『勝ち組』と呼ばれる一部の裕福層が、明確な社会貢献を打ち出さない理由は、奇妙に聞こえるかもしれないが、この世の中が「自由」で「平等」だと教わっているからである。
 チャンスが全ての人に与えられているフィールドにおいての勝利者たる『勝ち組』にとって、社会貢献は必ずしも彼らの責務ではない。また、あえてそれを行おうとすると、「勝者」が「敗者」に与える「施し」のように映る危険性もある。「成り上がり」が金をばらまいたとて、世間からの敬意を受けられるとは限らない。

 高いレベルでの社会貢献を行うことができるだけの能力と有形・無形の資本を持ち、しかもそれを実行することが自分自身の責務であると自覚している個人として『エリート』が考えられる。そういった意味では、『勝ち組』は『エリート』ではない。
 では個人主義的な『勝ち組』ではなく『エリート』を育成すれば、『勝ち組』『負け組』という社会の分断は防げるだろうか。
 僕は、この問いに関しては悲観的な考えを持っているが、その結果は楽観視している。 悲観的な考えというのは、現在のような「自由」で「平等」な教育システムでは、『エリート』の育成は困難だということだ。
 事実上全ての子ども達が学校システムの中で「競争」にさらされている事は、とりもなおざず現在の学校システムが「自由」で「平等」である事を意味している。しかし、「競争」を勝ち抜いてきた子ども達は、『勝ち組候補生』にしかならない。「自分は遊びたいのを我慢して一生懸命勉強したから、今の地位に就けたのだ」と言う上級幹部は多い。
 それでもまだ、人の個性や能力は一人ひとり異なる、ということを開き直ってしまえばいいかもしれないが、いかんせん「やればできる」やら「努力が大事」といった無責任な平等主義がはびこっている。

 ここで少し断りを入れておきたいが、僕は決して、「自由」「平等」「努力」といったものを全面否定するつもりはない。確かにこれらの概念が、今日の社会を形成する上で大変重要な指針になってくれたからだ。そして恐らくはまだ、様々な偏見や差別が存在している以上、これらの概念の役割は終わっていない。
 しかしもともと、「自由」と「平等」というのは、社会的な概念として発生している。そしてこれらの基礎的なバックボーンのもとで個人の「努力」が報われるという信念が、現在の社会を形成してきたと言っていいのではないか。
 そういう、本来社会的な概念だった「自由」と「平等」を、個人主義的な概念にまで押し広めて解釈してしまっていることが、現代社会の多くの歪みを生み出していると思うのだ。その象徴的な現象が、『勝ち組』と『負け組』の分断である。

 『勝ち組』と『負け組』の分断とは、文字通りの「分断」である。つまりもともと、「自由」で「平等」(だと思われている)なフィールドにおいて混在していた個人や組織が、競争原理によって勝者と敗者に分けられる。
 何のことはない、これは先に述べたように、現在の学校システムを思い浮かべてもらえばいいことなのだ。
 
 さて、ここで僕は、二つの未来像を提示してみたい。
 一つは、これまで通り「自由」と「平等」を個人主義にまで推し進めて(「自己責任」という政治的造語がもてはやされている)、『勝ち組』と『負け組』の分断を広げていくこと。この方向性は、一般に『新自由主義』と呼ばれている。アメリカが先行し、日本が追随している方向だ。
 もう一つは、どこかの段階で、個人の社会的地位が、個人の能力だけでは「自由」にならないところまで来ている、と認めてしまうこと。つまり、日本に「階級社会」が生じたという前提で社会の再構築を模索すること。

 正直に言って、こう書きながら、どちらもあまりゾッとする未来じゃないな、という感じは否めない。もっとマシな提案はないのか、という声が聞こえてきそうだが、ユートピアのような理想郷を提案する事はできても、それを穏健な方法で(個人の「自覚」に任せるといったような!)実現しようなどと考えるのは、よほどの理想主義者か楽天家だろう。個人的には、逆説的な意味で現在の地球上で最もユートピアに近い国は、北朝鮮だと思う。
 
 さて、そこで先に提案した二つの未来だが、一方は現状維持だがそこで発生する歪みについては「しかたがないこと」として放置してしまおうとする態度。もう一方は歪みそのものを社会に組み込んでしまおうとする態度である。
 僕は、後者の方向に進むことが「まだマシ」だと思っている。なぜなら、個人的なレベルでの「自由」と「平等」を犠牲にしても、社会の分断は防ぐべきだと考えているからだ。

 再度、断りを入れておいた方がいいだろう。
 先に書いた『個人的なレベルでの「自由」と「平等」を犠牲にする』とは、「個人の立場は『自由』で『平等』な状態にある」という現在の社会認識から、「個人はもはや『自由』で『平等』な状態に置かれていない」という認識に変更する、という意味である。この認識の上で、様々な施策を行っていくべきだと思うのだ。

  現代社会は、「自由」と「平等」という両親から、「努力」という長子を生み出した。この長子は現代社会の発展の礎となる「優等生」だった。
 しかし現在、『勝ち組』『負け組』の分断という「格差社会」が、「自由」と「平等」の鬼子として登場した。
 我々は、この鬼子を認知するべきだろう。