(2004年3月に書いたものです) 

 「死者に鞭打つ」事は、あまり好ましい行いではないと、一般には考えられているようです。しかし、今回、僕はあえて死者を鞭打ちたいと思います。

 先日、養鶏業者の会長が自殺したというニュースが流れていました。鶏の大量死の通報が遅れ、結果的に鳥インフルエンザを周囲に蔓延させたことを苦にしての自殺だと言われています。

 僕はこのニュースを聞いたとき、「なんという無責任な行動だ!」という怒りを覚えました。
 この「事件」に関しては、現在もなぜ通報が遅れたのか、養鶏業者の判断はどのような経緯で行われたのかについての解明が、まだ十分になされていないようです。鳥インフルエンザの蔓延が収束しているとは言い難い現在、第2、第3の類似した事例が発生しないように、会長以下養鶏業者の責任者達は、事実を明るみにすることに努めるべきでしょう。

 個人的な印象ですが、この自殺した会長は、自らの命を絶つことによって、「けじめ」をつけようとしたのではないかと思えます。
 実際に鶏の出荷の指示を行ったのが会長とはとても思えないのですが、それでも、会長である自分が命を絶つことにより、社長以下、事業全体の社会的な追求を少しでもかわしたいとの願いがあったのではないでしょうか。

 実際に、テレビ報道で見る限りでは、会長の自殺に関してのコメントを求められた小泉首相をはじめとした人々は、事件の真相究明に支障をきたすことを心配しながらも、「追いつめられて、心労が重なったのかもしれませんね」と、一様に哀悼の意を表明していました。

 いわば、会長は「切腹」したのです。
 昔から、日本人は「けじめ」という概念を大切にしていました。そして自らの命を絶つ「切腹」は、「けじめ」の最高形態とされてきました。今でも、「俺が腹を切るよ」という言葉は、何らかの不祥事の責任を自分が一身にかぶることを意味しています。そして、ほとんどの場合、それで「けじめ」をつけて、何事もなかったように以後の事態を進めるという意図があります。
 しかし、「けじめをつける」という行為は、ものの本によりますと、日本特有の価値観で、この言葉を翻訳することは大変に難しいそうです。

 僕は、死によって「けじめ」をつける事を是とする風潮には、否を突きつけたいと思うのです。
 もう、そのような価値観による犠牲者を出すべきではないと思うのです。

 「死」は、決して「けじめ」などではない。
 「けじめ」という概念を残すなら、それは生きて行う行為にこそ是の判断を行うべきだと思うのです。

 無責任な死は、鞭打つべきです。
 それが、これから「切腹」を行おうと考える人たちへの抑止となると思うのです。

 
 追記:先日もライブドア関連会社の元社長が自殺したというニュースが流れていました。絶望感にさいなまれたのかもしれませんが、やはり無責任のそしりは免れないと思います。開き直りでもなんでもいいから、生き残って、本当は何が起こっていたのか、彼は語るべきだったと思います。