じながら、何だか、自分を好きになれそうな気がした。

 
 
 今日も、腹を空かせた一匹の蜘蛛が、8つの青い葉に糸をかけていた。


 (おわり)