私の持つ「エリート」という言葉の印象は、『頭はいい。しかし人格もいいとは限らない。』という、どちらかといえばネガティブなものである。しかしこの印象は、現在の一般的な「エリート」に対しての印象ではないだろうか。もしもだれかが私に「エリートになりたいか?」と尋ねたら、「No」と返事をするだろう。しかしその反応に論理的な理由があるわけではなく、現在の社会全体が「エリート(という言葉)」に対して否定的である、という私が持つ印象からそうさせるものなのだ。
 
 社会が持つ「エリート」への反感と否定がいつごろ生じたのかについては、竹内洋著「学歴貴族の栄光と挫折」によれば、昭和40年代頃からの「学歴インフレ」と「大学紛争」が契機になったようである。ただ竹内によれば、大学紛争は学歴貴族文化への「絶望的求愛」であったとしている。すなわち「学歴インフレ」の時代にあり、自分たちはかつて学歴貴族が位置した場所にいるにも関わらず、将来は「大衆サラリーマン」にならざるを得ないという現実が、ルサンチマンとして旧学歴貴族である大学教授などの文化人に向けられたというのである。
 
 しかし竹内の言うとおりであれば、エリートに対しての(倒錯した)羨望はその後も残存していることになる。

 確かに、エリートに対しての社会的な羨望のまなざしは、大学紛争が内部分裂を起こして終息したこともあり、その後しばらくは生き残っていたのではないかと思う。ではどうして現在、「エリート」に対して社会が否定的なのか。それについて私は、昭和60年頃から現在も続いている「エリート」の醜態が、エリートへの羨望を最終的に消滅させたのだと思っている。エリート文化を消滅させたのは、他ならぬ「エリート」だったのである。
 
 ただ正確には、上記の事態はエリート文化をエリートが消滅させたのではなく、本来エリートとはいえない者が「エリート」と呼ばれるようになった事が「エリート」への否定的な社会的なまなざしを招いたと思う。つまり、昭和40年代から60年代にかけての高度経済成長期に「エリート観の転換」が起きているのである。かつての大学紛争前のエリートは、竹内の言葉を借りれば「学歴貴族(エリート)」として、全人的教養を身に付けた者であったのに対し、昭和40年代からの「エリート」は、その中身は「受験エリート」と称すべきものになった。このことから、「エリート」という言葉の印象として『頭はいい。しかし人格もいいとは限らない。』が社会一般の認識となってしまったのではないだろうか。
 
 それでは、本来の意味でのエリートを育成するための「エリート教育」は必要だろうか。もっと本質的には、これからの社会にエリートは必要だろうか。

 現在、「エリート教育」についての議論が盛んであるが、その印象として、「エリート教育」を積極的に導入しようとする動きは、主に産業界からの要請のように思える。
 1996年の経団連が出した提言『創造的な人材の育成に向けて』では、現在の教育について『平均的な教育レベルの引き上げを目指す現在の教育の下では、子供は、一定の学力水準を維持できない限り、特定分野でいかに優れた特質をもっていても、その素質を開花できずに終わってしまう。』と批判し、『世界をリードする真に独創的な人材を育てるには、従来の一律、平均的な教育に固執することなく、優れた素質・才能を早期に見出して、これを集中的に伸ばしていくための教育を試みる必要がある』という提言を行っている。経団連が目指す『これからの社会と人材育成(同報告)』によれば、経済の分野で『ノーベル賞級の独創的な研究開発を行う人材が、わが国の研究水準を飛躍的に高め』、社会においては『才能にあふれる人々が、文化や芸術など人類共通の知的資産の充実に寄与し』、『政治・行政の分野では、構想力・洞察力に優れた人材が、多極化する世界システムの中にあって、わが国の将来を見通し、進むべき道筋を定め、政策を実践していく』とある。ちなみに、『教育界では、一人ひとりの子供を十分に理解する鋭い感性を持った教育者が、子供の個性や能力を引出し、次代を担える人材に育てていく』とあるが、教育の分野で出てくる「人材」と、それ以外のいわば「エリート」としての「人材」との重なりが少し気にかかる。明らかにはじめの3つは「人材」=「エリート」と読み替えることができるが、教育分野の提言での「人材」は、必ずしもエリートとは重なっていないだろう。ここでは、もっと広い意味での適(人)材適所、くだけて言えば「エリート」とそれ以外の選別と、それぞれの「個に応じた」教育を求めているのだと思われる。
 
 ところで、この経団連提言が求めるエリート像とは、いったいどのようなものだろうか。提言では、「エリート」という言葉は使っていない。これは恐らく社会の「エリート」という言葉に対する拒否反応を考慮してのことだろうが、前述したようにほとんどの文脈で「人材」=「エリート」と読み替えてよさそうである。こうしてみると、『創造的な人材の要件』の項にある『創造的な人材とは、自己の責任の下に、主体的に行動する人材』というのが、経団連の求める「エリート像」であるようだ。この後に『さらに、独創性を持つ人材をいかに見いだし育成していくかも重要である』と続いていることから、このような「人材」を育成する「エリート教育」を念頭においていることは間違いない。
 私は、エリート教育について、さほど否定的な考えを持っていない。しかし、経団連提言が述べる「エリート教育」には懐疑的である。経団連の言う『自己の責任の下に、主体的に行動する人材』というのがあまりにもエリートの定義として貧弱すぎるからだ。

 端的に言えば、経団連が目指しているのは、エリート教育ではなく、スペシャリスト教育なのである。
 スペシャリスト、つまり一芸に秀でた者を育成することで、これからの日本社会を牽引してもらおうというわけである。エリートは、受験エリートから今度はスペシャリストに変化してしまったのである。そしてこのスペシャリスト育成は、基本的には現在の社会システムの延命を目指すものなのである。なぜならば、経団連の言うスペシャリスト教育は、つまるところ、これまでの「受験エリート教育」をさらに細分化しただけのことにすぎないのだから。

 ほとんどの「エリート教育」論が、この経団連提言とほぼ異口同音であることから、「」のとれたエリート教育の議論は、実のところ現在はほとんどなされていないことになる。